ご近所さんと同居人

第十五話 「信じて欲しくて」

「明日の朝は……って、あれ?」
 蒼い月光が窓から差し込む頃。そろそろ眠ろうかと寝支度を始めた瑠美子は、いつも棚の上に置いておいた帽子がないことに気がついた。数年前にルロッタが買ってくれたお気に入りの帽子だ。そんなに黒々とした髪では日中大変だろうと言って、ずいぶんと可愛らしい物をプレゼントしてくれたのだ。
 淡い黄色の地に空色のリボンが映える、作業用としては綺麗すぎる帽子。部屋に顔を出したルロッタにもすぐ見えるよう普段は棚の上に飾っておくのに、それが今はどこにも見あたらなかった。
「私、忘れてきた?」
 狭い部屋の中をぐるりと見回しながら、彼女は首を捻って記憶を辿った。庭に出る時に使っただろうか? 今朝は花の様子を確認しただけだから、帽子は手にしなかったはずだが。
「あ……」
 いや、その後ハゼトの忘れ物を届けに行く時に、晴れているからと確か帽子を被っていった。あの後部屋に持って帰ってきただろうか? よくよく思い返してみても記憶にはない。帰りに庭に入り込んでいたゴミを片付けたのだが、もしかしたらその時にでも落としたのだろうか?
「ルロッタさんに見つかる前に探し出さなくちゃ」
 置いていかれた帽子を見つけたら、またルロッタは拗ねてしまうだろう。そうなるとしばらく面倒だ。瑠美子は慌てて寝間着のまま上着を羽織ると、すぐさま部屋を飛び出した。
 幸いもうルロッタは眠りに入っている。ノギトやハゼトは起きているかもしれないが、こっそり出れば大丈夫だろう。足音を立てないように瑠美子は玄関へと急いだ。
 外は肌寒かった。薄着のためもあるだろうが、肌をかすめる風が冷たくて彼女は腕を抱える。やはり昼間と違い夜は冷える。
 時折雲に隠れて揺らぐ月明かりを頼りに、彼女はまず庭へと出た。忘れるとしたらここだろう。帰り道で落とすということは考えにくいし、ここならば草木のせいで音がしなくてもおかしくなかった。
 案の定、すぐに帽子は見つかった。庭の垣根にかろうじて引っかかったそれは、微風に乗ってそよぐように揺れている。彼女は安堵の息を漏らすと静かにそこへ近寄った。垣根の内側だから外からでは見えづらかったのか、ルロッタの目に留まらなかったのが不幸中の幸いだ。
「よかった」
 手に取った帽子は冷え切っていた。彼女はそれを両手に抱えると、他の物も落ちてやしないかと辺りへ視線を巡らせる。だが見つかったのは鉢植えが置かれていた跡だけだった。使わなくなったそれを今朝移動したのだが、その時帽子を置いたのだろうか。記憶は朧気だ。
 穏やかな風が草木をさざめかせた。一度大きく身を震わせると、彼女は軽く瞳を閉じる。夜の匂いはいい。静寂の中漂う澄んだ空気には、かすかに草花の香りが混じっている。昼間の日の匂いとはまた違った趣だ。
 しかしずっとこうしているわけにもいかない。風邪でもひいたらルロッタやイムノーに心配をかけるし、またノギトは顔をしかめるだろう。誰にも気づかれないうちに戻ろうと、彼女は慎重に歩を進めた。静寂に染み入るように、鳥の鳴き声が遠くからかすかに響いてくる。
 その中に、乾いた音が混じった。澄んだ空気を割るような硬い靴音を、彼女の耳は拾い上げた。時々乱れながらも近づいてくる何者かの気配に、玄関へと向かいかけていた彼女の足は止まる。
 こんな夜中にここらを通りかかる者がいるのだろうか? 心臓が高鳴るのを感じながら、彼女はおそるおそる振り返った。黒ずくめの男ではないかという不安に手のひらは汗ばみ、息が詰まりそうになる。しかし家へと飛び込むことはできなかった。もう一つの予感が頭をよぎり、彼女をその場に縫い止めている。
 靴音が大きくなる。呼吸を止めかねない程に体を強ばらせて、彼女はその場に立ちつくしていた。ただ視線だけは真っ直ぐ、垣根の向こうへと向けられている。そこを通りかかる姿を見逃すまいと、不自然なくらいに瞬きの数も減っていた。
 音が止んだ。彼女の目の前で、一つの影が立ち止まった。雲間から降り注ぐ月光に照らされて、青銀の髪が輝いて見える。彼女は息を呑みながらわななく唇をそっと開いた。
「ソイーオさん」
 ほぼ同時にその影も振り返った。薄明かりの中でも、緑の双眸が煌めくように彼女の視界に飛び込んでくる。その顔に驚愕の色が宿るのを、彼女はたたずんだまま見つめていた。
「ルミコさん?」
 聞き返す声に含まれているものが、何であるか彼女にはわからなかった。ただ拒絶されているのではないと、それだけは強く確信できる。ソイーオは逃げ出すでもなく近づいてくるでもなく、ゆっくりと首を傾げた。肩にかけられただけの古い上着がふわりと風に煽られる。
「どうしてこんな時間に?」
 尋ねながらも彼の視線は彼女の手元へと行き、納得したような相槌が続いた。彼女は何と答えたらいいのかわからず、帽子を抱きしめながら必死に言葉を探す。
 会いたかった。彼が何を思っているのか確かめたかった。それなのに実際に顔を合わせると一言も口にすることができない。突然の邂逅に思考は巡らなくなり、唇はその役目を果たしてくれなかった。
 何か喋らなくては。声をかけなくては。このまま静寂が続くのは耐えられないと、彼女は意を決して彼へと向き直った。そしてその顔に強く刻まれた疲労に、再び息を呑んだ。痩せたというよりもやつれた頬に、色の悪い唇。そんな姿は今まで見たことがない。
「ソイーオさん……まさかひどい目に遭ってるの?」
 だから思わず出た言葉は、彼を案じるものだった。わずかに震えかすれた声は、無事彼の耳へと届いただろうか? そう思う程に問いかけは頼りなく、また目の前の存在も儚い。
「……え?」
「あ、その、ソイーオさん何だか疲れてるみたいだから」
 さすがにやつれているとは言えなかった。だが彼女の様子から言わんとすることは察したのだろう。彼は苦笑混じりに首の後ろを掻くと、眼差しをそっと垣根の下へと落とした。目元へと影が落ちる様に彼女の胸中はざわめく。
「心配してくれてありがとう。でも僕なら大丈夫ですよ」
「だけど、疑われているんでしょう?」
 気づいた時にはそう言葉を継いでいた。ほとんど反射だった。彼が眼を見開く様を見て、ようやく彼女は自分が何を口にしたかを自覚する。傷ついただろうか? 知れ渡っていると気づいて動揺しただろうか? だが一度口にしたものを取り消すことはできない。
 視線を彷徨わせる彼を見ていられなくて、彼女はつい目を伏せた。胸の奥をじわじわと締め付けられるような痛みに、唾を飲み込むのさえうまくいかない。喉の渇きを覚えながら彼女は唇を噛んだ。
「……ルミコさんも知ってるんだ」
 諦念を滲ませて声音で、彼は苦笑混じりに囁いた。彼女は小さく首を縦に振ると、おそるおそるまた彼を見上げる。こんな時どう反応すればいいのだろう? どうすれば彼を一番傷つけずにすむのだろう? 追い打ちをかけているのではないかと思うと自らを罵りたくなる。彼女は帽子を強く抱きかかえ、怖々と口を開いた。
「何も、ひどいことはされてませんか?」
 やつれているのは心労からだろうか? それとも満足に食事も取れていないのだろうか? 考えれば考える程悪い方向へと思考が傾く。しかし彼は笑いながら首を横に振り、ちらりとだけ左手の方を見た。
「まさか。でも念のため日中は隔離されています。それで行方不明者が増えなければ幸いだって、ね。……ただ、僕がいない間にしかあの竜巻は現れてくれないんですが」
 彼につられるように、彼女も左手を一瞥した。その先にはあの森がある。彼や彼女が流されてきた、黒ずくめの男達に襲われた、そして赤い竜巻が現れたという森。全てがそこに集っているようで、彼女は急に怖くなり身震いをした。
 あの森さえなければ何も起こらないのではと考えたくなる。あの森を燃やし尽くしてしまえば、彼も疑われないのではないかと。
「これじゃあ僕が疑われてもおかしくないですよね」
「そ、そんなっ」
 確かに彼の立場は危ういのかもしれない。しかしだからといって、証拠もなく決めつけるのはあんまりだ。
 彼女が思わず悲鳴じみた声を上げると、彼は一歩垣根へと近寄ってきた。その様にはっとして彼女は背後を振り返る。ルロッタたちに気づかれないようにと気を遣っていたのに、つい忘れてしまっていた。だが幸いにも家の中から誰かが出てくる気配はない。
「ルミコさん」
 囁く彼の声が澄んだ空気に染み込んだ。ゆっくりと彼へと向き直り、彼女はつぶれかけていた帽子を手で整える。そして揺れる彼の瞳を真正面から見上げた。
「ルミコさんは、僕を信じてくれるんですか?」
 問いかける口調は淡々としていて、その顔には不安も何もなくて。感覚を研ぎ澄ませていなければ、彼はなんて落ち着いているのだろうと思ったかもしれない。しかし声音に含まれるわずかな戸惑い、期待。そしてその双眸に滲んだ不安を、彼女は逃さなかった。
「もちろん」
 即座に返した答えに、彼が息を呑むのがわかる。彼女はできるだけ優しく、できるだけ真摯に、できるだけ嘘っぽくならないように微笑んだ。月明かりのみでどれだけ伝わるかは定かでないが、努力は無駄にならないと信じたい。
「……どうして?」
「あの時、バルソアに襲われた時、魔法が使えなくてもソイーオさんは私を庇おうとしてくれたじゃない」
「でも結果的に、あの時僕を助けてくれたのはルミコさんやノギトさんで――」
「ソイーオさんが私の手を引いてくれなかったら、きっと私は動けないままだったわ」
 どう言葉を紡げば彼は信じてくれるのか。首を横に振る彼に声を張り上げ、彼女は数歩垣根へと詰め寄った。つま先で掻き分けられた草ががさがさと揺れるが、今は音など気にしていられない。彼の腕を掴みたいのだけは堪え、彼女は垣根に片手を置いた。
「どうしたら疑いは晴れるんですか?」
 魔法使いという理由だけで疑われるなどひどすぎる。この世界は異世界人にこれほど厳しかっただろうか? 先ほどよりも間近から彼を見上げると、よりその顔に疲労の色が強く見られた。それでも彼はほんの少し口角を上げると、軽く手首を持ち上げて視線を落とす。
「それは、正直わからないんです。魔法は人によっては本当に万能らしいので。といっても僕は小さいものしか使えないんですけどね。信じてもらえるかは別として」
「じゃ、じゃあ……まさかずっとこのままとか?」
 彼の魔法使いとしての実力がどれほどのものなのか、そもそも普通はどの程度使えるものなのか、彼女にはその基準すらなかった。しかしそれを証明するのが難しいことは想像できる。腕輪が万能でないことも、この間ディーターから聞いたばかりだ。とかく魔法というのはヌオビアの人々にとっても未知なのだろう。
「さあ、どうでしょう。竜巻が現れなくなれば、そのうち解放されるとは思うんですが」
 そう答える彼の口調は、先ほどよりはずっとしっかりしたものだった。そのことにほっとして彼女は顔をほころばせる。すると彼の手がおもむろに頬へと伸び、躊躇いがちに触れてきた。
「心配してくれてありがとうございます。ルミコさんが信じてくれるだけで、僕はもう十分救われてます。でもこのままだと風邪を引きますから。ね」
 彼の手を冷たいとは思わなかったが、それは彼女の体も冷え切ったからだろうか? よく考えてみれば、寝間着に薄い上着を羽織っただけだった。そのことに気づくと急に恥ずかしくなり、彼女は慌てて視線を逸らす。
 こんな恰好で話していたなんて、彼はどう思っただろうか? 体も芯から熱くなり、寒さなどどこかへ行ってしまったようだった。けれども彼の手が離れる気配はなく、妙な静寂が辺りを覆い始める。
「ルミコさん」
「は、はい?」
「おやすみ」
 気まずい静寂に溶けるように、彼の囁きが鼓膜を揺らした。そっと視線を上げると彼が思ったよりも傍にいて、彼女は瞬きせずに息を詰める。間近で感じる彼の眼差しの温かさに、何故だか居たたまれなくなった。片手に抱いていた帽子を、彼女はさらに胸元へと押しつける。
「お、おやすみなさい」
 そう返すだけで精一杯だった。頬をなぞるように指先が離れていくのを、彼女は不思議な気分のまま目で追う。彼はもう一度おやすみを告げると、微笑を浮かべたまま背を向けた。彼女は垣根に置いていた手をのけて、去っていく彼に向かって振る。
 少しは彼の心を慰めることができただろうか? 傷を広げずにすんだだろうか? 小さくなる背中を見送りながら、彼女は胸中で何度も自問した。

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