ファラールの舞曲

第六話 「信じうる理由を」 (後)

 廊下に響く足音が徐々に小さくなり、ゼジッテリカは心底安堵の息を漏らした。やはり知らない人というのは苦手だ。特に鋭い何かを内に隠している大人は、近くにいるだけでも疲れてしまう。
「リリーっていっつもああなんだよね。気にくわないことがあるとすぐ逃げるの」
 するとリリディアムの姿が見えなくなったのを確認して、マラーヤは苦笑いをこぼした。リリーというのは愛称だろう。ずいぶん仲が良さそうだ。
 シィラの陰から少し離れたゼジッテリカは、マラーヤの顔をちらりと見上げた。どちらかと言えば人懐っこいタイプのマラーヤならば、誰とでもすぐに親しくなれるだろう。付き合いづらそうな女性が相手でも平気なのかもしれない。
「知り合いなんですか?」
 そこで笑顔のままそう尋ねたシィラが、かすかに首を傾げた。しかしそれは嫌な問いだったのだろう。聞かれたマラーヤは嫌そうに口の端を上げると、大袈裟なため息をつく。その頭が縦に振られて、赤毛の髪が揺れた。
「時々仕事がいっしょになるの。あたしもあいつもここらで割のいい仕事狙ってるからねえ、仕方のないことだけどさ。あ、だから実力は保証するよ。リリーの補助系の腕はかなりのものだから。性格はあんなんだけどさ」
 呆れてるのか自慢してるのかわからない口調で、マラーヤはそう告げた。なるほど、ここに来る前からの知り合いだったらしい。ゼジッテリカは流れの技使いの事情をよく知らないが、同じような仕事を狙っていれば顔を合わせることも多いのだろう。皆が互いを全く知らないわけではないのだ。もっともシィラのことを知っている者はいないようだったが。
「それは頼もしいですね」
「でも、リリーはあんたのことを疑ってるわ」
 笑みを深くしてそう返したシィラに、マラーヤは抑揚のない一言を浴びせた。疑う。それは先ほどからずっとゼジッテリカが気にかけていることだ。それをマラーヤから直接口にされて、ゼジッテリカの気持ちは一気にしぼんだ。
 シィラは何故か疑われている。何故だか皆に疑われている。しかしマラーヤの話を聞いて一つわかったことがあった。皆が疑うのはシィラのことを誰も知らないせいだ。
 実力がありかつ目立つ容姿であるにもかかわらず、シィラのことは全く知られていない。だから怪しいのだ。これだけの数の護衛がいるのにその誰とも顔を合わせたことがない、そんなことがあるのだろうか、と。
「はい、そのようですね」
 だがシィラはやはり涼しい顔で、そうあっさりと返答した。予想通りの反応だ。が、マラーヤにとってはそうではなかったのだろう。目を見開いた彼女は口をぱくぱくさせると、一歩シィラへと近づいた。そしてその肩を右手で掴んで数度揺さぶる。
「な、なんでそんな平気そうな顔してるのよあんたは! みんなよみんな、リリーだけじゃあないのよっ!? ……あんたがただ実力と性別だけで直接護衛に選ばれたことも、気にくわないみたいなのよ」
 はじめはまくし立てるように、その後次第に落ち着いてきたのか徐々にトーンを落として、マラーヤはそう言った。その間もシィラは微笑んでいた。
 ただ少し困ったような微笑はその内心を悟らせないもので。見慣れていなければ困惑しているのか呆れているのかとも勘違いするかもしれないが、そのどちらでもないのだとゼジッテリカはわかっていた。マラーヤが気づいているのかどうかは、それは見ただけではわからない。
 だからゼジッテリカは黙って二人の様子を眺めた。口を挟んでも無駄な気がした。それにゼジッテリカの聞きたいことは、きっとマラーヤが代わりに尋ねてくれるだろう。たぶん今、二人の気持ちは同じだ。
「そう言われても、ですよね。それ以外に何で選べと仰るつもりなんでしょうか?」
「だーかーら、何であんたはそんなに冷静なのよ。確かにそうだけど。でもいいの? あんたは魔物じゃないかって、魔物が化けてるんじゃないかって疑ってるのよ、みんなは。魔物なら実力あるのも当たり前だからね」
「そんなこと仰ったら、誰だってその対象になってしまいますのにねえ」
 何とか危機的な事態をわからせようとするマラーヤに、シィラはのほほんとした声音で答え続けた。これではさすがのマラーヤもまいってしまうだろう。
 無意味に手を上下させたり指を動かしていたマラーヤは、全ての動作を止めるとがっくり肩を下ろした。その横顔には疲れがにじみ出ている。ちょっとばかり同情したくなったゼジッテリカは、しかし声はかけられずに顔だけしかめた。
「あんた、本当に冷静ね」
「慣れてるんです」
 ぼやくように言ったマラーヤに、シィラは微笑んだまま簡潔にそう口にした。そこには寂しさも憂いも含まれていない。ただ淡々とした響きだけがあった。顔を上げたマラーヤは、訝しげに片眉を跳ね上げる。ゼジッテリカは固唾を呑んだ。
 シィラが何者かを、二人は知らなかった。いや、誰も知らなかった。魔物ではないと信じているが、しかしどういった仕事をしてきたのか、どういった理由で流れの技使いになったのか、聞いたこともなかった。
 ゼジッテリカはいつも自分のことばかり話していて、シィラの話を聞いていなかったのだ。その事実に気がついてゼジッテリカは愕然とした。普通護衛が身の上話などするとは思わないが、しかしシィラのことなら知りたいと思うのに。
「シィラ、あんた――」
「ほら、私はこんな見た目ですから? 仕方ないんですよ」
 だが戸惑いの空気を、一瞬でシィラの声が消し去った。春を連想させる明るい声、笑顔。それが重たい空気をあっという間に払拭してしまった。きっとそれ以外にも何かあるはずなのに。それだけのことでは、こう強くはあれないはずなのに。なのにそんなことを感じさせない空気を纏ってしまうのだ、シィラは。
 シィラが天使ならいいなと、正直ゼジッテリカは思った、何かの理由で地上に降りてきた天使。そう思えたらシィラが強いのも優しいのも、見返りなしに愛情をくれるのも、全部納得できるのだ。納得して安心して甘えることができる。
「それに私のことを信じてくれる人が一人でもいれば、それで私は十分なんですから。だから今はむしろ幸せな方ですよ?」
 するとシィラはそう言って軽く片目を瞑った。そのちょっと悪戯っぽい笑顔に、マラーヤは言葉を失ったようだ。もともと喋る気のないゼジッテリカはただ頭を傾ける。何故シィラがそんな顔をするのかわからなかった。どうしてそんなに嬉しそうなのか、楽しそうなのか。
「そ、それは、ゼジッテリカ様に信じてもらってるから?」
 このまま黙っていてはいけないと焦ったのか、無理矢理マラーヤは声を絞り出した。しかし突然名前を出されたゼジッテリカは、どう反応していいのかわからずに狼狽える。自覚があるだけに、シィラを信じていないとは口にできない。けれども肯定するのも何だか恥ずかしかった。何故信じてるのかと聞かれたら、曖昧な返答しかできないのだし。
「それもそうですが。でも今嬉しいのはマランさんが信じてくださってるからですよ?」
「……なっ!? い、いつあたしがそんなこと言った!? ちょっと、勝手に決めつけないでよ!」
 けれどもすぐにマラーヤが慌ててくれたおかげで、ゼジッテリカはほんの少しだけ冷静になった。満面の笑みを向けられたマラーヤは、顔を赤くして魚のように口を開閉させている。ゼジッテリカにはその気持ちがよくわかった。シィラは恥ずかしくなるようなことを平気で告げるのだ。マラーヤだってこんな体験は滅多にしていないに違いない。
「だって私のこと心配してくださってるでしょう? もし私のことを疑ってるなら、こんなこと言っても得しませんから」
「あ、あんたの出方をうかがってる、って考え方はないの?」
「それはないですね。出方をうかがうだけなら、もっと頭のいいやり方がありますから」
 肩で荒い呼吸を繰り返すマラーヤに、シィラはくすりと笑い声を漏らした。完全にシィラのペースだ。こういうやりとりを見ると、やはりシィラはかなり年上なのではないかという気がしてくる。
 見た目は二十歳かそこら、いや、もっと若く見えるくらいだが、物腰は落ち着いているし何事にも動じなかった。マラーヤの年をゼジッテリカは知らないが、それよりは上だろうとは確信できる。
「あんた、時折すごく嫌味ね」
 呼吸を整えたマラーヤは、苦々しげな声でそう言った。振り回されたことを自覚しているのだろう、その瞳にはやや自嘲の色が見え隠れしている。そんなマラーヤを見つめてからシィラはゆっくり首を横に振った。
「正直なだけです。せめて口にすることくらいは、偽りなきものにしたいので」
 つぶやくようなその言葉は、何故だかゼジッテリカの胸に奥深く突き刺さった。先ほどと同じ表情、同じ声音なのに、不思議と切なさと儚さをもって胸に響いた。シィラが消えてしまう。何故かそう感じたゼジッテリカは、思わず手を伸ばしてシィラの袖を掴んだ。シィラは驚いたように視線を落として、ゼジッテリカを見つめてくる。
「リカ様?」
「あ、その、つ、疲れた、私疲れたからもう部屋に帰りたいよ」
 告げる言葉に困ったゼジッテリカは、とりあえず思いついた単語を必死で並べた。かなり不自然だった。変な顔をされても仕方のないぎこちなさだった。けれども一瞬だけきょとりしたシィラは、花が咲くような笑顔を浮かべてうなずいた。もう元通りのシィラだ。安堵したゼジッテリカを引き寄せて、シィラはその頭を撫でてくる。
「申し訳ありません、気がつかなくて。今日は色々ありましたもんね、疲れますよね。それではマランさん、今日はこの辺で失礼しますね。リリディアムさんにもよろしくお伝えください」
 軽くシィラは頭を下げると、ゼジッテリカの手を引きながらマラーヤの横を通り過ぎた。シィラの歩調はゆっくりだったから、焦らなくてもすぐに横に並ぶことができる。背後からはマラーヤの複雑そうな視線が突き刺さっていた。けれどもシィラは振り返らなかった。だからゼジッテリカも振り向かなかった。
「リカ様」
「ん? 何?」
「私はすごく嬉しいんですよ。今すごく幸せなんです。それだけは忘れないでくださいね」
 前を見たままのシィラのお願いに、ゼジッテリカは答えることができなかった。ただ廊下に響く軽やかな足音に、心の重しが少しだけ減った気がした。



「失礼します」
 部屋へと入ってきた男を、テキアは顔を上げて見た。全体的にゆったりとした作りの衣服に、小さめの眼鏡が特徴的な男だ。どちらかと言えば裕福な内に入るこの星でも、眼鏡を手に入れることは容易くはない。それだけでも十分不可思議な男だが、その眼差しも妖艶だった。墨色の髪に映える緑の瞳。それが怪しい光をたたえながらテキアを見つめている。
 机に書類を置いたテキアは、おもむろに立ち上がった。
「ご苦労様です、バン殿」
「いえ、これくらいのことは」
「何か変わったことは?」
「特に何も、今のところは見あたりませんでしたよ。静かすぎるくらいですな」
 彼の名はバンという。ここらの星では有名な流れの技使いで、護衛を募集する前からテキアも知っていた。その変わった風貌も知れ渡っていて、子どもでも物知りなら見ただけで判別できる程だ。若くも見え年老いても見える不思議な男で、年齢は不詳だった。もっとも彼の名が広まってから二十年はたつから、それ以上であることは確かだが。
「そうですか」
「ところでテキア殿、ゼジッテリカ様は大丈夫でしたかな?」
「ああ、ゼジッテリカなら元気でしたよ。シィラ殿も一緒ですし」
「ああ、彼女ですか」
 ゆっくりと近づいてきたバンは、意味ありげな顔で何度かうなずいてきた。テキアよりも背が低い彼は、それなのにどこか人を見下す眼差しをよく向けてくる。今の表情はそれに似ていた。だがそうではないことも、テキアは知っていた。バンから感じ取れる『気』が全てを物語っている。
「楽しんでますね、バン殿」
「ええ、楽しいですよ。実に興味深い。テキア殿もそう思っているでしょう?」
「は、はあ」
 バンは、楽しんでいた。魔物がいつ襲い来るかもしれないという状況で、事態を楽しんでいた。笑い声を漏らしたバンは口元に左手を添える。その長い袖がゆらゆらと揺れて、衣擦れの音を立てた。それは一種の音楽のように不思議と心地よい。
「わかりますよ、わたくしには。気になりますよね、暴きたくなりますよね。嗜虐心も煽られますし、同時に愛玩したくもなります。実に不思議だ。わたくしは彼女の中に入ってみたいのです。テキア殿もそうでしょう?」
「あの、バン殿……」
「ああ、表現が卑猥でしたかな。しかしこれは偽れない感情なのです。これだけ興味深い人に出会うのは久しぶりなのですよ。彼女と会うのを楽しみにしていますよ、わたくしは」
 瞳を細めて微笑するバンに、テキアは答えを返せず眉根を寄せた。一般人からすれば、バンとシィラは同じ側の人間ということになるだろう。得体の知れない素性と強さを持ち合わせた者たち。その攻防は傍目からすれば面白いかもしれない。だが直接護衛同士のいざこざは、テキアにとってはありがたくなかった。嘆息したテキアは小さく口を開く。
「バン殿」
「なんですかな? テキア殿」
「あまり彼女と問題を起こさないでください。任務の内容は、わかっていますよね?」
「ええ、もちろんですとも、テキア殿」
 妖艶に光る緑の双眸を、テキアは横目で見た。そこにある灯火は、揺れながらも小さく燃え続けていた。



 気にかける何か。気にかかる何か。偽りの舞曲の中で、揺らぐ思いが頼りない足音を響かせる。
 信じられない、でも信じたい。その先が知りたい、知りたくない。
 風に吹かれた炎のように、時に激しく時に儚く、その思いは燃え続けている。
 これは愛?
 返らない返事に、胸がざわめく。
 愛です。
 虚無から跳ね返る言葉に、甘美な痛みが沸き起こる。苦笑が浮かぶ。
 踊っているのは誰なのか。踊らされているのは誰なのか。足並みの揃わない舞踏会は、今その序曲を終えようとしている。

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