ファラールの舞曲

番外編 彼と彼女の幻想曲-10

 夕暮れ時は、屋敷の中も外も茜色に染められるのが普通だ。大きな窓から差し込む光が、全ての世界を染め上げてしまう。しかし今日ばかりは、厚い雲のせいでそれもなかった。もう夜なのかと思わせる薄暗さのため、つい鬱々とした気分に浸食されそうになる。
 そんな光景を、テキアの部屋から“彼”は眺めていた。時折吹く風のおかげで、雲の隙間から赤々とした光が覗くこともある。灰色の雲自体も、よく見ればうっすらと赤味を帯びていた。
 不思議と切なさを漂わせる時間帯だ。そしてこういう時にこそ、魔族が好んで動くことを彼は知っていた。今日もそれは一つの経験として蓄積されるだろう。もう既に、違和感は強まっていた。この星の外で、魔族たちは着々と準備を進めているようだ。
 おそらく痺れを切らしたのだろう。救世主にやられるばかりの日々に、ついに耐えきれなくなったのだ。魔族たちが何度奇襲に失敗したのか、彼も数えるのを止めたくらいなのだから。
 救世主が女だという噂が広まったのは、つい最近のことだった。しかしその尻尾を捕まえることは依然としてできず、魔族側も苛立ちを募らせているようだった。護衛を襲う手際の悪さにも、それは表れている。以前の綿密さはもう失われていた。
「馬鹿だな」
 だからといって、力押しで来ることはないのに。彼は苦笑すると、黒い髪を手櫛で整えた。まさか“彼女”の実力がわからないわけではないだろう。その姿を確認したいがために、これだけの数を集めてくるとは愚かだ。数さえ揃えればいいと、本当に思っているのだろうか?
 じきに魔族はこの星へと降りてくる。護衛たちは、途方もない数の魔族を目にすることとなる。その時どうすべきかと、密かに彼は悩んでいた。
 ここまで派手に出てこられては、さすがに彼女も動けないかもしれない。いや、十中八九動かない。ゼジッテリカをひとり置いて、飛び出すとはできないはずだった。今は夜ではない。ゼジッテリカはまだ起きている。
 しかしだからといって、彼が出るわけにもいかなかった。厄介なバンが部屋の外にいるのはいいことだが、ここを動けば感づかれるだろう。部屋がもぬけの殻では、言い訳のしようもなかった。
 つまり、彼も彼女も動けない。それなのに、魔族たちはやってくる。互いの腹を探り合っているがために、起こることだった。
「馬鹿馬鹿しいな」
 それは誰に対しての言葉なのか、彼自身にもわからなかった。こんな愚かな舞を続けること、そのものに対してなのかもしれない。彼は腕組みすると、深くため息をついた。やや俯けば短い前髪が、わずかに揺れて額へとかかってくる。
 ゼジッテリカだけは守らなければならない、希望の光を消すことはできない。それはわかっているのだが、そのために他の護衛たちを死に追いやるのも気が進まなかった。神と魔の戦いに、巻き込んでいるようなものなのだ。人間たちは巻き込まれているだけなのだ。犠牲はできるだけ少ない方がいいに決まっている。
 本当に馬鹿だと、彼は自嘲気味に笑った。こんなところでテキアの振りを続けていること自体が、どうかしている。まるで喜劇だ。彼は厚い雲を見やりながら、そっと目をすがめた。
 たった今、魔族が動く気配があった。その気がぽつりぽつりと、ファラールの空へと現れる。戦闘開始ということだ。
「来たか」
 彼は目の前の窓を開け放った。夕方独特の匂いを漂わせて、風が緩やかに吹き込んでくる。この空気だけならば嫌いではないと、そう思わせる瞬間だった。
 と同時に灰色の雲が割れて、その隙間から白い帯が数本突き進んできた。精神系の技だろう。それはこの屋敷を狙っている。さて護衛はどこまで反応してくれるかと、彼は遠くの塀へ神経を集中させた。
 幸いにも、白い帯が屋敷に突き刺さることはなかった。それはすんでのところで、護衛によってあっさり切り払われた。技でできた筋を断ち切るなど、普通はできるものではない。そう思って気を探れば案の定、屋敷外護衛副隊長――アースの仕業だった。その剣がとんでもない代物であることは、今までの戦いで既に知っている。
 テキアとしての繕いを脱ぎ捨てて、彼は口角を上げた。魔族との戦いを心得た者がいることは、予想外だが好都合なことだった。彼は思わずつぶやく。
「結界を張る手間が省ける」
 バンに気づかれることなく、結界を張るのは至難の業だ。だがよく考えれば、大規模な戦闘が始まってしまえば、そうとも限らないかもしれない。彼の本来の気は、バンも知らない。それは上手くいけば魔族の気と紛れるだろう。彼は首を捻った。
 結界だけならば、大丈夫なのではないか? それならば、魔族からも逃げおおせるのではないか? それは誰でもよく利用する、技使いの中でも一般的な技だ。まともに戦えなくても結界を張ることができる者なら、この屋敷にもいる。
 刹那、空に浮かぶ魔族の気がぶわりと強まった。この気配は破壊系の技だと、彼は顔を上げる。すると黒い光弾が幾つか、屋敷目掛けて突き進んでくるのが見えた。テキアやゼジッテリカの部屋を、直撃する軌跡ではない。それでも彼の手は躊躇いもなく動いていた。
 塀の前に、見えない壁が生み出される。それは呆気なく光弾を弾き返し、瞬く間に霧散させた。黒い粒子を飛ばしながら、光弾だった物は空気へと溶けていく。
「気づかれてはいないようだな」
 部屋の外にいるバンの方を、彼は振り返ってから肩をすくめた。さすがのバンも外の戦闘に集中しているのだろう。気には動揺の色が見えない。
 外でアースが派手に動いてくれているから、そのおかげかもしれなかった。何にせよ、その意識を逸らすことができるなら問題はない。結界を張るくらいならば何とかなると確信し、彼は安堵の息を吐き出した。魔族を追い返すのは、外にいる護衛に任せるとしよう。
「あいつらは、気づくかな。いや、大丈夫だろう。しかし彼女は気がつくだろうな」
 彼は独りごちながら空を見上げた。割れた厚い雲の向こうでは、赤々とした日がその存在を主張していた。



 “彼”が動いてくれたことに、密かに彼女は感謝していた。戦闘が始まってから、しばらく時間がたつ。それでも決着がつかないことに、ゼジッテリカは不安を覚えているようだった。ベッドに腰掛けたまま服の裾を握られては、さすがにこっそり何かをするわけにはいかない。
「ねえ、シィラ。まだ続いてるの?」
「もう少しですよ、リカ様。敵の数はだいぶ減っていますから」
「本当に?」
 念を押してくるゼジッテリカに、彼女は微笑んで首を縦に振る。実際その言葉に偽りはなかった。アースの活躍のおかげで、魔族はその数を次第に減らしていた。“彼”の結界が屋敷を守っているので、背後を気にする必要性がないためだろう。
 これでバンでも加勢できればもっと楽なのだが、さすがにそうはいかないらしい。直接護衛が出るのはやはり問題なのだと、自分の立場を考えて彼女は目を伏せる。
 するとさらに強く、ゼジッテリカが服を引っ張ってきた。その勢いにつられて背を屈め、彼女は頭を傾ける。間近で見れば、瞬きを繰り返すゼジッテリカの瞳はかすかに揺れていた。握られたもう一方の手も、小さく震えている。
「魔物、いっぱいるんでしょう?」
「いた、ですね。正確に言えば」
「私を安心させようとして、嘘ついてない? シィラ」
「嘘なんてついてませんよ。誤魔化すことはあっても、嘘は言いませんから」
「……何だか今、すごく聞いちゃいけないことを聞いた気がするんだけど」
 複雑そうな面もちで、ゼジッテリカは眉をひそめた。どうやら今の一言で、不自然な体の強張りは減ったらしい。服にかかる力が弱まったのを確認して、彼女は悪戯っぽく笑った。そしてゼジッテリカの頭を軽く撫でる。
「本当のことですよ。偽ることはあっても、嘘はつきません」
「その違い、私にはよくわからないよ」
「そのうちわかりますよ。言葉には、声には力があるんです。馬鹿にはできません」
 彼女はそっと窓の方へと視線を移した。戦闘はまだ続いている。けれども動揺する魔族たちに比べて“彼”の動きには無駄がなかった。バンに気づかれないよう、魔族にその存在を感づかれないよう、最低限の結界を張っている。その手腕は見事なものだった。そこらの神にできることではない。
 また護衛を見殺しにしない姿勢も、普通の神とは違った。そう思うと自然と顔が緩みそうになり、彼女は思わず苦笑する。
「不思議ですね」
「ん? シィラ?」
「いえ、何でもありませんよ。同じようなことを考えてるひとが、いるものだなと思っただけですから」
「えっ?」
 ゼジッテリカが小首を傾げても、彼女はそれ以上説明しなかった。この戦いが終われば、ずっと後になればゼジッテリカも気がつくことだろう。いや、見守られているという事実ならば、もう知っているかもしれない。この少女は、大人たちの感情に聡かった。いや、大概の子どもはそうだと言うべきか。
「リカ様」
 囁いた名前が、広い部屋の中を染み渡っていく。ゼジッテリカが顔を上げたのを見て、彼女は瞳を細めた。薄暗い部屋でも、小さな青い瞳はまばゆく光って見える。
 いつか全てを知る日が来る。いつか全てが明かされる日が来る。それは決して遠い未来のことではない……ないはずだった。
 そんな祈りにも似た思いを胸に、彼女は精一杯の言葉を口にした。謝罪にも思える、けれども偽りのない言葉が、偽りだらけの舞台の上でむなしくも響く。
「彼を決して、責めないでくださいね」
 ゼジッテリカは縦にも横にも、首を振らなかった。そして不思議そうな顔もせずに、ただ真っ直ぐ彼女を見つめていた。

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