マジシャンのいる部屋4  バレンタイン編

 寒い寒いと小声でつぶやきながら、私は玄関で靴を脱ぎ捨てた。そのまま居間へと直行しようとして、でもぴたりと立ち止まる。靴は揃えておかないとって前にクレが言ってたっけ。本当は少しでも早く暖かいところに行きたいんだけど、我慢して私は黒いローファーをきちんと揃えておく。
「これでよしっ」
 私はにんまり微笑むと鞄を手にしたまま居間へと駆け込んだ。誰もいないから空気は冷え切っているけれど、そこにはお気に入りのこたつが待っている。
「早く暖かくなればいいのになあ」
 制服を脱ぎもせず私はその中に潜り込んだ。暦ではそろそろ春だっけ? でも外は冷たく乾いた風がひっきりなしに吹いていて、冬真っ盛りを主張している。
「そう、もう二月なんだよなあ」
 こたつの上にあごを載せて私はうめいた。二月となればあのイベントが待っている。小学生の時と違って節分はほとんど無視されるけれど、そのイベントだけはむしろよりみんなの注目の的となるのだ。
「バレンタイン」
 口からもれたのはぼんやりとしたつぶやきだった。本当は嫌いでもなければ好きでもないイベントだ。チョコレートなら自分が食べたい。だって売ってるの見ると美味しそうなんだもん。
 でも嫌いなのはクラスで交わされるお決まりの質問だった。
『京は誰かにあげるの?』
 なんていうのはもう何度も聞かれたことで。その度に、お父さんにはあげないとねー、と適当に答えていた。
 実際『お父さんにはちゃんとあげるのよ』というのがこの時期のお母さんの口癖だった。仕事で忙しいお母さんは買いに行く暇ありません、というのがその理由らしい。だから京が買っておいてね、とも言っていた。
「私だってチョコ食べたいのにー。でもお金ないのにー」
 思わず脱力してべたりとこたつにもたれかかる。中学生のお小遣いなんて悲しい金額だし、かといってバイトもできないし。
「あ、クレ」
 そこですごいひらめきが脳裏をかすめた。その思いつきを逃さないよう顔を勢いよく上げて、私はポンと大きく手を叩く。
「クレに頼めばいいんだ。料理上手だし、きっとチョコレートだって作れるよね!」
 私はコートの袖から腕を抜いて、うんうんとうなずいた。クレことクレッシェンドは両親のいない夜に、突然やってくる不思議なマジシャンだ。全身黒ずくめに怪しい仮面を付けた、けれども優しい不思議なマジシャン。
「あれ?」
 でも何かが引っかかって私は首を傾げた。片方の腕だけに引っかかった分厚いコートが、だらりと垂れ下がって床につく。
「ひょっとしてチョコってクレも欲しいのかな?」
 私は今度は反対の方へと首を傾げた。クレは見習いマジシャンで師匠がいて、兄弟子たちがいて、ついでに言うとどうやら通信制の高校に通っているらしい。傍にいるのはみんな男の人ばかりで、女の人の話が出てきたことがない。
「通信制……ってことはほとんど学校にも行かないからそこじゃあもらえないよね。あれかな、どうせもらえないんだーってまた諦めてるのかな」
 そうやってひそかに落ち込む姿が容易に想像できた。私の前ではいつも余裕綽々でマジック披露してくれるのに、師匠や兄弟子さんたちの前では自信なさそうなんだもんね。
「よし、クレに手伝ってもらってチョコ作って、それをクレにもあげよう。でも内緒にして」
 私はにんまりと微笑んだ。手伝ってもらったチョコをあげるのって変な気もするけれど、美味しいものは一緒に食べる方がいいに決まってる。
「そうと決まったらどんなのがいいか考えなくちゃね」
 私は勢いよく立ち上がった。コートを脱いでハンガーにかけると、着替えるために部屋へと急ぐ。その足取りは軽かった。久しぶりに楽しそうなバレンタインが迎えられる、そんな予感があった。



 バレンタインデーを明日に控えた夜、私は台所に向かって立っていた。しっかり身につけた大きめのエプロンは調理実習の時使ったもの。包丁だってまな板だってあるし、準備万端だ。
「ね、ねえみやちゃん」
「ん?」
「何する気?」
「見てわからない?」
 だからこそだろう、背後に立つクレは困惑気味にそう声をかけてきた。今日もやってきた彼はいつも通りの怪しさ溢れる格好で、訝しげに私を見つめている。
「チョコレート作るの」
「チョ、チョコ……!?」
「クレ料理ばっちりだもん、手伝ってくれるよね?」
 驚いたクレをみて私はふふふと笑った。後でもっと驚いてくれるかなあと思うとさらににやけてくる。けれどクレは眉をひそめてむっとしたように口を結んだ。変な仮面のせいでちゃんとした表情はわからないけれど、いい気分ではないみたい。
「あれ、ひょっとしてお菓子作りは苦手とか?」
「そういう、わけじゃあないけど」
「じゃあ手伝ってよクレ、お願ーい。せっかくだからさ、美味しいのを作りたいんだよね」
 私は胸の前で拳を握った。美味しいのを食べたいから、という本音は心の奥に閉まっておく。きっとクレならすごいチョコの作り方も知ってるに違いない、という不思議な確信があった。
「それ、誰にあげるの?」
「内緒」
 困ったように笑うクレはそう尋ねてきた。私は目を細めてくるりと回り、再びまな板へと向かう。今教えちゃったらつまらないからそう言っておく。ばれないよう顔を見ないでおくと、背後でクレが深くため息をつくのが聞こえた。
「わかったわかった、手伝えばいいんでしょう? ところでみやちゃん、チョコって何作るの?」
 すると仕方がないとでも言いたげに、クレは隣に立った。いつの間にか手にしているのは愛用の黒いエプロンだ。エプロンまで黒いのかと最初思ったのを、今でもちゃんと覚えている。
「決めてない。簡単で美味しいのがいいなあ」
「難しいこと言うね、みやちゃん。うーんそうだなあ、じゃあトリュフなんてどう?」
「わ、すごい美味しそう!」
 私は両手を目の前で組んで声をもらして笑った。クレは不思議そうに首を傾げている。私も食べるんだってことは考えてないんだろう、きっと。
「材料とかは?」
「ばっちり! 何でも作れるように揃えてあるから」
「そういうとこ準備いいね、みやちゃん。じゃあ板チョコか何か持ってきて刻んで。あと生クリームも持ってきて」
「はーい」
 私はうきうきと冷蔵庫へ向かった。クレがいるなら失敗しないだろう。きっと美味しいトリュフができあがるはずだ。みんながびっくりするくらい、私が作ったって信じないくらいの。
 それから私は、クレの言われる通りのことをした。チョコを刻んで生クリームを沸騰直前まで温めて、それを混ぜて。
「わー」
 そして適度な硬さになるまで待つ。それをさらに適当な大きさに分けて手で丸めれば、見るからにトリュフらしくなってきた。本当はこの後もコーティングするらしいんだけど今回はなしだ。私には難しいかもしれない、だって。でもこれでも十分美味しいらしいから言う通りにする。楽な方がいいもんね。
「後はココアパウダーだけど」
「あるよー」
 私は得意満面の笑みで戸棚へ手を突っ込む。家に一人でいることが多かったから大抵のことはわかってる。料理は……あんまりしなかったけどね。でも場所はちゃんとわかってるんだ。
「完成!」
 トリュフは、思っていたよりもずっと早く完成した。
 ココアパウダーをまぶしたそれは私の手作りとしては上出来で、上から覗き込むだけで美味しそうだった。一人だったら慌てたりまごついたりして失敗したかもしれないけれど、クレがいるからそんな心配もなかった。嬉しくなって頬がゆるむ。私はトリュフを一粒つまむと、それを苦笑するクレの唇に無理矢理押し当てた。
「え?」
「はい、クレ食べてー」
「な、何。味見?」
「いいからさ」
 戸惑いながらもクレはそれを自分の手で取って口の中へと放り込んだ。私はドキドキしながら待つ。ある意味クレが作ったようなものなんだから変な状況ではあるんだけど。
「あ、美味しい」
「本当ー!? やったー、じゃあ私も食べる」
 クレの本音っぽいつぶやきを聞いて、私は目を輝かせた。一番手前にあった一粒を手にして、それを軽く眺めてから口にする。
 程良い甘さにとろけるような食感。買い物した金額を思えばとってもお得だった。この時期売ってるのは余計な包装とかいっぱいしてあって高いんだよね。懐には優しくない。
「こらみやちゃん、つまみ食い?」
「別にいいんだもん、元から私も食べる予定だったんだし」
「え、ええっ?」
「ほら、クレももっと食べていいよー。お父さんの分はこの五個だけだから」
 私はお父さんの分を脇へ避けるともう一粒に手を出した。止まらなくなりそうだけど今が夜だということを思い出す。程々にしないと太るよね、と心の中で声がした。
「み、みやちゃん?」
「これは、クレと私とお父さんの分のチョコ。あ、バレンタインは明日だっけ。ちょっとフライングかな」
 そう答えて私はトリュフを口の中へ放り込んだ。舌の上でそれを転がせばじわりと甘さが染み込んでくる。その感触が幸せだった。
「僕の分も……入ってたんだ」
 呆然とした様子でクレは立ちつくしていた。私はその横でもう一粒手を出そうか迷う。明日の分にしようとは思うんだけど、もう一つだけならいいんじゃないかと誘惑の声が聞こえてくる。
「みやちゃん」
「ん?」
「ありがとう」
 不意にクレの手が伸びてきた。その大きな手のひらが頭に乗っかって、わしゃわしゃと撫でられる。くすぐったくて嬉しいけれども恥ずかしかった。それに子ども扱いされてるみたいでちょっと寂しくなる。
「もうクレ、小学生じゃないってば!」
「あーごめんね、ついね」
 苦笑するクレは慌てて手をのけたけれど、私はすぐにそっぽを向いた。でも一ついいことが思いついて、くすりと笑い声がもれる。
「みやちゃん?」
「クレ、ホワイトデー期待してるからね」
 にっこり笑ってそう言うと、私はさらなるトリュフを目指して手を伸ばした。三倍返しだからね、と悪戯っぽく囁いて。

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