ファラールの舞曲

第十三話 「探し求めるものは」

 静寂が支配する夕暮れ時。辺り一面が茜色に染まる時間帯だが、しかし今日に限ってそれはなかった。厚い雲が空を覆い、その隙間からかろうじて赤々とした光が漏れてきている。それでも辺りに立ちこめる独特の気配は相変わらずで、誰もが突っ立ったまま切なげな顔をしていた。
 そんな護衛たちを後目に、アースは歩いていた。部隊長として時折見張りの者に声をかけるのが、その本来の目的だ。だが声をかけることはせずに、彼はひたすら黙って歩き続けていた。
 わざわざ聞かなくとも、異変などなかったことはわかる。また彼が姿を見せたことで、緊張感を取り戻していることも明白だった。それらは一瞥しただけでも判断できること。ならば何故わざわざ話しかける必要があるのだろうか?
「馴れ合いなど、意味をなさないのにな」
 揶揄のこもったつぶやきを、アースは歩を緩めることなく口にした。仲違いが致命傷に繋がることは理解できるが、しかし赤の他人と親しくしても利があるとは思えなかった。せいぜい足を引っ張り合わなければいいのだ。ファミィール家を守るだけなら、それで全ては事足りる。
「……ん?」
 けれどもそこまで考えたところで、彼は唐突に歩みを止めた。自分の思考に違和感を覚えたためではない。無意識に探っていた周囲の気に、ぼんやりとした異変を感じたからだ。彼は顔を上げると周囲を見回す。そこには依然として、重たげな雲が広がっているだけだった。特に先ほどと変わったところは見受けられない。
 いや、異変はある。
 彼はその場で腰の長剣に手をかけた。すると彼が通り過ぎたばかりの護衛たちが、背後でぎょっとした声を漏らす。彼らにはこの違和感がわからないのだろう。
 だがそんなことは、アースにはどうでもいいことだった。今はそれよりも上空にある気配の方が重要だ。姿は見えないが確かにその『気』を感じる。かすかではあるが、それが魔物だと彼は確信していた。そんなところに普通の技使いはいない。
 刹那、何の前触れもなく灰色の雲が割れた。その隙間から数本の白い帯が現れ、それが真っ直ぐ屋敷に向かって降り注いできた。アースはその場で跳躍すると、その帯に向かって剣を振り下ろす。
 耳障りな音がした。普通は切れないはずの白い帯は、見事に断ち切られていた。彼の剣が特別なものだからだ。普通は技による攻撃を剣で切ることはできず、こういう場合は結界を張るしかない。
「魔物だ!」
 アースは下にいる護衛たちに、視線を向けることなくそう言い捨てた。そして屋敷を囲む塀に降り立つと、上空を一瞥する。
 切り裂かれた雲の合間には、二人の男がいた。一人はアースと同じく黒い髪に黒ずくめの、ただ異様に大柄な青年だった。もう一方は藍色の髪を腰まで伸ばした、どことなく線の細い印象の細身の男。だがどちらが強いと聞かれれば、アースは後者だと即答するだろう。それだけの気を放っていた。アースは口の端を上げる。
「作戦失敗に焦れて、少しはましなのが出てきたというところか」
 今までとやり方が違うのは、おそらく謎の救世主のせいなのだろう。闇討ちが成功しなくなったため、堂々と出てきたというところか。けれどもその方がアースにとっては好都合だった。夜に人目を避けて現れたのでは戦えないが、真正面から向き合えれば剣を交えることができる。
「アース殿!」
「ま、魔物がっ」
「わかっている。一人は他の護衛を呼べ、もう一人は屋敷に結界だ。そのうち他の奴らも来るから慌てるな」
 壁の下に集まった二人の見張りは、明らかに狼狽えているようだった。彼らにもあの魔物の気が、そのすさまじさが感じ取れるのだろう。普通の技使いなら腰を抜かすところだろうから、そうではなかっただけましというところか。
 だがアースは負けるつもりはなかった。もちろん、相手がこの二人だけとも思っていなかった。彼らの立場になって考えてみればわかるが、目的はおそらく謎の救世主をあぶり出すことだ。だとすればそれなりの戦力を揃えるのが普通だろう。だから相手はあの二人だけではない。
 ならば、残りはどこに潜んでいるのか。どのタイミングで現れるのか。
 右手を掲げた大柄な男を見て、アースは瞳を細めた。無論答えは決まり切っている。潜んでいるのは別の空間で、そしてタイミングは今すぐに、だ。先制攻撃を仕掛けてきたくらいなのだから、彼らは相当焦っている。
「屋敷が無事ならいいがな」
 アースがそうつぶやくと同時に、大柄な男が動き出した。振りかぶった右手から黒い光弾が生まれ、それが屋敷目掛けて勢いよく飛んでくる。その場で剣を構えながらアースは息を整えた。魔物の来襲に気づいたのは彼だけではないはずだと。その確信のもとに決意を固めて。
「誰だか知らんが任せる!」
 彼は躊躇せずに飛び上がった。その足下を、黒い光弾がすり抜けていった。それはそのまま壁の上を通り抜けて、屋敷を直撃する軌道を描く。実際、そのはずだった。が、見えない壁に阻まれて、それは弾かれた。いびつな音と共に空気を振るわせて、光弾は瞬く間に霧散する。思った通りだ。
 屋敷が無事であることを背中で感じながら、アースは目標を見据えていた。まずは細身の男を叩かなければならない。やっかいなものから片づけなければ、被害は自分の命だけではすまないだろう。
 空を飛ぶことは、アースにとっては造作もないことだった。いつの間にか身に付いていた技能で、何の疑問もなく使える技の一つだった。もっともそれは技使いとしては珍しいらしく、使いこなしている者を見たことは少ない。けれどもそれが魔物となれば話は別だった。彼らは何の苦もなく空を舞い、駆け巡ることができる。
 アースの剣を、細身の男は素手で受け止めた。いや、ただの素手ではないだろう。その周りを淡い光が包んでいるところからすると、一種の技だ。強化でもしているのだろう。男の口角がかすかに上がったのを、アースは視界に捉えた。
「ちっ!」
 空に浮いたまま後退したアースは、その場で身をよじると剣を右へと払った。それは知らぬ間にいた大柄な男の動きを遮り、間一髪光弾が放たれるのを防ぐ。
 さすがに魔物二人相手は分が悪い。しかも双方それなりの実力者だ。思わず剣を握る手に力を込めたアースだったが、細身の男の反応は思っていたのと違った。彼は大柄な男に目を向けると、その姿を瞬時に消してしまう。
「……は?」
 思わずアースは間の抜けた声を発した。消えた男の気は、いつの間にか屋敷の傍にあった。大柄な男を牽制しつつ下を一瞥すれば、塀の上で揺れる藍色の髪が見える。魔物お得意の瞬間移動だ。剣で黒い光弾を弾き返しながら、アースは息を呑む。
 けれども細身の男は、屋敷を攻撃するつもりはないらしかった。ただその場で辺りを見回し、何かを探しているように見えた。とりあえずいきなり屋敷全壊という事態は免れたと、アースは内心で安堵のため息を漏らす。魔物が本気になればそれくらいはやりかねないし、やらない理由の方が見あたらない。
「となると、まさか――」
「おっと、お前の相手はオレだ。よそ見するなよ」
 だがアースが細身の男を見ていられたのは、それまでだった。かけられた声に顔を上げれば、そこには意地の悪い笑みを浮かべた黒髪の男がいる。彼の手には黒い不定の刃が生み出されていた。本来は接近戦の方が得意なのかもしれない。
「オレはシゲンダルだ。正直退屈してたところでな、お前みたいな奴がいて助かるぜ」
 勝手に名乗り始めた男を、アースは黙って睨みつけた。戦場で名乗られたからといって名乗る必要はない。だいたい魔物相手に名乗ると今までろくなことがなかったのだ。だからアースは構えることで意を示し、眼差しを鋭くする。
 夕日を背にしたシゲンダルは、さらに大きく見えた。アースは口角を上げると、右手に精神を集中させた。



 戦闘は予想していたよりも長く続いた。アースが戦っている間に他の護衛も駆けつけてきたが、それは魔物側も同じだった。彼らは獣の姿をしていたり人の姿をしていたりと見た目こそ様々だが、その強さは並の技使いでは歯が立たない。それなのに均衡が保たれているというのは、ある意味で奇跡だった。
 もしかしたら、噂の救世主が力を貸してくれているのだろうか?
 そうアースでも考えたいくらいだったし、実際考えたこともあった。けれども地上を飛びまわる細身の男を見かける度に、そうではないのだという確信に至る。彼が探しているのはおそらく救世主だろう。他の何者にも目をくれない姿は、どことなく異様でさえあった。
 救世主は現れていないが、しかし魔物たちは攻めあぐねている。それとも、これはもともと救世主をおびき出すための緩い戦闘なのだろうか? いや、もしこれで屋敷を落とせるならその方が彼らにとっても楽なはずだ。では何故膠着状態が続いているのか?
 アースには解せないことだらけだった。シゲンダルという相手さえいなければ、今すぐ下の状況をこの目で確かめたいくらいだ。
「くっそ!」
 すると目の前にいたシゲンダルが、大きく舌打ちした。その乱雑な黒髪が風に揺れて、紅の瞳が細められる。しかしよそ見をしていたアースに苛立ったというわけではないらしい。そこに見られるのは、明らかに焦りだった。大きな肩は呼吸に合わせて上下し、その剥き出しの腕はかすかに震えている。
「何でだ、何故だ、どうしてカアメイスは見つけられないっ!」
 シゲンダルの吐き捨てる声が、薄暗い中響いた。突然の怒声だった。アースは剣を構えたまま、そんなシゲンダルの様子をうかがう。
 既に日は沈んでいて、辺りは藍色に染め上げられていた。気温も下がっている。それでもどちらかといえば夜目が聞くアースにとっては、特に不利な状況ではなかった。だが他の護衛たちも、ということにはならないだろう。これ以上暗くなれば、彼らが不利なのは明白だった。
 それなのに、焦っているのは魔物たちの方だった。優勢のはずの彼らが、何故だか動揺を隠し切れていなかった。現に目の前のシゲンダルは、もうアースなど見ていないかのようだ。その思考はおそらくもっと遠くへと飛んでいる。視線があちこちを泳ぎ、繰り出す攻撃もでたらめだった。
「見つけられないわけがないんだ。そんなわけないんだ。なのに何故だ、何故見つからない! 何故あいつは出てこない!?」
「あいつ?」
 アースは繰り返した。違和感があった。その言い方にも声にも、未知なるものへの響きが感じられない。探しているのが何者なのか、わかっているがごとき口調だった。アースは眉をひそめる。何かがおかしい、と。自分は何か、思い違いをしているのではないか、と。
「そうだ、レーナだ。あいつがここにいるんだろう? それはわかってるんだ。一体あいつはどこにいる!?」
「な、何の話だ?」
 シゲンダルは声高に叫んだ。彼が口にしたのは、アースも聞いたことがない名前だった。けれども不思議と心が揺さぶられる名前だ。それ故に困惑気味にそう返すと、血走ったシゲンダルの瞳がさらにつり上がる。
 アースは剣を構えたまま思わず息を呑んだ。怖いとは思わないが、一種の畏怖にも似た何かが沸き起こってきた。これは恐怖に狂った者がする眼差しだ。冷静な者が持ち得ない、とある感情に取り憑かれた者が持つ瞳。危険な兆候だった。
「とぼけるなっ!」
 シゲンダルの右手が振り上げられ、そこから黒い光弾が放たれた。しかしその軌跡は単調で、アースは難なくそれを避けることができた。足下を通り過ぎていったそれが、誰かの張った結界に弾かれた音がする。屋敷を守るためのものだろうが、この場合は好都合だった。さすがに他の護衛が巻き添えになるのは、気分がいいものではない。
「あれが奴の仕業じゃないなんて、そんな馬鹿なことがあるかっ! どこに隠れているんだ!?」
 再びシゲンダルの腕が動いた。しかしその攻撃はやはりでたらめだった。シゲンダルの手から幾つもの黒い帯が伸びてくると、アースはそれらを一つ一つ剣ではたき落としていく。動きが単調で捻りがない。はじめの頃の攻撃とは、完全に別物だった。
 だがいつまでもこうしているわけにはいかないだろう。下で被害が広まらないとは限らないし、何よりアース自身がこの戦いに飽きてきていた。狂った男を相手にしていても、面白くはない。ましてやこれ以上、この男から有益な情報が手に入るとは思えなかった。
「終わりにするぞ」
 囁いて、アースは左手に炎球を生み出した。それをシゲンダルに投げつけると、彼は右手の剣を横薙ぎにした。剣を包むうっすらとした光が、一瞬だけ強く輝く。
 小さな悲鳴が上がった。確かな手応えがあった。彼の剣は、炎球を捻って避けたシゲンダルの腹深く切り込んでいた。それをそのまま力任せに引き抜くと、断末魔の悲鳴が辺りに響き渡る。返り血を浴びたアースの腕は、真っ赤に染め上げられていた。だがそんなことは意に介せずシゲンダルを見やると、その体がゆっくりと降下し始める。
 あっけない、最後だった。動揺した魔物を殺すのは、アースには苦もないことだった。頬にかかった血しぶきを袖で拭い、彼は速度を上げて落ちていくシゲンダルを見送る。腹を押さえてもがきながら、シゲンダルは落下していった。弱々しい悲鳴が、爆音の中でもアースの耳に届いた。しかしそれもいつしか途切れ、小さくなった姿は光の粒子となって消えていく。
「終わったな」
 血に染まった手のひらを一瞥して、アースはひとりごちた。まだ地上での戦闘は続いているが、おそらくシゲンダルが死んだことで戦いは収束するだろう。あの細身の男がそう判断するはずだ。
 これ以上戦闘が続いても、目的の人物は現れないだろうから。
「……レーナとは、何者だ?」
 シゲンダルの言葉を思い返して、アースは屋敷を見下ろした。それが救世主の名前なのか、それすらも彼には判断できないことだった。

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