ファラールの舞曲

第八話 「思惑」 (後)

 うやうやしく頭を下げたバンは、顔を上げると今度はシィラへと視線を向けてきた。同時にその緑の瞳が意味ありげに細められて、ゼジッテリカは思わず息を呑む。それは先ほどまで彼女に向けられていたものとは、全く別の類の眼差しだった。怪しいというよりもどこか妖艶で、何となく獣を連想させる輝きを帯びている。
 こんな風に見つめられてシィラはどう反応するのだろうか? そう思って横目で見れば、席に着いていたはずのシィラはいつの間にか立ち上がっていた。音もしなかったし、もちろんそんな気配もなかった。まるで手品でも見せられたような気分だ。
「どうも、シィラ殿」
 粘り着くようなバンの視線を、シィラは柔らかに微笑んで真っ直ぐ受け止めた。そこからは微塵も動揺など見られない。かといって気負っているというようでもなく、彼女は彼の態度など意に介してない様子でたたずんでいた。さすがだ。
「直接会うのは確か初めてでしたね。既におわかりかと思いますが、バン=リョウ=サミーです」
 バンの口角が上がった。そんな彼を、何故だかテキアは複雑な顔で見ていた。そんな風な叔父を見るのはゼジッテリカには初めてのことだ。しかも不満そうでありかつ心配そうな顔をする理由など、現状からは全く読みとれない。何かあったのだろうか? 不思議に思って首を傾げると、今度はシィラの軽やかな声が食堂に響いた。
「ええ、そうですね。初めましてバンさん」
 シィラはそう普通に挨拶を返した。それに快くしたのかバンはゆっくりとうなずいて、そして自分の話は終わったとばかりにテキアへと視線を送る。次はお前の番だとでも言うつもりだろうか。テキアはそれに苦笑してみせ、それからゼジッテリカに一瞥をくれてきた。何かうかがっているような気遣っているような、そんな眼差しだった。この表情ならよく知っている。
 ゼジッテリカは困惑した。テキアに心配させるようなことをした覚えは、今のところはなかった。いつだってシィラと一緒なのだから、気がかりになるようなことはないはずなのだ。ゼジッテリカとしては、いい子にしていたつもりだ。
「残念ながら、例の騒ぎのことならもうご存知ですよ」
 すると彼が何を気にかけているのか察したのだろう、シィラがそう告げて微苦笑を浮かべた。例の騒ぎと聞いて、ゼジッテリカは唇を軽く噛む。つまりそれは、殺された護衛の話のことに違いない。
 今のシィラの言葉で全てに合点がいった。テキアはそれを気にしてやってきたのだと思えば、納得できることだった。優しい叔父はいつだってゼジッテリカの気持ちに配慮してくれている。自分の身も危険だというのに。
「そう、ですか」
「大変なことになりましたね。私も気を引き締めなければなりません」
 声を落としたテキアに、シィラはそう言って柔らかく微笑んだ。シィラの笑顔は本当に不思議だ。同じように微笑んでいるのに、それでもその奥にある感情がわずかに透けて見える。時には憂いを含み時には純粋な喜びを表現し、けれどもそれは総じて笑顔に見えた。しかも他者を不快にさせない微笑みだ。ゼジッテリカも、シィラの笑顔を見るのは好きだ。
「ええ、そうですね」
 ならば今テキアへと向けられたものはどんな感情を含んでいるのだろうか? 答えるテキアとシィラを見比べて、ゼジッテリカは瞳を瞬かせた。
 シィラの花のような笑顔につられたのか、テキアの表情も幾分か和らいでいる。いや、微笑していると言ってもいいかもしれなかった。これは状況から考えると珍しいことだ。ゼジッテリカと同じであまり誰かと馴れ合うことが好きではないテキアは、大概難しい顔をしているか取り繕った顔しかしない。
「それは頼もしいですな、シィラ殿。あなたのような実力者が本気になれば、この事件などあっという間に解決でしょう」
 しかしバンのねっとりした声が、その場の空気を一変させた。その緑の瞳が怪しい光をたたえ、真っ直ぐシィラへと向けられる。うやうやしい口調ではあるのに、何故かそう感じさせない喋り方だった。シィラは軽く眉をひそめてちらりとだけテキアを仰ぐ。
「バンさん、それは買いかぶりです。私にそのような実力はありませんよ」
「またご謙遜を。あなたが実力試験で手を抜いていたことは、見る者が見れば明らかですぞ。今度じっくりお手合わせ願いたいくらいです」
 首を横に振るシィラに、バンは楽しげに笑って長い手を彼女の方へ向けた。その動きにあわせて袖がゆらゆらと揺れる。衣擦れの音が、かすかに鼓膜を振るわせた。シィラはその手を視界に入れると、困ったように嘆息した。そして軽く肩をすくめて口を開く。
「それはあなたも同じなのではないですか? いえ、上位の方でしたら皆そうですね。あの試験で全力を出す必要性はありませんから。それとですね、残念ながら私は無駄な争いを好みませんので」
 シィラはバンの誘いをあっさりと断った。当たり前だ。そもそも護衛同士が争うなど、百害あって一利なしなのだ。おそらくバンも口にしただけなのだろう。絶対にそうだろう。そうだろうと、ゼジッテリカは思いたかった。が、バンの双眸がそう確信させてはくれなかった。
 シィラをねめ回すような視線は得物を前にした獣と似ている。よくシィラは耐えられるなと、そう尊敬するくらいだった。
「心根穏やかな方なのですな」
 するとそうつぶやいたバンは、音もなく一歩前に出てシィラの手を取った。咄嗟のことだった。シィラはというと半身を引いただけで、その手を払い除けるつもりはないようだ。いや、様子をうかがっているというべきか。
 その光景を、ゼジッテリカは固唾を呑んで見守った。シィラが捕らえられてしまったような、そんな気持ちにさせられた。何よりバンが何をする気なのか全く予想できない。
「バンさん?」
「これはお近づきの印です」
 バンはそう囁くと、彼女の細い手の甲にそっと口づけを落とした。ゼジッテリカはあんぐりと口を開けた。そう来るとは、想像すらできなかった。見ればバンの隣にいるテキアも唖然としている。予想外だったのは彼も同じだったのだろう。
「あ、あの……」
「シィラ殿は、女性として扱われるのは慣れてませんかな? こんなに麗しいのにもったいないことです。それもまあ流れの技使いならば、仕方のないことですが」
 バンは片目を瞑って口の端を上げると、そっとシィラの手を離した。珍しくもシィラは対応に困っているようだった。複雑そうな微笑みを浮かべてバンとテキア、そしてゼジッテリカへと順に視線を送ってくる。
 シィラが困っている。それは彼女と出会ってから初めてのことだった。しかしシィラを助けたいとは思うけれど、バンを追い出すことはできそうにない。そのためにはテキアも出ていかなければならないのだから、ゼジッテリカにはそう仕向けるのは無理だった。テキアはゼジッテリカに甘いが、だからといって何でも言うことを聞いてくれるわけではないのだ。
 ならば他に方法はないだろうか? そう考えて一つの案を思いついたゼジッテリカは、その効果を考える間もなく実行に移した。立ち上がったゼジッテリカはシィラの腰にしがみつく。椅子が音を立て、フォークの落下する音がした。突然抱きつかれたシィラはバランスを崩して、左手をテーブルにつく。
「リ、リカ様?」
「シィラは私のなの!」
 ゼジッテリカは精一杯そう主張した。それにはさすがのバンも呆気にとられたのか、眼鏡の奥で緑の瞳が丸くなっていた。先ほどから驚き続きのテキアは、しかしすぐに立ち直って微苦笑だけを漏らす。
 仕方のない子どもだと思っているのかもしれないし、直接護衛と打ち解けたことに安堵しているのかもしれない。けれどもゼジッテリカにとってはそんなことはどうでもよかった。この場の空気を変えられるのならば後はどうだっていい。
「おやおや、ゼジッテリカ様もぞっこんのようですな。シィラ殿、あなたは罪深い人ですね」
「からかうのは止めてください、バンさん。リカ様も、行儀が悪いですよ? ほら、フォークも落ちてますし」
 自分のペースを取り戻したバンに、シィラはそう抗議してゼジッテリカの手に触れてきた。たしなめるような声は母親を思わせる。が、この小さな手を引きはがすつもりはないらしい。そんな些細なことが嬉しくて、ゼジッテリカは顔をほころばせた。こういう温もりはすごく安心する。
「ゼジッテリカ、シィラ殿にあまり甘えすぎるなよ。仕事の邪魔になっては意味がないのだからな」
「いいんですよ、テキア様。これくらいなら平気ですから」
 離れるそぶりがなかったからだろう、注意してくるテキアに、すぐさまシィラはそう答えて笑い声を漏らした。ゼジッテリカが文句を言うよりも早かった。まるで子守りですねというバンのつぶやきは、この際は無視だ。
 テキアのお小言も、一体どれくらいぶりだろうか。魔物に襲われるようになり不穏な空気が広がってからは、誰もゼジッテリカを叱らなくなっていた。皆命があればいいのだと、そう考えているようだった。教育なんて二の次だという雰囲気だったのだ。
「シィラ殿、くれぐれも無茶はなさらないでくださいね。ゼジッテリカの我が侭に付き合っていてはあなたが大変ですから」
「あら、テキア様が心配なさってくださるんですか? それは光栄ですけれど、私は大丈夫ですよ。私がそうしたくてやってるんですから」
 シィラはそう言いながらゼジッテリカの頭を撫でてきた。シィラの手つきは繊細で優しくて、気持ちよくて好きだ。しかしそれよりも気になることがあって、ゼジッテリカはちょっとだけ上を見た。
 テキアがどんな顔をしてるのか確かめたかった。テキアがゼジッテリカより別の人を案ずるなんて、前代未聞なのだ。父や母よりもゼジッテリカのことを気にしていたくらいなのに。
「テキア殿はゼジッテリカ様だけでなく、シィラ殿にも甘いのですな」
「……バン殿」
「おや、失礼を。ではテキア殿、そろそろ行きませんかな? ゼジッテリカ様もこのように元気だとわかったのですから、ギャロッド殿にその後の状況を確認しなければ」
 しかしすぐにテキアはバンの方へと顔を向けてしまった。その横顔はいつも見慣れている仮面のようで。結局テキアが何故そんな心境になったのかはわからず、話はこれで終わりになりそうだった。テキアは無言のままうなずいて、ちらりとだけゼジッテリカを見下ろしてくる。
「ではゼジッテリカ、早く食事を済ませて部屋に戻りなさい。シィラ殿、ゼジッテリカを頼みます」
 テキアは口早にそう告げると踵を返して歩き出した。その後ろ姿に苦笑を向けてから、バンも一礼すると去っていく。大きな扉が開けられると、二人の姿はあっという間に食堂から消えていった。それまでの騒がしさが嘘のように、静けさが部屋を満たしていく。
「ほらリカ様、いつまでもこうしていないで席についてください。フォークは新しいのをもらってきますから」
「う、うん」
 言われた通りに椅子に腰掛け、ゼジッテリカは皿を見下ろした。冷めただろう食事よりも何よりも、バンやテキアの言動の方が気にかかって仕方がなかった。バンは何故あんなにもシィラに絡んできたのか。テキアがいつもと違ったのは何故なのか。
 考えても出てこないだろう答えを求めて、ゼジッテリカはスプーンを手に取った。

◆前のページ◆  目次  ◆次のページ◆