白の垣間見 4

 セレイラが時間稼ぎに行っている間に、リーツはケイチを連れて部屋の外へと飛び出した。鍵を返していなかったのが幸いだ。これがあれば、誰にも知られずドームの外へと出ることができる。
 皆は宇宙船の話が気になっているのか、廊下には依然として人通りがなかった。多くの者が中央研究所へと出掛けたらしい。残っているのは論文に追われている見習いくらいだろうが、そういった者たちは研究室の中だ。だから密かにケイチを連れ出すことは、想像していたよりも難しくなかった。
「本当に大丈夫なの?」
 時折思い出したように尋ねるケイチの頭を、リーツは撫でるように叩く。ケイチの足にあわせて小走りで進む廊下には、不思議なさざめきが満ちていた。誰もいないはずなのに急くのも全ては気持ちの問題か。
 洗いざらい話すべきではないか? 宇宙船が動くという保証はどこにあるのか? セレイラと別れてからというもの、決心を鈍らせる理性の声が何度も頭の中で響く。だがケイチの顔を見る度にリーツは考え直した。弱気になってここで諦めたら何になるのか。彼は今、ケイチの運命を預かっているのだ。
 薄暗い廊下の奥、ドームから出る扉の傍にはいつも通りもこもこのコートが掛けられていた。その一つを手にすると、リーツはそれをケイチへと押しつける。
「ケイチ、これを着るんだ」
「え、ええーっ? でも大きいよ、これ」
「何も着ないよりはましだ。外は寒いんだぞ」
 リーツはそのぶかぶかなコートを、有無も言わさずケイチに着せた。いや、正確には被せてくるんだ。そして自分ももう一つのコートを着ると、コートそのものにしか見えないケイチを抱きかかえる。
 ほとんど鍛えていない彼がすんなりと持ち上げることができるくらい、ケイチの体は軽かった。いつの間にか消えてしまったのではと、ぎょっとした程だ。気絶してるかしてないかでこうも違うらしい。
 ドームの外は、先ほどと変わらず荒廃した大地が広がっていた。昼を過ぎて気温は上がっているはずだが、リーツにはそのようには感じられない。冷たい風が吹き荒れるその光景を、コートの中から顔を出したケイチが不思議そうに見た。
「これが惑星イルーオの本当の姿だ」
 思わずそんな言葉が口からこぼれ、嘲るような笑みが浮かんだ。
 本来は人間が住むのに適さない星。誰もが欲しがらなかった惑星。そこを無理矢理技術でねじ伏せたのが、遙か昔ここへ移り住んだ研究者たちだ。生まれた時からここで育ったリーツやセレイラのような者たちだけでなく、この環境に憧れを抱き、訪れる研究者は今も多い。確かに中にいるだけなら快適だった。
「うぅん?」
「荒れた冷たい世界さ」
 ドームの壁づたいに進みながら、リーツは宇宙船の方を目指す。向かい風に負けぬよう走るのはなかなか大変で、揺れるためかケイチが必死にしがみついてくるのが、コート越しにもわかった。だからといって速度を落とすこともできない。舗装されていない道に躓かぬよう、気をつけながらリーツは駆けた。
 すると不意に、風に乗って話し声が聞こえてきた。唸るような風音が弱まった時に、低い男の声を彼の耳は捉えた。はじめは気のせいかと思ったのだが、しかし次第に会話の内容まで聞き取れるようになる。彼は慌てて足を止めた。まさかもう誰かが調査に出てきたのか? ケイチを抱え直し、彼は息を潜める。
「――すると何だ、あれはホワイティング合金でできているというのか?」
「ええ、そのようです。ですから取り扱いは慎重にしなければならないかと。保管専門の方を呼んだ方がいいのではないですか?」
 耳を澄ませると、やりとりがさらにはっきり聞こえるようになった。このしわがれた声は第一期の研究長、そしてもう一方はセレイラのものだ。別の扉から外へと出たのだろう。宇宙船へ真っ直ぐ行くのならば、第三研究所にある扉からの方が近い。会話から判断するに、調査に向かおうとした一団を見つけ、セレイラが何とか止めようとしているところか。
 ひやひやしながら聞き耳を立てていると、しばらく同じようなやりとりが繰り返された。セレイラが研究長とこんな風に話せる立場だとは知らなかった。それだけ信頼されているのか。第一期の研究者があれだけ少ないことを考えると、彼女は期待の新人なのだろう。そんな彼女がまさかこんなことを企んでいるとは誰も思うまい。
「しかし、今ジーダッツはイルーオにはいないのだ」
「え、そうなんですか!?」
「ですが研究長、あの船はかなりの大きさですよ。これは人出も必要なのでは?」
 そこで幸いにもセレイラに加勢が入った。この調子で話が進めば、そのうち引き返してくれるだろう。安堵の息を吐くのを堪えて、リーツはその場にそっとケイチを下ろした。さすがに腕が疲れてきた。また走り出す時に抱え上げればいいだろう。幸いにも状況を把握しているらしく、ケイチはリーツの前でおとなしくしている。
「……そうだな」
「ではついでに他の資料も探してきましょう。ホワイティング合金についての論文が、確かあったはずです」
「ああ、それなら――」
 リーツの予測は当たった。複数の足音とともに、次第に声は遠ざかっていった。見上げてくるケイチに目配せをして、リーツはその頭を軽く撫でる。ここで早まってはいけない。声は全く聞こえなくなったが、リーツは用心してしばらくそこに隠れていた。ここから第三研究所の扉まではややあるはずだ。誰かに姿を見られてはまずい。
「行っちゃった?」
「ああ、もう大丈夫だろう」
 もぞもぞと動くケイチに首を縦に振ると、リーツは深呼吸をしかけ、止めた。ここはドームの外だ。その代わりにもう一度辺りを見回して、彼はケイチを抱え上げた。セレイラはしっかり役目を果たしてくれたのだから、彼も応えなければならない。子どもを一人運ぶだけだ。大したことではない。
 再び顔を上げると、灰色の雲を背にして白い船体が輝いていた。人工太陽の光を反射しているためか。風がうねり砂煙を巻き起こすも、それが覆い隠されることはない。意を決した彼は、勢いよく走り出した。子どもの頃のように必死に大地を蹴り上げる。
 騒がず焦らず少しでも早くあの船へ。どこか噛んだのかケイチが変な声を上げるが、もうリーツは止まることができなかった。平らな道とは違いこの荒野は油断すれば足を取られそうで、とにかくがむしゃらに進むしかない。息が乱れ、額に長い前髪が張り付いた。
 あともう少し。宇宙船の入り口が見えて、彼は口元を緩めた。あの中にケイチを運んでしまえば何とかなる。きっとどうにかなる。危うく転びそうになりながらも安堵の息を吐きかけた、その時だった。
「不審者がいるぞ!」
 地を震わせるような叫びが、後方から聞こえてきた。肩越しに振り返ることもできないが、おそらく研究員の一人だろう。まだ扉から出て行ってなかったのか、それとも忘れ物でも取りに来たのか。何にせよ見つかれば同じだ。
「だ、誰か来たの!?」
「ケイチ、舌噛むぞっ。ちゃんと掴まってろ!」
 それでももう止まれない。怒号のような叫び声が聞こえたが、無視してリーツは走り続けた。誰だとか止まれだとか、そのようなことを言っているのだろう。このもこもこのコートのおかげで髪の色もろくに見えないに違いない。
「止まれ!」
 さらに大きな声が彼の鼓膜を震わせ、ついで女の悲鳴がかすかに聞こえた。抱きかかえたケイチが慌てたように手足をバタバタとさせ、意味のわからない叫びを上げる。それも風音に掻き消されてよく聞こえなかった。
 まさか、今のはセレイラの声だろうか? 振り返りたい衝動に駆られたが、そんなことをすれば石に躓いて大地の上を転がる羽目になる。リーツはそのまま宇宙船の扉へと向かった。今の彼に選択肢などない。
 宇宙船は先ほどと同様、土の中に埋もれていた。その入り口もやはり開いたままだ。ようやくその前へと辿り着いたリーツは、ケイチを静かに地面へと下ろした。膝が笑っている。呼吸が整わない。迫るざわめきを感じつつ、リーツはケイチの背中を押した。
「ケイチ、とにかく中に入るんだ。床までは距離があるから、怪我とかするなよ?」
 暗闇の中を覗き込むケイチの肩を、リーツは促すように優しく叩く。ちらりと肩越しに背後を窺うと、運動不足の研究者たちが息を切らして走っている姿が見えた。その背後にはやはりセレイラもいる。
「で、でも――」
「とにかく入るんだ。それから何でもいいからボタンを押して、とにかく扉を閉めるんだ。いいな?」
 無茶苦茶なことを言っているという自覚はあった。自分がそんなことを言われたら困惑するだけだろう。しかしそれ以上のことは、彼には告げられなかった。宇宙船についての知識など何もないのだ。
 それにケイチが逃げ込んだくらいなのだから、イルーオに来る前もこの扉は開いていたはず。それでも移動したのだから、勝手に閉まるものなのだろう。リーツはそう楽観的に考えることにする。
 ケイチは勇敢だった。リーツを見上げて大きく頷くと、彼は躊躇うことなく宇宙船へと飛び込んだ。すぐに軽い靴音が中で反響し、無事に着地できたことが知れる。安堵したリーツは背後を振り返った。他に何か彼ができることはないのか? 自然と握った拳に力が入る。
「お願いだから飛んでくれっ」
 思わず口から祈るような言葉が漏れた。リーツは船を背にすると、今度は逆方向へと走り出す。ケイチがどうにかやってくれることを信じて、今は時間稼ぎするしかない。
「お願い、ケイチをアースへ帰して!」
 近づいてくる研究員の後ろから、セレイラの声がした。いつの間にか数を増やしている男たちに負けず、彼女は必死に叫んでいる。切実な響きが、風の唸りにも掻き消されずリーツの耳まで届いた。歯を食いしばり彼も祈る。
 ケイチをアースへ。親の下へ。何も知らぬ幼い少年を母なる大地へ。あの神話の地へ。
「お願い!」
 再び彼女の声が響くと同時に、忽然と背後から光が溢れた。慌てて振り返ったリーツの瞳に、淡く輝く船が映る。
「ふ、船が!?」
 光を纏ったというより、船そのものが輝いているかのようだった。その白い船体の所々が今度は緑に光り、気づけば吹き荒れていた風もぴたりと止んでいる。
 驚きに足を止めたのか、駆け寄る研究員たちの足音も聞こえなかった。リーツが立ちつくしたまま固唾を呑むと、船体の輝きは強くなり、その周囲へと薄紫色の光が広がり出す。
「ケイチ!」
 リーツは叫びながら腕を顔の前に掲げた。それでも目を灼かれそうな眩しさのせいで、瞼の裏に光がこびりついていた。耳を塞いでいるわけでもないのに音が消え、まるで空間そのものが震えたように思える。足下の感覚が覚束なくなり、その場に立っているかどうかもわからなかった。
 しかしリーツは何故か漠然と、ケイチが助かったという確信を得ていた。次第に背後からのざわめきが戻り、重力の感覚が戻り、彼は恐る恐る腕を除ける。
 既に光は止んでいた。巨大なクレーターを残して、船は跡形もなく消え去っていた。

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