ご近所さんと同居人

第七話 「忍び寄る何か」

 見合い騒動から数日も経てば、瑠美子も徐々に元気を取り戻していった。幸いなことにルロッタが詳しい話をせがむこともなかったし、イムノーも何も言ってこなかった。まるで見合いなど存在しなかったかのように、二人はそれに触れてこない。
 そのおかげでいつの間にかノギトとの口喧嘩も再開し、普段通りの日常が繰り返されるようになった。ただ一人、ハゼトを除いてはの話だが。
 彼だけことあるごとに、見合いで何があったかを聞き出そうとしていた。おそらく興味があるからだろう。彼女の知る限り、ハゼトもまだ見合いはしたことがなかった。きっとそういうことに興味を持つ年頃なのだ。
 それでもやはり日々平和だった。あれ以来ろくにソイーオと顔を合わせていないことは気になるが、何か問題が生じたわけでもない。
「何作ろうかなぁ」
 だから瑠美子も、いつも通りの生活を送ることにしていた。日課のごとく、今ある材料を確認して台所で首を傾げる。昼食は何にしようか。さっぱりした物がいいか精が付く物がいいか。
 そうやって彼女が考え込んでいると、背後から足音が聞こえた。台所に来るのはルロッタかノギトくらいだが、この気配は違う。大体、二人は昼間家にはいないことが多い。不思議に思って振り返ると、そこにいたのはハゼトだった。エプロンをつけながら、彼女は顔をしかめる。
「ハゼトじゃない、どうしたの。学校は?」
「今日は休みだって言ってただろ。先生たちが教会に呼ばれる日だって」
「あー、前にもあった先生の試験って奴ね。それで朝からハゼトは元気だったんだ」
 今朝誰よりも早く起きていたハゼトは、彼女が料理している間も周りをうろついていた。単にお腹が空いているだけだろうと思っていたが、そうではなかったらしい。体は大きくなってもまだ子どもだなと苦笑すると、彼の瞳が輝いた。
「今日の昼ご飯は?」
「それを考えてるところ。ハゼトは何か食べたい物ある?」
「俺、肉あるならいいや」
「男の子ねぇ」
 ぐんと身長が伸びる時期だから、それも当たり前のことなのかもしれない。淡泊な返答に肩をすくめると、多めに作った方がいいだろうかと彼女は眉根を寄せた。材料は足りるだろうか? また買い出しに行った方がいいかもしれない。
 ハゼトが休みだと前もってわかっていれば、昨日多めに買っておいたのだが。しかし今さらどうこう言っても仕方なかった。食べ盛りの弟を、空腹のままにしておくわけにはいかない。
「俺、姉ちゃんのごはん好き。美味いもん。でも料理だけってのもなあ」
「んーどうしたの? 急に」
「いや、姉ちゃんまた働かないのかなあ、って思って」
 適当な椅子を引っ張り出して腰掛け、彼は背もたれに顎を載せた。その様を横目に、彼女は首を傾げる。確かに十九になるまで、彼女は近くの喫茶店で働いていた。近所のよしみで雇ってもらったのだが、もう年だからと店仕舞いしてしまった。それ以来彼女は働いていない。
「結婚するまで姉ちゃんはずっとこのままなの?」
「別にそういうつもりじゃあないわよ。いい店見つけたら働こうと思って、情報は集めてるんだから」
「また喫茶店とか? 姉ちゃんも何か異世界の知識でも提供すれば、もっといい職に就けるのになあ」
「無理言わないでよ」
 立ち直ったばかりなのに痛いところを突かれ、彼女は顔を引きつらせた。それができるのならば、とっくにそうしている。いつも世話になっているのだから、何かお返しがしたいと常々考えてはいるのだ。
 ただいい職に就くためには技術が必要で、しかし悲しいかな彼女にはそれがなかった。料理屋で働くか畑の手伝いをするくらいが、関の山だ。
 ヌオビアでは結婚してからも働く女性が多い。それも全て少ない収入を補うためで、だから皆いい職を求め続けていた。とはいえ城や教会で働くことは難しく、情報を集めつつも現在の仕事を続ける人が大半だった。そんな中、未熟な彼女が新たな職を探すのは難しい。
「だって、ディーターさんはそれでお金持ちになったって話だし」
「ディーターさんは元々職人だったからよ。私はここに来た時、まだ子ども。大体、ハゼトはこの明かりの仕組みとか、あの伝統織りのやり方とか理解してるの?」
「……そんなの知らない」
「それと同じよ。ただ学校に通って、普通に生活してただけなんだから」
 天井から吊された明かりを、彼女は見上げた。これには昔ヌオビアに流されてきた、異世界人の知識が活かされている。彼女が聞いてもさっぱり理解できなかったものの一つだ。その異世界人はよほど頭が良かったに違いないと、思わざるを得ない。
 世界を動かすのも変えるのも、一握りの天才たちだ。その他大多数の人々は、その恩恵にあずかっているだけ。そう思えば、異世界人だからと身を縮ませる必要はないはずだった。波立った心を何とか落ち着かせて、彼女は嘆息する。
 役に立つか立たないか、迷惑になってないか考えてしまうのは、幼い頃からの性癖だろうか? ヌオビアに来るまで母娘二人の生活だったせいか、何かできることはないかと探す癖が染みついている。嫌な思考だとわかっているが、簡単に直るものでもなかった。
「ハゼトはもっと勉強するつもりなんだよね。研究者にでもなるの?」
 重苦しい考え事は止めよう。そう思って話の矛先を変えると、彼は大仰にうなずいた。ノギトと同じ栗色の髪が、空気を含んで軽く揺れる。その手触りの良さは、よく頭を撫でていたから知っていた。最近は恥ずかしがるからしていないが、先日のノギトとのことを思い出せば、たまにはいいかなという気になる。
 彼女が頬を緩めると、ハゼトは背もたれから顎を離して胸を張った。素直に目を輝かせるところが、ノギトとは違う。
「そう。俺、研究者になって城で働きたいんだ」
「お城で? すごいじゃない。ノギトとは逆の道なのに、同じ場所を目指してることになるわね」
 城で働くのは、ヌオビアに住む者の夢だった。そこで何が行われているのか知れていないが、皆が憧れている。だからハゼトがそう言うのも理解できた。希望を持つことはいいことだと思う。何となく微笑ましくなって、彼女は瞳を細めた。
 ついで「頑張ってね」と、口にしようとした時だった。突然呼び鈴が鳴り響き、二人は顔を見合わせた。来客だ。ハゼトが座ったままなので、彼女はエプロンをつけたまま玄関へと小走りする。ここを訪ねてくるのはご近所さんくらいだ。誰だろうかと首を捻り、彼女は扉を開いた。
「あ、ディーターさん」
「こんにちは、ルミコ」
 玄関前に立っていたのはディーターだった。彼の手には小さな包みがあり、そこから甘い香りが漂っている。彼女はその包みと彼の顔を見比べ、頭を傾けた。彼がこんな時間にやってくるのは珍しい。こんな可愛らしい包みを持ってくるのは、さらに珍しい。彼が手にするのはいつも、もっと素朴な袋だった。
「どうしたんですか?」
「この間いただいたおかずのお礼にと思ってな。といっても、買ってきたのはソイーオなんだが」
「あ、ソイーオさんが」
 その名前を耳にして、彼女は思わず息を呑んだ。見合いの日以来、まともにソイーオとは顔を合わせていない。時々擦れ違って挨拶をすることはあれども、会話を交わすことはなかった。
 避けられているのか、それともただ単に忙しいだけなのか。何にせよ挙動不審になりそうなことを考えれば、ありがたいことではあるのだが。
「ソイーオは毎日城へと通っているよ。魔法の研究というのは、時間がかかるそうでな。能力が調べ尽くされるまでは、こんな毎日が続くだろう」
「そうなんですか」
 ではこの包みは、城の帰りに買ってきてくれたのだろうか? 香りからすれば、何か果物を使ったお菓子のようだった。香ばしい匂いの中に、わずかに甘酸っぱいものが混じっている。差し出されたその包みを彼女は受け取った。水色のリボンがついた、女の子好きする物だ。
「真っ直ぐ帰るようにと言ってあるんだが、あちこち店を覗いてたらしい。これもその時目をつけていたそうだ。困ったものだよ。魔法使いというのは、色々厄介なんだがなあ」
 ため息をつくディーターに、彼女は相槌を打った。まだヌオビアに来て間もないというのに、ソイーオはなんと大胆なのだろうか。魔法使いでなくとも、ここの常識を知らない人というのは大変だ。些細なことからいざこざが起きやすいし、思わぬ事件に巻き込まれたりもする。一人で歩き回るなど、普通は怖くてできなかった。
「最近また、魔法使いを狙う輩が動き出したとも聞くしな。ソイーオにも気をつけるよう言っておいたんだが、どれだけ理解してくれているのか」
 ディーターも気苦労が耐えないようだった。その点では、幼かった彼女の方が手がかかっていない。
 ここへ流され来た当時、彼女は直前の記憶を失っていた。ただでさえ見知らぬ世界は怖いというのに、抜け落ちた記憶がある分さらに臆病になった。だから街を歩き回るどころか、家を出ることもほとんどなかった。泣き通しだった点では、大変だっただろうけれど。
「ルミコも、ソイーオに会ったら注意しておいてくれ。君が言った方が彼もちゃんと聞くだろう」
「……はい」
 ディーターの言葉に、彼女は静かにうなずいた。しかし、そんな機会はいつ訪れるのだろうか。まともな会話を交わすのは、いつのことになるだろうか。どんな顔で彼と話せばいいのか考えると、彼女の視線は自然と落ちていった。

◆前のページ◆  目次  ◆次のページ◆