第一話 夜のとばりに出会いあり

 日が暮れる前に帰れるはずだった。はずだったのだが早太はやたはいまだに長屋に戻れず、薄暗くなった通りを歩いていた。人手が足りないからと頼まれて宿屋に赴いたのだが、旅人の数は予想以上で結局こんな時刻だ。優しい主人が夕餉を恵んでくれたので腹の心配はないが、それでも通りを行く足取りは心持ち速かった。
「最近物騒だからなあ」
 灯りを手にして早太はつぶやく。紙の中で揺れる火は今にも消え入りそうで、風が吹くたびに彼は顔をしかめた。人斬りが出ただの幽霊が出ただのと、とにかく最近はいい話を聞かない。だから女や子どもはもちろん男とて、夜中に外へ出ることは滅多になかった。通りを挟む家々からは明かりが漏れているが、歩いている者は誰一人いない。彼だけだ。
「貧乏だろうがなんだろうが命あってのものだからな」
 冷たい風に身を震わせながら、彼は足早に歩く。体力に自信はあるため長屋まで走って帰ることは別に苦ではない。しかし走ればこの灯りはいとも簡単にその命を消すだろうから、この速さが限界だった。汚れた着物の裾が足を動かすたびに音を立てる。彼は周囲の気配をうかがいながら、ただひたすら通りを進んだ。
 どれくらい歩いただろうか。次の角を曲がれば長屋というところで、彼は立ち止まった。狭い通りを吹き抜ける風の音に耳を澄ます。それは先ほどと同じようでいて、確かに違う何かをはらんでいた。気配とでも言うべきか。あまり知りたくはない類のそれを、彼は以前にも感じ取ったことがあった。それはつまり、殺気だ。
「声かける手間が省けたぜえ、兄ちゃん」
 すると予想通り、聞きたくもない声が背中に突き刺さってきた。早太はおそるおそる振り返り、心を落ち着けようと息を吸い込む。
 闇の中たたずんでいたのは四人の男だった。頭に黒い布を巻き付けた、全身黒ずくめの男たち。彼らから放たれる殺気に全身が凍り付いたように動かなくなった。だがその手に握られているのは刀ではなく札だ。暗い中でその白さは浮き彫りになり、早太の視線を釘付けにする。
 彼らはただの悪党ではない。人斬りでもない。彼らは、術師じゅつしだ。
 その事実を認識して早太は泣きたい気分になった。この瑠璃の国には術師と呼ばれる者たちがいる。特別な力を持った札を使い、火や水、風を自在に操る術を使うことのできる者たちだ。しかし札が高いためもあってか、そういった人々が術を使うことは滅多にない。金持ちが楽をするために術師を雇う場合はともかく、普通の町人は札を目にする機会すらないはずだった。だが例外はある。札を盗むなり金を奪い取るなりして術を使う者たちも、存在していることは事実なのだ。目の前の男たちも、おそらくはそのうちの一部。
「兄ちゃん、金くらいあるだろう? 俺たち金に困ってるんだ。ちょっと恵んでもらえねえかなあ」
「か、金なんて……」
「あるよなあ?」
 早太はゆっくりと一歩後退した。術を実際見たことはないが、使われれば逃れることはできないだろう。喧嘩を売って勝てるとは到底思えない。ならば今すべきことは一つだ。
 早太はできるだけ穏やかな笑顔を浮かべて、小さくうなずいた。そして懐に手を伸ばす振りをして――
「あっ!?」
 全力でその場から逃げ出した。男たちの間抜けな声が背後から聞こえてくるが、振り返ってる暇はない。彼は闇の中をひたすら走った。灯りを落としてしまったため道の先はよくわからない。が、追いかけてくる足音からして少しは距離が開いたのだろう。早太は時折細い路地を通り抜けて、男たちに術を使わせる隙を与えないよう気を配った。この調子で行けば逃げ切れるかもしれない。彼は足と体力には自信があった。
「待て!」
「この野郎!」
 怒りをにじませた声が聞こえてくる。待てと言われて待つ人は相当の馬鹿だと、早太は口の端を持ち上げた。
 手持ちの金で男たちを満足させられるとは思えないし、満足させられても命があるとは限らない。だから立ち止まるわけにはいかないのだ。幸いにもここらは彼のよく知る道だから、迷う心配もなかった。
「俺らを馬鹿にする気か!?」
 しかしまだ男たちは追ってきていた。しつこいな早太は舌打ちをする。どうやらすぐに撒くことは難しそうだ。男たちが諦めるかその体力が尽きるまで粘るしかないだろう。
「ひぇ!?」
 すると足下を何かが通り抜けた気がして、彼は声を上げた。夜目では何が起こったかわからないが、きっと男たちの術だろう。早太は慌てて傍の脇道へと飛び込んだ。あんなものが直撃すればたまらない。
「うわっ!?」
 しかしそれが仇となった。
 踏み出した足は道端にあった樽を盛大に蹴飛ばした。暗くて気づかなかったのだ。しかも不幸にも樽には水でも入っていたのか、液体がぶちまけられる音がする。危ないとは思ったが立ち止まれず、体勢を崩した早太はそこに倒れ込んだ。水を吸った着物が重たく足にまとわりついてくる。これでは逃げ切れない。
「しまっ――」
「ようやく追いついたぜ兄ちゃん」
 立ち上がろうとする彼の背中に、ねっとりした声がかかった。もう終わりだ。早太は息を整えながらおそるおそる振り返った。相手を怒らせたからには死は免れないだろう。彼は訪れる痛みを覚悟しながらやおら男たちを見上げた。だが、その痛みはいっこうに訪れる気配がなかった。何故なら男たちの双眸は、彼ではなくもっと上の何かに向けられていたから。彼はゆっくりとその視線を追う。
「そこまでね」
 聞こえたのは幼い女の子の声だった。その主は屋根の上にいるのだろう。目を凝らしたが姿は見えず、ただ気配だけがそこにあった。小さな気配だが確かに存在している。
「子ども?」
「まさか時雨組しぐれぐみか!?」
 彼は首を傾げたが、男たちは動揺してうろたえた。聞いたことのない単語が飛び出してきて早太はさらに首をひねる。術師さえ怯えさせる時雨組とは何者なのだろう? 彼らと敵対する集団なのだろうか?
「そうよ」
 男たちとは相反して、返る声は余裕たっぷりの口調だった。その答えに男たちはさらにうろたえ、無意識にか一歩後退する。すると雲の切れ間から不意に月が顔を出した。それは彼と男たちと、そして屋根の上の少女を照らし出す。
 そう、彼女はやはり少女だった。藍色の羽織を着た八歳くらいの女の子が、屋根の上で膝を抱えて座り込んでいた。頭の片側で一本にまとめられた髪は珍しくも銀色だ。彼女は子どもに相応しい無邪気な笑みを浮かべて、男たちを見下ろしていた。
「そんな、こんな子どもが時雨組!?」
「ちゃんとした一員だよ。十二の組の千鳥ちどり。聞いたことくらいあるでしょう? おじさんたち」
「なっ、お前があの千鳥なのか!?」
 どうやら有名な少女らしい。早太は聞いたことがなかったが、あからさまに男の声は怯えの色を含んでいた。彼らはさらに後退し、そして元来た道を走り出す。乱れた足音が路地に響き渡った。
「あ、逃げた」
 少女――千鳥がつぶやいた。あっさり退散した男たちの姿はもう見えない。早太はほっとして安堵の息を吐き出した。転んだ時はどうなるかと思ったが、何はともあれ助かったのだ。
「あーあ、また逃がしちゃった」
「えっと、あの、ありがとうな」
 残念そうに肩を落とす千鳥へ、立ち上がった早太はそう言った。彼女のおかげで命拾いしたのは確かだ。何者かは知らないが礼は言うべきだろう。
「ううん、あのおじさんたち私の担当になってるし」
「担当?」
「やっつけるお仕事ってこと」
 月光に照らされた千鳥は笑った。幼い少女に似つかわしくない不敵な笑みに、彼は不思議な気持ちになり瞳を細める。彼女の銀の髪は風に吹かれて、生き物のように揺れていた。
「ねえお兄ちゃん、暇ある?」
「今? これから長屋に帰るところだけど」
「そうじゃなくて、昼間何かお仕事してるの?」
「……日雇いのな。日によってまちまちだけど」
 そこで何故か突拍子もないことを聞いてくる千鳥に、早太は首を傾げた。助けてくれたことは感謝するが、痛いところを突かれるのは微妙な気分だ。それに反して千鳥は嬉しそうに小さな拳を振り上げる。
「本当!? やった!」
「あのなー」
「じゃあ私の相棒になって?」
「は?」
 彼は耳を疑った。相棒。それはつまり彼女の仲間になれということだろうか? あの男たちが口にしていた時雨組の仲間に。一瞬冗談かとも思ったが、喜ぶ彼女の顔からはそんな様子は読みとれなかった。今度は年齢そのままの無邪気な笑顔だ。
「あのなー、初対面の奴にいきなり相棒とか言い出さないんだぞ、普通」
「こういうのを運命って言うんだって、お頭のおじさんが教えてくれたよ」
「……誰だ、そんな適当なこと教えたのは」
「だからお頭のおじさん。そうだ、おじさんの所に行こう? きっと許してくれるよ!」
「あのなー俺の話聞いてるか?」
 彼は頭を抱えたい気分だった。こちらの話を聞こうとしない千鳥の中では、彼はもう相棒に決定してるらしい。頭痛がしてうなっていると、ひょいと身軽な動きで千鳥が降りてきた。屋根の上から真っ直ぐ、地面へと。
「うおっ!?」
「大丈夫だよー術があるから」
 けれども千鳥はふわりと路地に着地した。彼女の言う通りそれは術の力なのだろう。小さな指先には数枚の札が挟んであった。彼は眉根を寄せて嘆息する。
「すごいやっかいなことに巻き込まれた気がする」
「ねえ、早く行こう?」
「何で俺を相棒にしたいんだお前は」
「だってお兄ちゃん足速いでしょう? あのおじさんたちから逃げてたくらいなんだから」
 飛び跳ねながら近づいてきた千鳥は、早太の右腕にぶら下がった。小さな女の子を邪険に扱うわけにもいかず、彼は遠い眼差しのまま軽くうなずく。確かに彼は足には自信があった。ついでに体力にもだ。だからすぐ逃げ出したわけだが。
「私ね、今相棒がいないの。本当は一人で動くと駄目なんだけど、お頭のおじさんが相棒探しなら外出てもいいよって許してくれたんだ」
「相棒って……その、時雨組のか?」
 彼は思い切って尋ねてみた。時雨組という名を聞いたことはない。だが何か特殊な集団なのだろうということは男たちの反応からわかった。おそらくそれは、術師の集団。
「うん、そうだよ! あ、時雨組についてはお頭のおじさんが教えてくれるから大丈夫。ねえ、行こう?」
 腕を引っ張る千鳥に、仕方なく彼は首を縦に振った。このまま長屋に帰ってもおそらく千鳥はついてくるだろう。ならばその頭という人に直接断った方が早い。
 いつになったら帰れるんだろう。
 そんなことを思いながら、彼はとぼとぼと歩き出した。



 もう何度目かになるため息を、早太は吐き出した。今日は本当最悪の日だ。変な男たちに追いかけられるし着物の裾は濡れるし怪しいところに連れられるし。何故こんなことになったのだろうと、彼は遠い目をした。
 千鳥の言う頭は、町はずれのぼろぼろの長屋に住んでいた。板敷きの上で円卓に向かっている姿は、頭という単語から連想されるものより少し若い。三十半ば程の男だったが、瞳は子どものように生き生きと輝いていた。そして印象的なのは千鳥と同じ藍色の羽織。また額に巻かれた白いはちまきが、日に焼けた顔と人の良さそうな表情によく合っていた。会ったのがこんな場所でなければ、こんな理由でなければ、普通に笑顔で接したい類の人間だ。もっとも気疲れが先に出てもう外面を取り繕う余裕もないが。
「駄目? お頭のおじさん」
「確かに俺は足が速くて力と体力のある奴にしろって言ったがなあ」
「ぴったりでしょう?」
「でもそれは術師っていう前提があるんだよ、千鳥」
「えー」
「こいつは術師じゃないだろう?」
 視線と心を遠くへとばしている早太の傍で、千鳥と頭はそんなことを言い合っていた。そう、やはり時雨組は術師の集団だったのだ。残念ながら予想通りに。
 頭の話に寄れば、時雨組というのは対術師専門の警護団らしかった。先ほどの男たちのように悪さをする術師を取り締まるのが彼らの仕事だ。よってそこに属する者たちは誰でも術が使えるようだし、術師の中ではその存在も知れ渡っているらしかった。早太のようなただの町人は聞いたこともなかったが、術師には術師の繋がりがあるのだろう。
「そ、そうだけど。でも!」
「術師相手するのに術師じゃなきゃまずいだろう?」
 するとすっと細められた頭の目が、早太へと向けられた。こちらの反応をうかがっているようだ。その目線はどこか小馬鹿にしているようで腹が立ったが、かといって時雨組に入りたいわけでもないので彼は口をつぐむ。するとその気持ちを読みとったのか、頭はにやりと口角を上げた。そして円卓の上に頬杖をつく。
「助かったって顔だな」
「そ、それは、その……別に俺は勝手に連れられてきただけなので」
「お前、名前は?」
「早太、ですが」
「そうか。なあ早太、お前時雨組に入らないか?」
 すると今度は頭に誘われて、早太は目を丸くした。話の流れが掴めない。何より頭自身が先ほどまで反対していたではないか。それなのにいきなり気が変わるとはどういうことだろうか? 混乱した早太は口をぱくぱくさせたが、上手く言葉は出てこなかった。何を口にしていいかわからなくなる。
「確かに時雨組には術師かいない。術師相手するには術師じゃないとな。だが千鳥の相棒となれば話は別なんだ。こいつは術師であり札師ふだしであるから」
「ふ、札師?」
「術を使うための札があるだろう? それを作り出すのが札師だ。ほら、千鳥の髪は珍しくも銀だろう? あれもその証なんだ」
 だが早太の反応など意に介せず勝手に話を進める頭。早太は渋々と、隣にいる千鳥をゆっくり見下ろした。すると笑顔で見上げてきた千鳥と目が合う。
「だからね、札がなくなってもすぐ新しい札が作れちゃうの。ほら、術師としては完璧でしょう? 体術だってみんなに教えてもらってるから強いんだよ。でもね、やっぱり子どもなのは変わりないから、走るのも遅いしすぐ体力なくなっちゃうの。だから相棒になる人にはそれを補ってほしくて」
 なるほど、と早太は心の中だけでうなずいた。あの時の男たちの反応といい気軽に札を使うところいい、千鳥の実力はかなりのものなのだ。だがそうはいっても体は子ども。現にあの時逃げる男たちを彼女は追いかけなかった。自分だけでは追いつけないとわかっているのだ。それが彼女の弱点。
「そう、つまりそこを補ってくれる奴なら誰でもいいんだよ。もちろん術師であるに越したことはないが、正直まともな術師を探すのってなかなか大変だからなあ。俺も困ってたところなんだ。それに――」
「それに?」
 続けて口を開いた頭は、もったいぶった言い方で言葉を切った。訝しげに早太は聞き返すが、刹那、何か嫌な予感がした。手にした湯飲みを円卓に置いた頭は、不敵な笑みを浮かべている。早太は息を呑んだ。
「ここの場所を知ってるのは俺たちの仲間だけだ。一般人に知られるわけにはいかないんだよ。まあ仲間になってくれるなら別に何もしねえけどよ。でも嫌だって言うならなあ、何か考えなきゃいけないなあ」
 頭が口にしたのは、脅しだった。
 早太の背を冷たい汗が流れていった。殺されるとまではいかないかもしれないが、どこかに閉じ込められる可能性もある。なんといっても彼らは術師なのだ。普通の町人である早太が太刀打ちできるわけがない。
「困ったなあ、どうするかなあ」
「わ、わかりましたよ。引き受ければいいんでしょう! 引き受ければ」
「おーそれは助かるなあ。千鳥も何故か懐いてるみたいだしな」
「え、お兄ちゃん相棒になってくれるの!? やった!」
 脅しに屈する早太の腕に、千鳥は飛びついてきた。この状況がわかっているのかいないのか、喜び方はやたらと素直だ。早太はそんな彼女を一瞥して苦笑いを浮かべる。
 今日は本当に最悪の日だ。
 意識を飛ばしたい気分の中、彼は心の中で再びそうつぶやいた。

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