エッセンシャル技使い

第四話 「今度は黒髪美人です」

 僕らが逃げ込んだのは、通路に面した部屋の一つだった。そこには明かりがなかった。ほぼ真っ暗闇で棚もベッドもない部屋というのは、最初に入った場所と似たような印象を受ける。ただこちらの方が少しだけ広い。
 僕もカイキも扉の脇で壁に張り付き、あの紫髪の気配が近づいてくるかどうかをしばらくうかがった。けれども不思議なことに、あの鮮烈な『気』がこちらへやってくることはなかった。逆に遠ざかることもなかった。消えるわけでもなく、あの場所に留まっている。
 それでも油断はできないと、僕たちはさらに時間をかけて待った。だがそれでもあの男の気配は、依然として先ほどの部屋にあった。どうやら何かしているらしい。
「来ないな」
 さらに待ってから、ようやくカイキは声を発した。そして短剣を構えることを止めた。僕はマントで額の汗を拭い、長いため息を吐く。経験したことがないくらいに高鳴っている鼓動は、いまだに落ち着かない。体には不必要な力が入っている。僕は壁伝いにずるずるとずり下がるように腰を下ろし、小さく舌打ちをした。
「一体、何なんだよこの訓練所は……」
 泣きたい気分だった。やっぱりこんな依頼なんて引き受けるんじゃなかった。うまい話には裏があるんだ。肝に銘じておこう。
「魔物なんて、普通はこんな場所にいないだろっ。何で勧誘なんてしてるんだよ」
「普通じゃないから依頼されたんだろう? どうやら技使いを訓練してくれていたのはあの魔物みたいだな。こりゃあ前代未聞の先生だ。確かに、強くなれそうだ」
「冗談言ってる場合!?」
 この状況で軽口を叩けるカイキは、ある種の天才かもしれない。真似はしたくないが尊敬はする。僕が唇を尖らせると、カイキは両手をひらひらとさせて肩をすくめた。これだけの暗闇でもそれくらいは見える。
「おいおい、怒っても焦っても仕方ないだろう? 深呼吸しろよ」
 へらへらと笑いつつ、カイキもその場に座り込んだ。疲れのせいか、尻餅をついた時のような大きな音がする。余裕がないのは二人とも同じってことか。確かに、口喧嘩しても何の得にもならない。でもおとなしく助言に従うのも癪な気がして、僕はそのまま膝を抱え込んだ。
「冗談を言っても解決しないけどね」
「そりゃそうだが。……ただ一つ幸いなことは、あいつにオレたちを殺すつもりはなさそうってところだな」
 カイキの言葉に、僕は頷く。それがせめてもの救いだった。あの男が本気で僕らを殺そうとしていたら、今ここに座っていることもできなかっただろう。眠っていた技使いたちが火に焼かれそうになっているのを助けたところを見ても、間違いはなさそうだ。命は取られない。でも帰れなかったら僕らにとっては似たようなものだった。
「僕らのことも、ベッドにいた技使いみたいに眠らせるつもりかな?」
「そうだろうな」
「サンテイスじいさんも、もう眠らせられちゃったのかな……」
 自然と声が小さくなる。倒れたサンテイスじいさんの姿が脳裏に蘇った。あの淡く輝いていた小瓶の力で眠らせていたんだろうか? そうだとしても何のために? あの小瓶にはどういう力があるのか? 何もかもがわからなかった。混乱しているせいで頭も回らない。
「そういえば、あの黒い魔物――」
「人型に変化してたな。あの手の奴はたちが悪いし、大概強い」
 そう、黒い獣の姿をしていると思ったら、紫髪の男になったあの魔物。そんな真似ができるなんて全く知らなかった。僕には魔物についての知識もろくにない。尋常ではない力を持った未知なる生物くらいとしか聞いたことがなかった。今のカイキの言い草からすると、人と似た姿をとることもあるようだ。
 あんな常識破りの存在に、どうやったら勝てるというのか? 倒さなくてもいいんだとしても、もう一戦は避けられそうにない。どうにかこの訓練所を抜け出すためには、あの部屋を通らなければならなかった。
「あいつが強いのは僕にもわかるさ。それで、カイキはどうするつもり?」
「それを今から考える。策を練るしかないだろう? それともここで心中でもするか?」
「カイキ、その冗談は面白くない」
 僕はうろんげな視線をカイキへと向けた。耳の後ろを掻きながら笑っているカイキに、蹴りを入れたい衝動に駆られる。だけど今はそんなことで体力を使っている場合じゃあない。魔物の気が変わって、いつこちらへ向かってくるかもわからないんだ。今は単にサンテイスじいさんを眠らせる作業中ってだけかもしれないし。
「まあ、オレらもサンテイスさんたちと一緒に寝てみるって選択肢はあるかもな。死なないんだし。オレがここにいるってわかったら、あいつらは助けにくるだろうし」
 しばらく考え込んでから、カイキがふと思いついたようにそんな案を口にした。僕は顔をしかめた。助けを待つ? 本気なのか? しかも『あいつら』って誰だろう?
「助け? あいつらって?」
「仲間」
「いたんだ!?」
 思わず僕は声を張り上げた。こんな奇妙な依頼を受けている技使いに、仲間がいるとは信じられなかった。誰かと組んでいるなら、それ相応の依頼のみ選ぶこともできるはずなのだ。そもそも、あの食堂にはカイキ一人しかいなかった。待ち合わせをしている様子でもなかったし。
「……何だよ、その驚きよう」
「だって流れの技使いが群れてるなんて聞いたことがないんだけど」
「オレらは特別なの」
 ここにきて嘘を吐いてるなんて思いたくもない。膝を抱え込んだまま、僕はため息を吐いた。僕はカイキのことも何も知らない。今のところわかっているのはこんな場所でも馬鹿話ができるくらいに空気が読めず、そして僕よりも少し魔物に詳しいってことだけだ。まあカイキみたいな奴なら、一般常識が通じなくても不思議はないけど。
「へえ、じゃあ何で一緒にいなかったのさ」
「それは、ちょっとしたわけがあって」
「あっそう。でも助けてくれるって、本気で信じてるの? 相手は魔物だよ?」
 しかし、問題はそこではない。魔物が絡んでいるってわかったら、まず普通の技使いは踏み込んでこない。わからないまま進入してきたら、僕らと同じ道を辿ることになるだろう。結局、何の助けにもならないんだ。当てにしたって駄目だ。
「魔物が絡んでいる事件なのに、何を期待してるのさ。無理に決まってるだろう」
「魔物一匹くらい、あいつなら一撃だろう。あれこそ化け物だよ。……って駄目だ、その作戦は駄目だ。怒られる。不機嫌になる。死ぬよりひどい、恐ろしいいびりが始まる。あああ、すみません、頑張ります。自分で首突っ込んだことですから、頑張ります。だからこんな案を考えたなんてことがばれませんように。お許しを、お許しをー」
 僕がそう言い放つと、予想外な反応が得られた。自分の作戦に致命的な弱点があることに気がついたらしく、カイキは勝手に喋り続けながらひたすら謝り始めた。僕に対してではない。がくがくと体を震わせながら両手を組み、必死に誰かに祈っていた。先ほど魔物を前にした時よりも、明らかに狼狽えていた。どうやらとんでもない仲間らしい。だから『特別』なのか。
「……よくわかんないけど、元からその作戦は駄目だって。眠らされた技使いが無事に目を覚ます保証もないんだから」
 怯えるカイキにそう忠告して、僕は唇を噛んだ。胸の奥がずしりと重くなった。これだけ追い詰められたのはいつ以来だろう? やっぱりお金に釣られるのはよくない。今まで何度もそう思ってきたのに、またやってしまった。でもお金がないと生きていけないのも事実だ。お金がなかったら食べていけないし、武器だって買えない。ちょっとした力を使えるからって、それだけで崇め奉ってくれるわけでもないんだ。
 僕らが便利屋になることを、皆は期待している。火事が起きたら消火してくれる、川が氾濫したらせき止めてくれる、誰かが暴れたら取り押さえてくれる、難事件が起きたら解決してくれる。それが理想とされる流れの技使いだ。さすがにただで働かせようという輩はいないけど、安い料金で仕事を請け負ってくれる者ほど善人扱いされていた。
 そんなことが、可能なわけないのに。技使いは何でもできるわけじゃあない。神様じゃあない。僕は結界を中心とした『補助系』くらいしかまともに扱えない。炎系の技も水系の技も苦手だった。先ほどの戦いを見る限りでは、カイキは土系の使い手だろうか。でもあの魔物は、どの系統の技も使えるのかもしれない。少なくとも炎と水、補助系は使っていた。皆が理想とする技使いってのは、要するに化け物並ってことだ。
「そうだな、そうだよな。よし、オレは何も考えなかった。考えなかったぞ」
 ひとしきり「お許しを」や「ごめんなさい」を繰り返してから、ようやくカイキは立ち直った。幸いにも、その間もあの魔物が近づいてくる気配はなかった。カイキは自分の頬を両手で叩くと、おもむろに立ち上がる。
「カイキ?」
「この部屋の奥に、気配がある」
「え?」
「眠らされている技使いがまだいるのかもしれないな」
 カイキが指さす前方へと、僕は目を凝らした。暗くて気がつかなかったが、よく観察するとこの部屋の奥にも扉がついていた。今まで何度か見かけた物と同じ作りだ。僕も壁に手をつきながら立ち上がる。
「よし。トロンカ、行ってみるか」
 僕の返事を待たずにカイキは歩き出した。また魔物がいたらどうしようという迷いが一瞬生じたけれど、先ほどのような鮮烈な『気』は感じ取れない。僕もゆっくり歩き出す。室内に響く不恰好な靴音が耳障りだった。
「開けるぞ」
 宣言してから、カイキは慎重に扉を引いた。その奥にも、僕らが座っていた部屋と似たような空間が広がっていた。隅に一個だけ明かりがあるのが大きな違いか。その淡い光のおかげで、ベッドが三つ置いてあるのがすぐにわかる。その上には人間が一人ずつ、シーツを被ったまま寝かされていた。今まで見てきた技使いと同じ姿だ。
「さーて、美少女はいないかなっ」
「まだそれやるの?」
「こんな時だからこそ潤いが必要だろう」
 うきうきとした声を出すカイキを見ると、何度目かのため息が漏れた。サンテイスじいさんがいなくても変わらないようだ。ということは、サンテイスじいさんの調子に合わせていただけではないらしい。
 カイキはまず、近くにあるベッドの方へと寄っていく。僕も仕方なくその後を追った。覗き込んでみると、カイキが期待するような容姿ではなかった。初老にさしかかろうかという年頃の男性だ。目を瞑って微動だにせず、緩やかな呼吸を繰り返している。
「女の子じゃなくて残念だったねぇ」
「なーに、まだあと二人いるんだし――」
「……人が、いるの?」
 その時、僕らの会話を遮る声がした。それは、僕らの右手から聞こえた。若い女性の、かすれ気味な声だ。僕もカイキも一斉に振り返り、主がいると思われるベッドへ双眸を向ける。すると、そこに寝かされていた女性と、思い切り目があった。切れ長の瞳がじっと僕らを観察していた。
「技使い?」
 癖のある黒い髪に黒い瞳の、比較的顔立ちの整った女性だ。二十代前半くらいに見えるけれど、実際の年齢はわからない。彼女は首を捻って僕らを見つめていた。その体はシーツの下に隠れている。
「よかったねカイキ、黒髪の美人さんだ。君の好みじゃない?」
 勝手に僕の口からそんな言葉が漏れ出た。どうやら二人の調子が移ったらしい。カイキはこくりと首を縦に振ると、静かに彼女の方へと近づいていった。僕もそれに倣う。不思議な心地だった。喋られる人間に出会ったことが嬉しいはずなのに、夢の中にいるような気分とでもいうのか。
「ここまで辿り着いた人たち、初めて見たわ。魔物には会わなかったの?」
 僕らは彼女の側に立つ。横になっているとはいえ、僕よりもずいぶんと背は高そうだ。物怖じしない彼女の黒い瞳はどこか醒めていた。何かを諦めた人間が持つ、ある種の傲慢な光を感じさせる。カイキはゆるゆると首を横に振り、腰に手を当てた。僕はそんな二人の様子を黙って見守る。
「いや、魔物には会った。オレたち二人はどうにか逃げてきたところだが、もう一人はやられた」
「ああ。なるほど。今回は複数だったんだ。町長さんも考えているのねえ」
 カイキの説明を聞いて、女性はくつくつと笑った。その声にはどこか侮蔑的な響きが混じっていた。彼女は何か知っているらしい。カイキもそれを感じ取ったようで、詰め寄る勢いで彼女の顔を覗き込んだ。声にも力が入る。
「どういうことなんだ!? ここで何が起きてるのか知ってるのか!?」
「そんなのあなたが見た通りよ。魔物が訓練所と称して技使いを集めて、精神を吸い取っているの。迷い込んだ人も、調査に来た技使いも、みんな餌食になってる」
 カイキとは逆に、淡泊な口調で女性は答えた。「精神を吸い取る」と、僕は口の中で呟く。いつの間にか握りしめていた拳の汗が気持ち悪くて、マントへと手のひらをこすりつけた。
 精神とは、あの精神? 精神を吸い取るなんてことが可能なのか? それは僕らが技を使う際の力の源とされていた。精神量が多い技使いは大きな技を使うことができるし、連続して技を使うこともできる。もちろん精神量が多いからといって必ずしも強いわけではない。それだけで決まるわけではない。けれども技使いの実力の指標の一つではあった。
 僕が固唾を呑んでいると、カイキも驚いて息を止めていたみたいだった。さすがの彼もこれは予想していなかったのか。そりゃそうだろう。魔物が精神を集めているだなんて聞いたことがない。
 横になっている女性は、黙って僕らの反応を見つめていた。何かをうかがっているようにも思えた。カイキはひゅっと小さく呼吸をしてから、口を動かす。
「精神を吸い取る? 魔物が?」
「そうよ。何かのために集めているみたいだったわ。あの魔物は私たちから効率よく精神を集める方法を探っているのよ」
「精神を吸い取られ過ぎたから、だからみんな眠っているのか?」
「ええ」
「おいおい、何てことだよ」
 カイキの愕然とした声が部屋の中に響き渡る。精神を消費しすぎて眠くなるというのは、僕も身に覚えがあった。なるほど、強制的に吸い取られてしまったからずっと眠っているわけか。だから命の危険が迫っても起き上がらなかったのか。ということは、まさかあの魔物が手にしていた小瓶は、精神を吸い取るための道具? 僕は息を呑んだ。そんな物を魔物が持っているなんて、僕らは終わりじゃあないか。

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