ファラールの舞曲

番外編 彼と彼女の幻想曲-13

 撤退の動きを見せた魔族が、引き上げるのは早かった。くすぶる炎だけを残し、彼らは逃げるように消えていった。辺りは静まり、時折爆ぜる火の粉だけが音を立てる。
 そんな中戦場に取り残された“シィラ”は、ゼジッテリカとともに屋敷の中へと急いだ。中庭へ出たことは“彼”ならば気づいてるだろうが、他の者もということではない。誰かに見つかっては大事だった。何故外へ出たのか、説明するのは簡単なことではない。
 もっとも屋敷内にも魔族が侵入したとなっては、既に手遅れなのかもしれなかった。崩れた壁の隙間から中へと入って、彼女はゼジッテリカの手を引く。するとどこからか悲鳴じみた叫びが響き、煙った廊下を震わせた。テキアやゼジッテリカを捜しているのだろうか?
「ねえ」
 すると右手を強く引かれる感触があり、彼女は首を捻って顔だけで後方を見た。ゼジッテリカはドレスの裾についた土を落としながら、元は壁だった瓦礫を何とか避けている。だがついてこられない速度では歩いていないはずだ。
 怪訝に思って彼女が小首を傾げると、顔を上げたゼジッテリカも不思議そうに瞬きをした。どうやら速すぎるという意思表示ではないらしい。視線で促せば、ゼジッテリカはおずおずと口を開いた。
「みんなどうしたの? 戦いは終わったのに、何だか騒がしいんだけど」
 どうやらこの騒ぎがゼジッテリカには解せないようだった。魔族との戦いで思考が止まっているのか、それとも彼らの元々の目的を忘れているのか。彼女は口元にわずかな笑みを浮かべ、傾けていた頭を戻した。
「確かに魔物はいなくなりましたが、それが護衛たち本来の仕事ではありませんから」
「え?」
「リカ様とテキア様が無事でなければ、意味がありません」
「あ、そっか! ……ってことは、ひょっとして私たちを捜してるの?」
 彼女に説明されて、ようやくゼジッテリカも状況がわかったようだった。テキアにもゼジッテリカにも直接護衛がついているが、だからといって安全が確保されたとは限らない。屋敷の中まで戦場となったのだから、護衛たちの不安は増すばかりだろう。彼らを落ち着かせるためには、早くゼジッテリカが姿を見せてやる必要があった。
「はい、ですから急ぎましょうね。リカ様の笑顔を見れば、皆さん安心しますから」
「うん」
 そう告げて彼女は再び歩き始めた。もうゼジッテリカが、手を引いてくることもなかった。焦げついた臭いが立ちこめる廊下を、小さな足音が二つ進んでいく。しかしそれは喧噪の中では些細なものでしかなかった。
 気に聡い者ならばゼジッテリカが無事だと察知してくれるだろうが、ここにいる護衛にそれを望むのは酷なはずだった。万全であれば可能である者も、疲弊した状況では無理に違いない。
 だが幸いにも、しばらくも行かないうちに前方から走り寄ってくる姿が見えた。それは二人にとってはよく見知った女性の一人だった。振り乱れた赤毛が、薄汚れた壁を背にひときわ目立っている。
「あ、マランだ!」
 安心できる人物との再会に、ゼジッテリカが声を上げた。マラーヤが二人へと近づくにつれ、防具のぶつかりあう音が大きく響く。そこには色濃く戦闘の跡が残されている上に、左腕には包帯が巻かれていた。ただ重傷ではないようだ。駆け寄る足取りはしっかりしており、不安定なところはない。
「ゼジッテリカ様! シィラ!」
 マラーヤは満面の笑みを浮かべたが、それが朗らかな分だけ包帯の白さが痛々しい。ゼジッテリカはそれを一瞥して顔を歪めたが、彼女はいつもの穏やかな微笑のままでマラーヤを待った。あれだけの魔族を相手に、この程度で済んだのはむしろいい方だ。
 一方マラーヤは、ゼジッテリカに怪我がないことを確認して安堵したようだった。マラーヤの情報ならすぐさま周囲へ広がるだろうから、これで彼女も一安心できる。目指していたのは“彼”がいる場所だが、マラーヤと一緒の方が何かと都合もいいだろう。
「マランさん、ご無事でなによりです」
「それはこっちが言いたいって。二人とも無事だったのね。屋敷に侵入されたみたいって聞いて、みんな蒼くなってたんだから」
 傍まで来ると、マラーヤは大げさに肩をすくめた。冗談めかした言い様だが、騒ぎは大変なものだったのだろう。彼女は相槌を打ちながらゼジッテリカを前へと一歩進ませた。
「この通り、リカ様なら大丈夫ですよ。安心してください。外は大変だったみたいですが、屋敷の中はそうでもなかったので」
「え、ええっ? それ、本当に?」
 ゼジッテリカへと密かに目配せをして、彼女は大きくうなずいた。実際中ではほとんど戦闘は行われていない。まともに戦いと呼べるものがあったのは、彼がいた辺りくらいだろうか。他の魔族はただゼジッテリカを探していただけだった。だから屋敷に及んだ被害の割に、戦闘規模としては小さい。
「そうなんですよ」
 立ち話も何だろうと、再び彼女はゼジッテリカの手を取って歩きだした。マラーヤもその横へ並び、廊下に転がっていた瓦礫を横へ蹴り出す。彼女はそんなマラーヤの横顔をちらりと見て、瞳を細めた。近くで見ればその赤毛も一部焦げついているのがわかる。
「それも皆さんが外で頑張ってくださったおかげですよ。すさまじい戦いだったんでしょうね」
「もうーそりゃあ頑張ったわよ! ……と言っても、本当は救世主が頑張ってくれたんだけどね。そうじゃなきゃ、あたしたちはみんな死んでただろうし」
 そこで突然、マラーヤは声の調子を落とした。すると救世主という単語に反応してか、ゼジッテリカが体を強ばらせるのが伝わってくる。だが噂をされることには、彼女自身はもう慣れきっていた。慌てることなく首を傾げて、不思議そうに瞬きをする。  
「救世主が現れたんですか?」
「シィラは気づかなかったの? いきなり魔物たちの動きが変わったから、あたしたちはすぐにわかったんだけど。あれはすごかったわー」
 少し落ち着いたのかそれとも彼女が動じないことに安心したのか、ゼジッテリカの手から力が抜け、そのまま離れた。秘密を持つということは幼いゼジッテリカには難しいのだろう。しかし、それも今だけの辛抱だった。魔族の動きがないことが確信できれば、護衛はいずれ解放される。彼がそうするはずだった。
「聞いて驚かないでよね。もーすごいのなんの。だってどこかでレーナが来たって声がしたと思ったら、みんなそっちに行っちゃうんだもの。あたし命拾いしたわ」
「そうだったんですか」
 廊下の角を曲がると、その先にまた見知った者たちの姿が見えた。もちろん彼らがいることは、気からわかってはいた。だがマラーヤはゼジッテリカはまだ気づいていないのだろう。彼らにはかまわず話を続ける。
「その間、あんたはどうしてたのよ?」
「もちろん、私はリカ様をお守りしていましたよ。それが任務ですから」
 彼女は決して嘘は吐いていない。真実全てを口にしてはいないが、そこに偽りはなかった。“彼”やギャロッド、シェルダたちの視線を感じながら、彼女はもう一度ゼジッテリカを一瞥する。するとそれとほぼ同時に、ゼジッテリカは彼らの存在に気がついたようだった。笑顔が深くなり、その青い瞳に光が増す。
「あ、テキア叔父様!」
 すぐに心底嬉しそうな声が上がった。そして彼女が咄嗟に手を伸ばすより早く、ゼジッテリカは彼へと向かって走り始めた。軽やかな足音に、マラーヤの焦った声がかき消される。足下には小さいながらも瓦礫が転がっていた。
「ゼジッテリカ」
 彼はというと一歩前に出て、その切れ長の瞳を細めていた。ゼジッテリカが無事だということは、気でわかっていたはずだ。いや、その『心』までが無事だとは思っていなかったのかもしれない。ゼジッテリカの顔を見て、ようやく確信できたのだろう。
 戦場は幼い者へ多くの傷を残す。しかも彼女の正体を知ったとなれば、その衝撃はある意味凄まじいもののはずだった。けれどもゼジッテリカはいまだに彼女を信頼してくれているし、笑顔も見せてくれる。偽りの中にある偽らざるものを、見つけだしてくれたのだ。
 つまずくことなく駆け寄ったゼジッテリカを、彼は両腕で抱き留めた。叔父と姪の感動の再会といったところだろうか。二人の傍にいるギャロッドたちも、その光景を微笑ましそうに見ている。彼女はゆっくりと近づきながら同じく頬をゆるめた。
「叔父様も、怪我とかないみたいだね」
 彼の無事を確かめて、ゼジッテリカは本当に安心できたようだった。先ほどよりもずっと声の調子が柔らかい。生きていても無事とは限らないとまで考えたかどうかは知らないが、実際顔を合わせるまでは不安だったのだろう。なんだかんだ言って最も頼りになるのは彼だ。今後のことを考えればなおのことだろう。
「ねえシィラ、テキア叔父様も大丈夫だよ」
 マラーヤと共に二人の元へ行くと、ゼジッテリカが嬉しそうに報告してきた。ついで顔を上げた“彼”の視線が、おもむろに彼女へと向けられる。
 一つの“偽り”がゼジッテリカに知られた今、彼は何を思っているのか。深い黒の瞳からそれを読みとることは難しかった。彼の柔らかい微笑みに、彼女は一瞬だけ小首を傾げる。
 いや、何も疑問に思うことなどないだろう。ゼジッテリカが彼女を受け入れたことを、彼はただ単に喜んでいるだけだ。ゼジッテリカに残す傷のことを考えれば、彼自身の偽りを考えれば、当然の反応だった。
 これで本当に、ファミィール家は大丈夫だと確信できたのだ。テキアの存在がなくともファミィール家はつぶれず、ファラールは安定を取り戻す。
 彼女はくすりと笑い声を漏らしながら、小さく相槌を打った。一番の懸念が取り払われた今、二人の間に残されたものはわずかだった。事態が収束することへの安堵と、互いの正体への単純な好奇心。
「シィラ殿、どうもありがとうございます」
「そのために私はいますから」
 様々なものを含んだやりとりも、もうそろそろ終わりになるだろうか。わずかに首を横に振って、彼女は笑みを深くした。振り返ってみれば探り合いの会話もなかなか楽しかった。敵としてやり合うのでなければ面白い相手だ。
 彼との決着は、全てに片が付いてからだろうか。この偽りの日々が終わるのを感じながら、彼女はそっと瞼を伏せた。

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