密の紡ぎ

第一話 「迷い込んだ者たち」

 アーデルとエーデルが重なる夜に、異界への道が開かれるという。お伽噺にも似たその噂が本当であることを知ったのは、季節が一巡りする前のことだった。
 ユヅイヤは目深にかぶったフードから素早く視線を走らせ、砂だらけの荒野を駆ける。追ってきているのは腹を空かせた獣だ。先ほど口にした干し肉の匂いでも嗅ぎ付けてきたのだろうか。腰からぶら下げた短剣へと手をかけ、ユヅイヤは目前にある大岩の陰へと滑り込んだ。そして振り向きざまにそれを振るう。
 勝負は一撃でついた。生暖かい血しぶきが頬にかかり、獣の断末魔が耳障りに響く。乾いた砂の上に落ちた獣は、不自然に体をひくつかせて前足を宙へと伸ばした。だがやがてそれも地へと落ち、血だまりで震えていた後ろ足も動かなくなる。
 背丈は彼の腰ほどあるが、さほど動きは速くないバチルの一種だ。だが馬鹿みたいに持久力があり、放っておくと痛い目を見ることになる。バチルはいつも砂嵐に紛れて荒野を走り回り、太い爪で獲物の背中を狙っている。
 すっぽりと体を覆うマントの内側から布切れを取り出し、彼は短剣の血を拭った。獣の太い首も一刺しにできる優れ物ではあるが、手入れは必要だ。
「追いかけっこは俺の趣味じゃないんだよ、悪く思うな」
 絶命した獣へと乾いた笑みを向け、彼はまた歩きだした。巻き起こった砂煙のせいで何も見えないが、じきに血の臭いを辿って他の獣がやってくるだろう。特にバチルはあの長い鼻で些細な臭いにも気づき、どんなに遠くからでも長い足で駆けてくる。そうなる前にここを離れなければ。
 彼がここへ迷い込んできたのは、ちょうどこんな風に砂煙がひどい日だった。夜中に小屋を飛び出した彼は、森の中で煌めく宝物の光に気を取られ、崖から足を踏み外した。そしてこの荒野へと落ちた。
 前後の記憶は曖昧だ。足を折るような怪我も負わなかったので、大した崖ではなかったのだろうが。しかし視界の利かない真夜中で、しかも体中が痛む中、周囲の様子をしっかりと確認するのは困難なことだった。それでも、もっとよく見ておくべきだったと今は後悔している。空に輝く二つの月――アーデルとエーデルの重なりだけが記憶に残っていても、ほとんど意味はなかった。
 あの崖を、二つの月を求めて彷徨い歩き、季節が一巡りした。会う人に尋ねてその度に情報を得てはきたが、いまだ確かなものへと辿り着いてはいない。むしろ絶望的な話を耳にするばかりだった。
 彼は腰からぶら下げた袋をまさぐると、干し肉の量を確認した。あと数日もてばいいというところか。またどこか近くの集落でも探し出さなければならない。物々交換がこの世界の原則だが、今度は何を手渡せばいいだろう? 獣から剥ぎ取った毛皮はもうない。自慢の肘当ても、残っているのは後一枚だ。
「勝手にやったなんて言ったら、オミコは何て言うんだろうな……」
 右にだけ残った薄い肘当てを、彼はやおら見下ろした。山奥に生えているというララダを編んで作った肘当て、膝当て、胸当ては、村の中でも一目置かれていた。軽い上に動きの邪魔にもならず矢を弾くことができるそれは、森の中を走り回る彼らにとってはありがたい物だった。しかし今それを編むことができるのは、オミコを含めて数人しかいない。
 ユヅイヤは歩調を速めた。口の中に入りこんだ砂を吐き出しても、喉の奥に苦いものが溜まっている。飲み込むこともできないこのざらざらとした感覚は、あの日以来ずっと変わらなかった。最後に見たオミコの寝顔が脳裏をよぎる度、さらに眉間に皺が寄る。砂まみれになって幾分かくすんだ黒髪を、衝動的に掻きむしりたくなった。
「馬鹿だな」
 何も言わずに飛び出したのは、どう考えても愚かだった。だがいてもたってもいられなかった。一度気づいてしまえば心当たりなどいくらでもあって、確信してしまえば後悔しか湧き起こらない。自己嫌悪という段階はとうに越えていた。
 砂嵐が強くなる。ユヅイヤは瞳をすがめると、フードの端を手で押さえた。翻ったマントがうるさく騒ぎ、腰から下げている袋をも揺らす。枯れかけた草が奏でる旋律は、悲鳴のようでもあった。
 足を止めて風が弱まるのを待っていると、かすかに鈴の音が聞こえたような気がした。こんな荒野で耳にするはずのない甲高い音に、彼は思わず顔を上げる。砂でかすんでいる視界には何ら変化がなかった。うねるような風の動きにあわせて、砂の濃度が変わるだけだ。
「いや――」
 違う。その先に何かがある。砂嵐の向こうに、黒っぽい物体が見えた気がした。岩でもないし、獣の類でもなさそうだ。ここらの獣に黒い毛を持つものはいない。そんな目立つ奴はとうに死に絶えている。
 何かの手がかりになればと、ユヅイヤは地を蹴って走り出した。見知らぬ獣であるならば、今のうちに仕留めておく方がいい。そう理由を付け加え、彼は口角を上げた。代わり映えのない平地にうんざりしていたところだ。いい毛皮が取れたら、次の物々交換にも使えるかもしれない。
 駆けていると、不意に少しだけ風が弱まった。でたらめな模様を描きながら巻き上げられていた砂が、徐々にすすけた荒野へと沈んでいく。走る彼の目に映ったのは、うずくまる子どもの姿だった。深緑の布を体に巻き付けた黒髪の少年が、荒野の真ん中で座り込んでいる。年はまだ十を越えていないか? 今にも飛ばされてしまいそうな華奢な体躯だ。
「こんなところに子どもが?」
 口の中で呟いて、ユヅイヤは速度を落とした。少年はユヅイヤには気がついていないらしく、その場を動く様子もない。集落になら子どもがいてもおかしくないが、こんな荒野に一人でいるところなど見たことがなかった。妙だ。警戒しながらも、ユヅイヤはゆっくりと近づいていく。短剣の柄へと密かに手を掛けて、彼は唇を結んだ。
 すると、少年がやおら顔を上げた。異変を嗅ぎつけたのか頼りなく辺りを見回した後、その双眸がユヅイヤを捉えた。はじめはぼんやりとしていた灰色の瞳が見開かれ、ついでその小さな口がめいっぱい開けられ――盛大に何かを吐き出した。たぶん砂だろう。ここで大口を開けるとそうなる。咳き込まなかっただけましか。
「ひ、人がいる!?」
 風に吹き飛ばされそうになりながら、少年はよろよろと立ち上がった。見たところ普通の子どものようだ。それでも慎重に前へ進むと、ユヅイヤは少年からやや距離を置いたところで立ち止まった。このくらいであれば、砂嵐の中でも会話は可能だ。
「お前、何でこんなところにいる?」
「何でって……何でだろう? わからない」
「はあ?」
「だって気づいたらこんな砂だらけのところにいたんだ! 歩いても歩いても森も村も見えてこないし」
 唇を尖らせた少年を、ユヅイヤは半眼で見下ろした。まさかという予感が、彼の中で渦巻き始めていた。こんな場所に子どもがいるわけがない。こんな子どもが、ここに一人で辿り着けるわけがない。しかも無傷でだ。そうなると何者かによって運ばれてきたことになるが、そんな物好きがいるはずもなかった。風以外は。
「ここはどこなの? 僕、ひょっとして迷ったの? 早く帰らないと母さんが心配するのに……」
「ひょっとしてお前、アーデルとエーデルが重なる夜に外に出たのか?」
 しかし、もう一つ心当たりはある。鼓動が高鳴っているのを自覚しつつ、努めて平静な声でユヅイヤは問いかけた。うなだれかけていた少年は、顔を上げると不思議そうに小首を傾げる。そして目玉が落ちそうなほど眼を見開いた。
「あ、そうだ! 今日はアーデルとエーデルが重なる日だった!」
 思い切り大口を開けて再び咳き込んだ少年から、ユヅイヤは視線をはずした。やはりこの少年も、月が重なる日に外へ飛び出した馬鹿者だったようだ。しかも口ぶりから予想するについ先ほどのことだ。この少年の話をもっと詳しく聞けば、何らかの手がかりが得られるかもしれない。
「わーまずいことしちゃった、うわぁ、どうしよう」
「おい、お前。名前は?」
「……え?」
「名前。俺はユヅイヤだ。お前、名前は?」
「えっと、ヒギタ」
 頭を抱えた少年――ヒギタに数歩近づくと、ユヅイヤは片膝をつく。ほぼ反射的に返答したらしいヒギタは、目を白黒とさせて眉根を寄せていた。ユヅイヤは口の端を上げると、ヒギタの細い手首を掴む。
「さっさと立てヒギタ。行くぞ」
「え? どこに?」
「帰りたいんだろう? ここにいると獣が来る。場所を変える」
 半ば強引にヒギタを立ち上がらせると、ユヅイヤは遠くを見やった。風に巻き上げられた砂は、相変わらず世界を塗りつぶそうとしている。こんなところで会話をしていたら、砂に紛れた獣が近づいてもすぐには気がつかない。
 よろけるヒギタを無理やり引き連れるようにして、黙々とユヅイヤは歩いた。子どもには辛い速度だったはずだが、ヒギタは泣き言も漏らさなかった。ある程度現状は把握できているらしい。
 幸いなことに、しばらくも行かないうちに適当な小屋が見つかった。巨大な岩陰に身を潜めるよう一軒だけ存在しているところを見ると、どうも近くに集落はなさそうだった。ヒギタもそろそろ限界だろうと判断して、仕方なくユヅイヤはその戸を叩くことにする。こういう辺鄙なところに住む人間にろくな奴はいない。食われかけたこともある。最悪の事態を想定しながら、彼は小屋の前に立った。

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