ファラールの舞曲

第十七話 「そして愛のばら売りを」

 魔物が去った後の方が、屋敷の中は混乱していた。外壁が炎に焼け焦げただけでなく、その一部は崩れ落ちて大きな穴が空いている。故に魔物が屋敷の中まで侵入したのは明らかで、それが護衛達の焦りに繋がっていた。
 屋敷内にいるはずのテキアやゼジッテリカは無事なのだろうか? ゼジッテリカにはシィラがついているはずだが、バンは屋敷外で魔物と戦っていたのだ。テキアの身に何かが起こってはと、皆が不安に怯えていた。
 だがそれもしばらくもしないうちに収まった。狼狽える皆の前に、何食わぬ顔でテキアが姿を見せたためだ。屋敷内の護衛を数人連れた彼を、真っ先に見つけたのはギャロッドだった。シェルダと共に屋敷へと入ってきた彼は、灰を払うテキアの傍へと誰よりも早く駆け寄っていく。
「テキア殿!」
「ああ、ギャロッド殿。どうやら戦闘は終わったようですね」
「はい、どうも救世主の仕業らしいですが」
 微笑むテキアを見て、ギャロッドは安堵の息を吐き出した。隣にいるシェルダからも、ほっとした空気が伝わってくる。これで最悪の事態は免れたと言っていいだろう。無論、ゼジッテリカの安否も確認しなければいけないが。
「バン殿がテキア殿の傍を離れたと聞いて、心配していましたよ。お怪我は?」
「私はこの通り、大丈夫ですよ。これでも技使いですからね。それに、救世主が魔物の目を惹いてくれましたし」
 すぐさま返されたテキアの答えに、ギャロッドは相槌を打った。そう、全てはあの救世主のおかげなのだ。魔物の攻撃を耐える一方となったギャロッドたちから、救世主が大量の魔物を引き離してくれた。彼らは救世主が現れたと知るやいなや、その大半が空へと上っていってしまった。そのおかげで戦局が一気に変わったのだ。
「すごい光でしたよね」
 シェルダがつぶやくように言って、軽く肩をすくめる。魔物たちが向かった先に見えたのは、白い光の残像だけだった。空を縦横無尽に駆け巡るそれは、時折薄紫の光をほとばしらせては魔物を切り払っていた。それはまさに、奇跡といってもいい光景だった。魔物が為す術もなくやられていく様など、ギャロッドはこれまで一度も見たことがない。
「私は屋敷の中にいたので、詳しいことはわからないのですが」
「ああ、そうですよね。すいません」
「いえ。ですがすごい気が現れたというのはわかりました。おかげで私は無事でしたし、ゼジッテリカも」
 テキアはそう告げると右手を振り返った。その視線を追うように、ギャロッドもそちらへと双眸を向ける。不思議に思ってよく耳を澄ませば、かすかに女性の話し声がした。それは広い廊下を反響し、空気を震わせている。
 それからしばらくもしないうちに、ゼジッテリカが廊下の角から顔を出した。その隣には直接護衛であるシィラと、いつの間にか合流していたのかマラーヤがいる。話をしていたのはマラーヤとシィラだった。癖のある赤毛をかきむしったマラーヤは、苦笑しながらシィラへとしきりに何かを訴えているようだ。
 マラーヤの防具には、色濃く戦闘の跡が残っていた。髪の一部が焦げ付き、左腕には包帯が巻かれている。だがシィラは軽く灰に汚れた程度で、ゼジッテリカに至ってはドレスの裾が土で汚れただけだった。ギャロッドは隣にいるシェルダと顔を見合わせる。
「すごいのなんの。だってどこかでレーナが来たって声がしたと思ったら、みんなそっちに行っちゃうんだもの。あたし命拾いしたわ」
「そうだったんですか」
「その間、あんたはどうしてたのよ?」
「もちろん、私はリカ様をお守りしていましたよ。それが任務ですから」
 三人がこちらへと近づいてくると、その会話はようやくギャロッドの耳にも届くようになった。歩きながら話し合う二人を、ゼジッテリカがにこにこしながら見上げている。その様子では怪我一つないのだろう。ギャロッドは胸を撫で下ろし、再び救世主の存在に感謝した。ゼジッテリカに怯えの気配がないことからすると、戦闘には巻き込まれなかったのだと考えられる。
「あ、テキア叔父様!」
 そこまで来てようやくゼジッテリカは、ギャロッドたちの存在にも気づいたようだった。瞳を輝かせると、シィラが止めようとするのもかまわず廊下を走り出す。そんな彼女に向かって、テキアが一歩前に出た。その切れ長の瞳が細められる。
「ゼジッテリカ」
「叔父様も、怪我とかないみたいだね」
 足音を立てて駆け寄ってきたゼジッテリカを、テキアは両腕で抱き留めた。その微笑ましい様を見守って、ギャロッドは頬を緩める。あれだけの数の魔物と対峙した後、こうした心和む光景を目にできるのは幸せなことだった。痛めた左手首のことさえどうでもよくなり、彼は血の付いた額当てを右手ではずす。
「ねえシィラ、テキア叔父様も大丈夫だよ」
 そうやって無事を確かめ合う二人の元へと、シィラとマラーヤが近づいてきた。顔を上げたテキアは、まずシィラへと向かって柔らかく微笑みかける。それを見てシィラは一瞬不思議そうに小首を傾げ、ついでくすりと笑い声を漏らした。
「シィラ殿、どうもありがとうございます」
「そのために私はいますから」
 礼を述べるテキアに、シィラはわずかに首を横に振った。確かに、ゼジッテリカを守るのが直接護衛の仕事だ。しかし感謝したくなるテキアの気持ちも、ギャロッドにはよくわかった。子どもを怯えさせることなく守ることはかなり難しいのだ。もっとも今回の場合は、救世主の働きも大きいかもしれないが。
「ま、結局は全部救世主のおかげだけどね。それにしても結局何者だったんだろうなあ」
 すると同じことを考えていたのか、頭を掻きながらマラーヤが苦笑いを浮かべた。確かに救世主のことは何もわからず仕舞いだ。何故助けてくれたのか、魔物と戦っていたのか、そして何者なのか。全てが謎に包まれたままだった。
 再びギャロッドとシェルダが苦い顔を見合わせると、その視界の端でゼジッテリカが微笑むのが見えた。その右手が伸びて、シィラの左手を掴む。相変わらず仲の良い二人だ。魔物との戦いが終わって、その信頼関係はより深まったのだろう。そんな二人をテキアが優しく見守っているのも、ギャロッドにとっては心温まる光景だった。
「これこれは皆さん、お揃いで」
 しかしそんな穏やかな気分も、次の瞬間には吹き飛んでいた。背中から今はあまり聞きたくない声がかかって、ギャロッドは慌てて振り返る。
 案の定、そこにいたのはバンだった。一風変わった衣服の所々が焦げついているものの、怪我をしている様子はない。あの戦場において血を流さず戦う点はさすがだ。これぞ異名持ちの実力といったところか。
「バン殿」
「テキア殿、無事で何よりです。そしてゼジッテリカ様も」
 うやうやしく頭を下げると、バンは次にシィラへと視線を移した。その緑の瞳が妖しく光り、これは何か言う気だなとギャロッドは身構える。それはシィラも同じだったのだろう。軽く眉根を寄せると、彼女はゼジッテリカの手を離した。
「すごい戦いでしたね。それでも皆無事で本当によかったですな。いやあ、何よりあなたが魔物でなくてよかった」
「バ、バンさん! いくらなんでもその言い様は――」
 予想通り、バンの口から飛び出したのはとんでもない言葉だった。ゼジッテリカの体が強ばるのを見て、シェルダが慌てて止めにかかる。だが放たれた発言は消えない。動揺するゼジッテリカの頭を、テキアがそっと撫でて落ち着かせていた。
 けれどもシィラは何も言わずに、大丈夫だと告げるようにゼジッテリカへと一瞥をくれた。本当に肝の据わった女性だ。バンを前にこんな態度に出られる者はそうそういない。
「正直なことを申したまでですよ、シェルダ殿。ゼジッテリカ様がこうして元気でいられるのがその証拠ですし。なあに、こうしてお二人とも無事なのですから良いではないですか。まあ、魔物は全滅してはいませんがな。しかし、あれだけ痛手を受ければうかつには動けないでしょう」
「ええ、そうですね、バンさん。これでしばらく魔物も動き出せないでしょう。救世主の存在を考慮すれば、彼らも下手なことはできませんから」
 軽く笑うバンに、シィラは落ち着いた答えを返した。自分が疑われていたことなど意にも介していないらしい。そのおかげか周囲の空気もやや穏やかなものになり、ギャロッドは安堵の息を吐き出した。バンにはいつまでたっても冷や冷やとさせられる。周りを気にしないその性格は困りものだった。
「ですからリカ様、もう少しすれば外にも出られるようになりますよ」
 テキアの足にぴたりと張りついたゼジッテリカに、シィラはそう声をかけた。バンの言葉にもシィラは傷ついていないとわかったのか、ゼジッテリカはぱっと顔を輝かせる。その口元に笑みが浮かび、瞬きが何度か繰り返された。
「本当!?」
「ええ、きっともうすぐですよ」
 外に出られる日を、ゼジッテリカは心待ちにしていたのだろう。護衛が来るまではほとんど部屋にこもりきりだったとも聞いている。ならば遊びたい盛りの年頃だ、相当退屈していたはずだった。この喜びようも理解できる。
 しかし輝いていた瞳は、一瞬後には曇りを見せた。その視線が床を彷徨い、腰からぶら下げられた短剣が軽く揺れる。彼女の突然の変化に、ギャロッドは首を捻った。何か懸念することでもあるのだろうか?
「その、テキア叔父様」
「どうした? ゼジッテリカ」
「護衛の人たちは、いつまで屋敷にいるの?」
 おずおずと尋ねるゼジッテリカに、テキアの瞳がわずかに細められた。ギャロッドははっとして、同じく痛ましそうな顔のシェルダと視線を交わす。
 魔物がいなくなれば護衛の仕事もなくなる。いつかは護衛たちもいなくなる。それは本来の目的を考えれば、避けられないことだった。けれども幼いゼジッテリカには辛いことだろう。共にいた時間が長い分、それはなおさらだった。
「念のために、最低でももう一週間はいてもらうことになるな。屋敷もこの通りだし、去っていった魔物もいたようだし」
「そ、そう」
 ゼジッテリカは明らかに落ち込んでいた。その声は小さく、先ほどよりもずっと抑揚が落ちている。
 すぐにいなくなるわけではない、という言葉も慰めにはならないようで。ギャロッドは何を口にしていいのかわからずに、顔をしかめた。今回ばかりは問題発言の多いバンも軽口を叩かない。幼い少女の心を抉るようなことは、さすがに趣味ではないらしかった。
「ではリカ様。その間に今度はケーキでも焼きませんか?」
「……え?」
 このまま沈黙が続くかと思われた時、朗らかにそう提案したのはシィラだった。膝をついた彼女は、ゼジッテリカの顔を真正面から覗き込む。その思いも寄らない発言に、ゼジッテリカは目を丸くしていた。いや、予想外なのは皆も同じだ。ここでまさかそんなことを言い出すとは、普通誰も思わないだろう。
「いいの?」
「はい。この間のクッキーが好評でしたからね、疲れてる皆さんにあげましょう。どうやら厨房も無事なようでしたし」
 シィラが浮かべた微笑みは、春を思わせるものだった。戦場で張りつめていた空気も寂しげな空気も吹き飛ばす、暖かい風のようだった。ゼジッテリカもその風に包まれて、次第に顔がほころんでいく。
「うん、作る!」
「ということで、よろしいですよね? テキア様。あなたがいいと判断されるまで、私はリカ様の傍にいますから」
「ええ、もちろんかまいませんよ。しばらくは今までと同じ体制が続くでしょうから。そうしていただける方が、ゼジッテリカも退屈せずにすみます」
 しゃがみ込んだまま見上げてくるシィラに、テキアは静かに答えて含み笑いをした。この二人の共通点は、いつもゼジッテリカのことを思っているところだ。それは見ていて時折くすぐったくなる程で、ギャロッドにとってはいささか眩しく感じられた。
「ありがとうございます」
「じゃあシィラ、すぐに行こう!」
 立ち上がったシィラの手を、ゼジッテリカの小さな手が掴まえた。今から行くのかとギャロッドが驚けば、バンとマラーヤの笑い声が漏れ聞こえてくる。横を見ればシェルダも微苦笑を浮かべていた。額当てを握ったまま、ギャロッドも耐えきれずに口角を上げる。
「リカ様ってばせっかちですね。でもその前に怪我人の治療をしないといけませんよ。ですからそれが終わってから、厨房の様子を確認しに行きましょうね」
 シィラはあいている方の手で、ゼジッテリカの柔らかい髪を撫でた。そう言われて戦闘が終わったばかりであることを、ゼジッテリカは思い出したようだった。軽く頬を染めて俯き、恥ずかしそうにシィラの陰に隠れる。
 けれども現状を思い出したのはゼジッテリカだけではなかった。ギャロッドたちも同様だ。テキアとゼジッテリカの無事がわかったのだから、次は傷を負った護衛たちを何とかしなければならない。自分の怪我を含めて、すぐに治療が必要だ。
「それではわたくしがテキア殿の傍にいますので、皆さんは各自被害の確認と治療の手配を」
「すみません、バン殿」
「ちょっとバンさんっ。あなたは元気だからいいかもしれないけど、ギャロッドさんだって怪我してるんだからね? それ治してからじゃないと」
「ああ、そうですな。ではまずここにいる方々の怪我を治してから、動き出しましょうか」
 軽く笑ったバンに、マラーヤは呆れた視線を向けた。誰もがバンのように無傷な強者ではないのだと、言いたげな眼差しだった。その気持ちはわかるだけに、ギャロッドも失笑する。大概の護衛は大なり小なり傷を負っているだろう。あれだけの数の魔物を相手していたのだから、死人もかなり出ているはずだ。
「シィラ殿」
 だが動き出そうとする皆を、遮る声があった。テキアだ。ゼジッテリカの手を離したシィラに、彼は薄い笑みを向ける。様々な感情が混ざり合ったような何とも言えない表情。シィラはそれを見て、困ったように微苦笑した。用件を言われなくともその意図は伝わったらしい。彼女は右手の指先を、おもむろに頬へと当てた。
「仰りたいことはわかりますが、テキア様。ですが一人でも治療者は多い方が」
「悲惨な光景を、あまりゼジッテリカには見せたくありません。治癒の技ならば私も使えますから、ですからどうか。そしてできたら、皆の非常食もお願いできますか? きっとあの戦闘の後では、料理人もまともな精神ではいられないでしょうから」
 なるほど、ひどい怪我人をゼジッテリカには見せたくないということらしい。確かに戦場は悲惨な有様だった。それを幼い少女に見せることは酷だろうし、たとえシィラが軽い怪我人を担当したとしても、ゼジッテリカの心は揺さぶられるはずだった。かといってゼジッテリカを一人にはしておけない。
「……わかりました」
 シィラは頭を傾けると、困惑するゼジッテリカに一瞥をくれた。だいたいテキアの頼みを、シィラが断れるわけがないのだ。彼女はファミィール家に雇われた者で、しかも彼の願いは全てゼジッテリカのためなのだから。
「ではとびきり元気の出るもの、用意しますね。ね、リカ様」
「え? 私も?」
「せっかくですから一緒に作りましょう。美味しい料理は幸せの元なんですよ。ケーキはその後でも大丈夫ですから」
 シィラの笑顔に、つられてゼジッテリカはうなずきながら微笑んだ。そういえばしばらく何も食べていなかったことを自覚して、ギャロッドは右手で腹を押さえる。料理の話を耳にするとさらにお腹が空いてきた。
 ふと横を見れば、マラーヤやシェルダも同じような仕草をしていた。皆空腹なのだ。技を使いながらの戦いは、あらゆるエネルギーを消費するように思える。それを一度に満たすには、確かに美味しい物を食べるのが一番手っ取り早かった。
「楽しみにしていてくださいね」
 悪戯っぽく微笑むと、シィラはゼジッテリカの手を引いて歩き始めた。小さくなる二人の背中を見送って、ギャロッドは軽く首の後ろを掻く。まだ魔物の動きが完全に収まったとは限らないのに、これだけ穏やかな気持ちになれるのは彼も意外だった。
「愛のばら売り、ですか」
 テキアの苦笑混じりの言葉が、静かな廊下に溶けていった。二人の姿が廊下の角から消えるまで、彼らはその場を全く動かなかった。



 伝えたい気持ちを今必死に囁いても。それはもしかしたら届かないかもしれない。
 だから感謝の気持ちを込めて、心配しないようにと祈って。ただ思いのままに綴ろう。ありったけの思いを込めてしたためよう。
 彼女ならきっとわかってくれる。たとえこの気持ちを上手く伝える言葉が見つからなくても、きっとわかってくれる。
 いつか自分の足で立つために、強い自分になるために。自分を信じられるようになるために、これは必要な儀式なのだ。
 涙の跡はいらない。必要なのは笑顔。希望となれる、希望を与えられる笑顔。それはいつか最大の武器となるだろう。この星を守るための、鍵となるだろう。
 だから笑って手を振ると決めた。そのために、強くなると誓った。今は視界がにじんだとしても、その時は笑顔で大きく手を振るのだ。
 そして口にする言葉はたった一つと決めていた。
 ありがとう。
 それ以外はしたためたから、だから口にする言葉はそれだけ。今まで誰に伝えたものより真っ直ぐで、偽りのない気持ちだった。

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