マジシャンのいる部屋  出会い編

 冷たいご飯をかきこんだ私は、部屋に入ると電気もつけずにベッドに飛び込んだ。湿ったようにひんやりとしたシーツが頬に当たる。でもお日様の匂いも何もしなかった。思わずため息がもれる。
「今日も仕事、明日も仕事。朝も仕事、夜も仕事」
 家には私一人だった。親の帰りは夜中だろうし、私には兄弟もおじいちゃんもおばあちゃんもいない。そう、いつも一人。
 部活帰りの誰かの声と、チリリンという自転車の音が聞こえてきた気がした。でもそれもすぐに遠くなった。静かな住宅街には音がほとんどない。 暗い部屋の中で聞こえるのは自分の息づかいと心臓の鼓動。そして規則正しく動く時計の針の音だけだ。
 どうして今日学校さぼっちゃったんだろう。
 私はぼんやりと天井を見上げた。
 暗闇に目が順応してきたのか壁紙についた染みが見えてくる。見慣れた、でも親近感すらわかないそれは、私は大嫌いだった。これを見ている時は、私はいつも一人なんだ。
「はあ……明日なんて言おうかなあ」
 先生は怒るかな?
 瞼が重くなり、私はゆっくりと寝返りを打つ。カーテンのひいてない窓から見える月は、薄雲の後ろでぼんやりと光っていた。
 私は目を閉じた。



 トントントン。
 リズミカルな音がする。何かを叩くような音。
 何だろう?
 重い瞼をゆっくりと開けると、黒い影が見えたような気がした。瞬きをしてみるけれど、でもそこには何もない。私は布団をたぐり寄せ、また眠りに入ろうとする。
 トントントン。
「お嬢さん」
 今度はもっとはっきりと聞こえた。いや、音だけじゃない、声も聞こえた。
 私は慌てて目を開ける。
「お嬢さん、起きてます?」
 視界に入ったのは、黒い影だった。いや、人だ。ただ妙な仮面と黒い……そう、シルクハットをかぶっているんだ。よく見れば服も黒くて変わった形をしている。左手には何か細長い棒がある。
 私はその人をまじまじと見つめた。
「ど、泥棒!?」
「違う違うお嬢さん。泥棒がわざわざ住人を起こすわけないだろう?」
「じゃ、じゃあ誘拐犯!?」
「違うって、僕はマジシャン。君に御礼を言いに来たんだ」
 思ったよりも声は若かった。たぶん高校生くらいじゃないかな? でもちょっと、いやはっきりいって怪しい。
 だって勝手に部屋に入ってきてるんだよ?
 私は慌てて上半身を起こした。
「こ、来ないで!」
「ひどいなあ、御礼を言いにきただけなのに」
「御礼言われるようなことしてない! それに私知らない!」
「僕は今日ずっと君を見ていたよ」
 その怪しい男はにっこりと微笑んだ。手にはいつの間にか赤い薔薇が握られていて、そいつはそれを私に手渡してくる。
 恐る恐る受け取ると、それは瞬時に白い薔薇に変わった。びっくりだ、本当にマジシャンなのだろうか?
「え? え?」
「僕は嘘言ってない。君、今日ずっと川原で道草してただろ? 僕はそれをずっと見てたんだ。あ、いや、観察かな」
「道草……って、あれはさぼってただけで」
 なんと、私は学校さぼってるところをこいつに見られていたらしい。背中を冷たい汗が落ちていった。まさかそのことで脅す気じゃあ……。
「その時の君の可愛らしいことったら。表情ころころ変わるし、突然妙な動き始めるし。丁度スランプ中だったんだけど、君を見てたら新しいマジックが浮かんだんだよ。その御礼を言いにきたのさ」
 そう言うとその妙な男は私のおでこを突っついた。すると何故だか体が重くなり、私はベッドに背中から倒れ込む。
 え?
 なんかこれってまずくない?
 私は仮面に隠れてわかりにくい笑顔のその男を見上げた。確かにマジシャンっぽい格好な気もするが……それにしてもこの仮面は変態っぽい。
 もしかしてかなりピンチ?
「僕を救ってくれた君に、いい夢をあげるよ。寂しいんだろ?」
「ち、近づかないでっ! 変態マジシャン!」
 私は勢いよく首を横に振った。暗い中部屋でこんな妙な奴と一緒にいるなんて、恐ろしすぎる。親も誰もいないことがこんなに心細かったことは今までなかった。目尻に涙が浮かんだ。
「そんなに怯えなくてもいいから……何もしないって」
「だ、だって今!」
「これは暗示に近いもの……催眠っていうのかな? 君は素直だからかかりやすいんだ。大丈夫、ゆっくり眠れるよ」
 勝手に家に入ってきた人が何て勝手なこと言うんだろう。変態マジシャンの手がそっと私の手を取る。思ったよりも温かい、細い手だ。
「一人が寂しいのはよくわかるよ。僕も一人だったから。だから君にいい夢をあげる。僕のみたいにならないようにね」
 何だかものすごく眠くなってきた。この非常事態にどうしてだろう……これが催眠なんだろうか?
 変態マジシャンの手が私の前髪をなぞる。それから頭を撫でて、優しい声がする。私は眠気を堪えきれずに瞼を閉じた。
「良い夢を」
 意識が落ちる前に、かすかにそんな声がした。私は微笑んで、うなずいた。



 次の日の朝、何事もなく目覚めた私は部屋の中を見回した。荒らされた様子もないし、何かされた後もない。窓ガラスも壊れてないし、あの変態マジシャンが入ってきた痕跡すらなかった。
「きっと、夢だったのよね」
 そうに違いない。
 まさかあんな馬鹿なことあるわけないんだ。きっと疲れすぎて、変な夢を見たんだろう。でも何だか気分がすっきりしていた。よく覚えていないけど、いい夢を見たような気がする。
「まあいいか」
 私は制服に着替えると階段を駆け下りた。もうお父さんもお母さんも出かけていて誰もいないけど、用意されていた朝食は冷めていなかった。
「さっきまでいたんだね」
 そのことが何故だかすごく嬉しくて私は温かいご飯に箸をつける。テレビをつければたわいもないニュースが流れていて、平和その物だった。
「あ、学校に遅れる!」
 私は慌ててご飯をかきこんだ。先生に何言われるかなんてことは、もうすっかり忘れていた。もちろん後で理由を尋ねられて、困ることになるんだけど。



 そしてその晩―――
「今日もまた残業? 仕事熱心ー」
 私は味気ない留守電を聞くと足音を鳴らしながら階段を上がった。過労死しやしないかと思いながら部屋に入り、スイッチへと手を伸ばす。蛍光灯が部屋を照らした。だけど、そこにはあるはずのない、いや、いるはずのない人が立っていた。
 黒いシルクハットに仮面、妙な黒い格好をした細い男の人。
「へ、変態マジシャン!?」
「変態とはひどいなあ。昨日はいい夢見られたかい?」
「え? ええっ? やっぱり昨日のって夢じゃなかったの!?」
 私は何度も瞬きをした。窓ガラスは割れてないし、無理矢理こじ開けられたあともない、それなのにこの変態マジシャンは私の部屋に入ってきている。これもマジックなんだろうか?
「あの後よく考えたんだけどね、君は夜寂しい、僕も寂しい。だったら毎日会えばいいんじゃないかって。ほら、それならいつでも新しいマジック考えられるし、君も一人じゃないから寂しくないし」
「なっ――」
「ね? 良い案だろう?」
「こ、この変態ー!」
 私は思いっきり声を上げた。でも悠然とかまえた変態マジシャンは、ステッキをふらふらさせながら動じる気配すらない。
「大丈夫、またいい夢見せてあげるからね」
「変態! 不法侵入! 訴えてやる!」
「いい子の君にはそんなことできないよ。優しいからね」
 そう言いながら変態マジシャンが近づいてきた。でも何故だか私は逃げることができなかった。不思議だけど、声が優しすぎて温かくて泣きそうになる。
「よろしくね」
 変態マジシャンはステッキをくるりと回した。そしてどこからともなく薔薇を取り出すと、それを手渡してきた。棘のない、甘い香りのするピンク色の薔薇だ。
「断ったって、どうせ入ってくるんでしょう? だったら私も利用させてもらわなきゃね」
 私はそれを、受け取った。


 こうして幸か不幸か変態マジシャンとともに過ごす夜は始まってしまった。

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