「祭りの夜に蛍飛び」

 虫の音が満ちる河原、そこには二人の男女が腰を下ろしていた。異界へと誘われるとも言われるそんな場所に座り込むのは、ここ瑠璃の国では二種類の人間しかいない。一方は何も聞かされていない子ども、もう一方は術師じゅつしと呼ばれる者たち。
 ただし、この二人が後者であることは明らかだった。その着慣れた羽織が全てを表している。藍色の地にうっすらと織り込まれた白い紋様は、彼らが『時雨組しぐれぐみ』の一員であることを示していた。
「幽霊?」
 素っ頓狂な声を男――たつは上げた。短く切り揃えられた黒い髪に、穏やかな黒い瞳が印象的な青年だ。その瞳が今は大きく見開かれている。彼の隣に座り込む女性は、その反応にあからさまに顔をしかめた。同じく黒い髪は腰程まであり、それを今は軽く紐で結わえている。
「そうよ、悪い? 私、あの手の怪談とか昔から苦手なのよね」
「……ことが?」
「な、何よその言い方。そんなに私は怖いもの無しに見えるわけ? ひどいわねー」
 女性――琴は顔を赤らめて竜を睨みつけた。しかしそれもいつものことなのか、まあまあと宥めるだけで竜は動揺すらしない。風に揺れる草を手で撫でて、彼は軽く首を傾げた。
「それはそうと、その幽霊が今回の任務とどう関係してるんだ?」
「……つまり、その、次の任務は幽霊退治なのよ」
 その途端、嫌な沈黙が二人を包み込んだ。空気が乾ききって、ひびが入ったかのような静寂が訪れた。
 彼らの所属するは、術師によって構成され対術師を専門とする警護団だ。瑠璃の国には術師が多く住んでおり、必然的に術師による騒ぎも周りの国よりも多い。そういった事件を解決すべく選ばれたのが時雨組の者たちだった。
 そこらには売っていない藍色の羽織が、その証となっている。しかし彼らが時雨組だと知っているのは、同じく術師だけだった。一般の人々はただの術師だとしか認識していない。時雨組という存在も知らない。
 しかし何にしろ、時雨組が相手にするのはあくまで術師だった。だから無論のこと、彼らが幽霊を相手にすることなどないわけで。だからこその沈黙で。
「――なあ琴、それ、俺たちの仕事じゃあないと思うんだけど」
「そんなことくらい私だってわかるわよ。でもね、お頭の姪っ子の屋敷に出るらしくて。それで早急に何とかして欲しいって頼まれたのよ。あの頭に言われたら断り切れないじゃない」
 だから二人の不満も正当なものだった。彼らが相手すべきは術師――つまり術の使える人間だ。幽霊などという摩訶不思議なものではない。それは霊退治を生業とする別の者たちの仕事だ。第一、相手が幽霊では彼らの術とて効果あるかもわからない。
「……なるほど、早急だから俺たちに来たわけか」
「ああ、そっか。そうよね。迷惑だけど」
 二人は顔を見合わせると同時にため息を吐いた。彼らは即行解決を信条として任務を引き受けているがために、その実績はかなりのものだった。頭の信頼もそれなりに厚いらしく、よく面倒な仕事が舞い込んでくる。特に時間制限のあるものは、大概二人のところに回ってきた。
「あ、でもお頭は琴が幽霊を苦手としてることくらい知ってるんだろう? それじゃあいつもみたいには動けないから、早急な事件解決は無理じゃないか? なのにどうして頼んできたんだか」
 そこでふと気がついたように竜は手を叩いた。心底不思議そうな様子で首を捻り、川面を見下ろしている。一方眉尻を上げた彼女は、肩を怒らせ声を上げた。
「冗談! そんな弱みを私がお頭に教えるわけないでしょう? あの好色親父、何を言い出すかわからないわ」
「ああ、なるほど。だからか」
 手を震わせる彼女を見やり、彼はくすりと笑い声を漏らした。好色漢として有名な頭の毒牙は、悲しいことに組員にも及ぶ。時雨組に若い女がほとんどいないのは、もっぱらそのせいという噂だった。
「つまりこの仕事をさっさと片づけないと、幽霊嫌いがお頭にばれてまずいってわけか」
「う、うん……まあそうね」
 ぎこちなくうなずきながら、彼女は心許なげに彼を見上げた。そんな彼女を横目に、彼はゆっくりと相槌を打つ。そしてわずかに口角を上げた。
「わかった、それじゃあさっさと終わらせよう。長引くと祭りにも行けなくなっちゃうしな」
 もうすぐ町人たちが楽しみにしている祭りだ。通りも賑やかになり辺り一帯が華やぐ時期。そんな時にまで任務をしているのはもったいない。彼は立ち上がって彼女へと手を差し伸べた。すると彼女は躊躇わずにその手を取り、軽い身のこなしで体を起こす。立ち上がった二人は、顔を見合わせるとどちらからともなく微笑みあった。
「それじゃあ行きますか相棒」
「了解、よろしくお願いします相棒」
 いざ幽霊屋敷へ。二人は颯爽と歩き始めた。



 竜と琴が屋敷へと辿り着いたのは、まだ昼前のことだった。頭の姪が住むという屋敷はかなりのものだ。趣のある瓦屋根に手入れされた白壁。庭もなかなかの大きさで、名も知らぬ美しい花があちらこちらに咲き誇っている。
「すごい……」
 離れへと通された二人は、頭の姪が来るまで神妙に座って待っていた。ここは落ち着くべきところだが、しかし視線は屋敷のあちこちをうろついてしまう。まともな大屋敷にこうして通されるのは初めての経験だった。
「本当、すごいわよね。お頭の親類って実はみんな裕福なのかしら……」
「かもしれない。俺たちの長屋とは大違いだな」
 貧乏人ばかりの時雨組が頭に対して何も言えないのは、こういった理由も関係しているのかもしれない。とはいっても、普段頭や時雨組が住んでいる数々の長屋は、人が暮らしているのかと思う程にぼろぼろだったが。
 全ては見つからないための策、と言えばもっともらしいが、けちっているだけだと竜はみていた。お金に口うるさい頭は、組の者にもいつも手厳しく言っている。
「どうもお待たせしました」
 そこで襖が開き、一人の少女が現れた。年は十二かそこらの、穏やかな顔をした線の細い娘だ。紅色の着物には白い花があしらわれ、肩口で切り揃えられた髪は艶やかな青墨色だった。頭とは比べられない品のいい娘だ。
「私が依頼をしたしずねです。ようこそお越しくださいました」
「あ、私は五の組の琴と申します」
「同じく五の組の竜です」
 円卓の向かいに正座したしずねに、二人は慌てて名乗り出る。子どもとは思えない落ち着きと滲み出る厳かな空気に、自然と背筋が正された。
「琴さんと竜さんですね、どうぞよろしくお願いします。話はもう聞いてるかとは思うのですが……この屋敷に十日程前から幽霊が出るようになりまして」
 しずねはほんの少し顔を曇らせると、そう話を切り出した。瑞々しい瞳が伏せられて、流れるような髪がその頬へとかかる。薄い唇はかすかに震えていた。
「ここには時折、病に伏した方や怪我に苦しむ方が運ばれてくることがあります。みな時雨組の方々です。それでその……運悪くお亡くなりになる方もおりますから、心当たりはあるのですが。けれどもこのような日々が続けば夜も眠りにつけなくなりますし」
 時折その双眸を覗かせながら、しずねは話し始めた。優雅な立ち振る舞いとは対照的に声はたどたどしい。言葉遣いは丁寧ではあるが、そこはやはり幼さ故だろうか。小さな唇が紡ぎ出す言葉は、所々かすかに震えていた。
「そうですよね、眠ってなどいられませんよね」
 琴は彼女に心底同情しているようだった。幽霊に悩まされる一人として、放ってはおけないとでも思っているようだ。だがいざという時動くのは自分なのだろうなと、竜はぼんやり考える。今は話を聞く方が先決だから、何も言わないが。
「ええ……そうなんです。ですからとにかくもう幽霊が出てこないようにしていただけないかと」
 琴のやる気を感じ取ったのか、しずねはわずかに頬をゆるませた。安堵したのだろう。再度相槌を打った琴は、竜の方へとちらりと視線を向ける。彼は彼女には何も言わずに、ただ小さくうなずいた。
「わかりました。それで、その幽霊の特徴というのは?」
 彼の問いかけに、しずねはゆっくりと首を横に振る。艶のある髪が着物に触れて、衣擦れのようなかすかな音を立てた。それとほぼ同時に沈黙が生まれ、遠くから聞こえる鳥の鳴き声だけが部屋に染み入る。
「ほとんどわかりません……女の人、ということ以外は」
 消え入りそうな声で告げられた事実に、二人は内心でため息を吐いた。これで即行解決ができるのか、考えるだけで徐々に頭が痛くなった。



 幽霊は毎夜、離れの近くに出るらしい。そうと聞いて二人は庭で待機することにした。教えてくれたのはしずねではなく、屋敷にいるお喋りな女中だ。
「ずいぶんとあの子、まいってるみたいだったわよね」
 だが琴はしずねに対して好意的だった。どうやら幽霊に困ってやつれたかわいそうな女の子、という認識が強いらしい。おそらく自分に置き換えて想像しているのだろう。やや青ざめた横顔を見て竜はそう判断した。
「そうだなあ。それに、幽霊もどうやら俺たちの仲間みたいだしな」
 大きな石の上に腰掛けながら、竜はため息とも何とも表現しづらい息を吐き出した。病や怪我で伏した時雨組の者が、何人かここで亡くなっているらしい。女中の話ではつい三月程前にも一人か二人亡くなったそうだ。その頃ちょうど流行病に罹っている者が多かったので、納得のいく話ではある。
「……まさか、幽霊も術を使ってくるのかしら」
 そうぼやきながら琴は肩を震わせた。顔も青白いし瞳も虚ろだ。いつも強気な彼女しか見ていないだけに、その横顔はやけに弱々しく見える。さすがに心配になった竜はその肩に手を載せた。
「おい琴、大丈夫か? 琴さえよければ、今回の件は他の組に任せても――」
「じょっ、冗談! そんなことしたらお頭にっ」
 すると手を硬く握りながら、彼女は必死に首を横に振った。月明かりの中、その長い髪が飛び跳ねるのがわかる。よほど頭にばれるのが嫌らしい。それも日頃のやりとりを見ている彼としては、わからないわけでもなかった。
「ああ、そうだったな。じゃあ頑張るしかないか。あ、いや、幽霊が術を使ってくるわけないだろう? 死んでるのに札を持ってるわけないじゃないか。心配ないさ」
 安堵させるよう、手をひらひらとさせてから彼はもう一度細い肩を叩いた。それでもそう簡単に不安は拭い去られないようで、心許なげな顔は変わらない。それでも自らを奮い立たせようとしてか、彼女はかすれ気味の声を絞り出した。
「そ、そ、そうよね。札を持ってるわけないわよね。持ってても一枚くらいだろうし」
 胸の前に掲げた拳も震えているが、それをあえて竜は見ない振りをした。術師が術を使うためには特別な札が必要で、札師ふだしの血で書かれた特殊な札がなければ術は発動しない。だから術師といえども札がなければ普通の人と変わりはなかった。それ故、札を狙った悪事が後を絶たないわけだが。
「幽霊が出るのは日付が変わる頃……まだ大分あるな」
「そ、そうねえ」
 二人は揃って空を見上げた。昼間地へと強く照りつけていた陽はとうに沈み、深い藍色の空にはうっすらと白雲がかかっている。雲の後ろでは三日月がぼんやりと、その輪郭をとどめていた。
 竜はちらりと琴を見た。握った拳を忌々しげに見下ろして、彼女は何か呟いている。幽霊払いの文言とも思えないから、恐怖を紛らわせる何かだろう。それともこんな仕事を押しつけてきた頭へ悪態を吐いているのか。
「琴、寒くないか? 震えてるけど。暖めてやろうか?」
「じょ、冗談っ! 寒くないから大丈夫よ。止めてよね、お頭の真似するのは」
 不安を和らげようと口にした冗談は、あまり功を成さなかった。彼女は彼の背を叩くと、顔を背けながら膝を抱える。その羽織の裾が揺れて、短い草に擦れて音を立てた。
「なんだよ、ただ好意で言っただけなのに」
「言い方が悪いのよっ。遠慮しておくから」
 背中越しに交わす会話の間を、風が吹き抜けていった。夏の初めともなれば、もう夜は蒸し暑いくらいの気温のはずだった。しかし今日は違う。肌に纏わり付くようなゆっくりとした風は、湿度こそ伴っているものの、背筋をひやりとさせる冷たさを含んでいる。
 嫌な夜。霊感などなくてもそれはひしひしと伝わってくる。遠くからかすかに聞こえる祭りの賑わいだけが、せめてもの慰めだった。
「祭り、行き損ねたなあ」
「どうせ一人でしょう?」
「それは琴もだろ? でも一人でも俺、お祭り好きだし」
「そう」
 彼女は不満げな息を漏らして襟の合わせに手をかけた。背中越しにもその気配が感じられて、彼は不思議そうに顔だけを向ける。いつもと何かが違う気がした。
「琴?」
「約束してたの、毎年見に行くって。一人だったら寂しいもんねって」
 そう告げる表情は、陰になって彼からは見えなかった。何かあることはわかるが、聞ける雰囲気でもない。互いにかける言葉がなくなり、さらに静けさが辺りへ満ちていった。遠くの喧噪が伝わってくる分だけ、静寂が身に染みて辛い。
 座り込んだ石は次第に冷たくなっていった。雲も知らぬ間に厚くなり、月明かりも弱まっていく。気づけば風の音も虫の音もどこかへ行ってしまった。
 待機してどれだけ時間が経ったのか、二人にはもはやわからない。祭りのはやしもついに途絶えて、互いの吐息ぐらいしか聞こえなくなった。幽霊嫌いでなくともぞくりとくる湿った空気に、嫌な汗が吹き出る。
「……え?」
 不意に手の甲に冷たい感触を覚えて、竜は声を上げた。息が詰まりそうになる。背中を冷たい汗が落ちる。恐る恐る視線を落とすと、彼の手に琴の手が重なっているのが見えた。冷たかったのはこれだと、彼は瞬きをする。
「こ、琴?」
「な、何か来る感じがする……」
「何か?」
 辺りを見回す彼女の様子には、切羽詰まるものが感じられた。彼はその手を優しくのけて立ち上がると、地面に片膝をつく。幽霊が現れる前触れだろうか? そのまま周囲をうかがったが、これといった異変は見つからなかった。人影も見あたらないし、妙な音も耳には入らない。
 何もないのか。そう思った次の瞬間、彼の目の前を薄緑色の光が通り過ぎた。瞠目して視線を巡らせると、指先程のその光はあちこちから湧き出すように現れている。
「蛍……?」
 それは蛍だった。屋敷の傍に小川でも流れているのだろうか? それともこの大きな庭のことだから、川や池まであるのだろうか? 彼は肩の力を抜くと立ち上がり、辺りを飛ぶ蛍を目で追った。緊張したのが馬鹿みたいに思えてくる。
「ほ、蛍……」
「そうだな、蛍だな」
「違うの、蛍なの」
 背後でも彼女が立ち上がる気配がした。しかしその声は安堵にも不安にも満ちていなかった。その変化を怪訝に思い、彼はおもむろに振り返る。視界に入るのはかすかに震える彼女の背中、そしてその先には――。
「幽、霊……?」
 肩程まで黒髪を伸ばした、一人の少女が立っていた。年の頃は十五、六。穏和な顔つきではあるが、何より目に付くのはその羽織だ。
 時雨組。その証である藍色の羽織。暗闇とはいえ、馴染んだそれを見間違えることなどあるはずがない。少女が身につけていたのは確かにその羽織だった。
「蛍」
 琴の口から再びその名がこぼれ落ちる。そこで彼は重大なことを思い出して、体を強ばらせた。蛍、それは彼が時雨組に入る前に亡くなった琴の元相棒の名前だ。彼もその話は一度だけ聞いたことがある。
「ごめんね、約束破ってしまって。ずっと一緒にって言ってたのに」
 少女はそう言ってかすかに微笑んだ。小さな光が彼女を取り巻き、白い肌に幻想的な色を灯している。
 元相棒だった『蛍』は流行病で亡くなったと、そう琴から聞いていた。ひょっとしたらこの屋敷へ運び込まれた組員の一人が、彼女だったのかもしれない。ならばこの屋敷に出る幽霊とはこの少女のことだろうか? 琴と同じくらい青白い顔をしているが、そこにおどろおどろしいものは何一つ感じられない。
「わざわざ……そのために?」
「だって、約束だったから。ごめんね、本当にごめんね」
 泣きそうな顔でそう言うと、音を立てずに少女は踵を返した。羽織がふわりと広がり木の陰へと消えていく。その後を数匹の蛍が追った。
「あ、蛍っ!」
 琴は少女を追いかけた。暗闇の中つまずきそうになりながらも駆け、少女が消えた方へと寄る。
「琴っ」
 竜もその後を追った。しかし追いついた時には、力無い琴の後ろ姿があるだけだった。木の向こうには既に誰もいない。ただ数匹の蛍がゆらゆらと飛び交い、ほんの少しだけ辺りに光をもたらしていた。妙な気配もない。
「……琴」
「もう、いなくなっちゃった」
 彼が細い手を取ると、琴は微苦笑しながら振り返った。一瞬泣きそうに顔を歪めて、それでも涙をこぼすことはなく口の端を上げる。そこにあるのはただの痛みでも悲しみでもなかった。しょうがない子だと言わんばかりに肩をすくめ、彼女は口を開く。
「約束してたのよ、毎年お祭り見に行くって。あの子、お祭り大好きだったから」
「……え?」
「でもまさか幽霊になってまで謝りに来るとは思わなかったわ。本当に真面目なんだから」
 手をひらひらとさせて笑うと、彼女は離れの方へと歩き出した。どうしていいかわからず立ちつくす彼は、その小さな背中を呆然と見送る。何が起こっているのかわからない。いや、わかっていてもすぐに納得はできなかった。まさかこれで終わりなのだろうか?
「ほら竜、任務完了よ。戻りましょう?」
「え、いやだって……」
「大丈夫、あの子笑ってたもの。安心したって顔に書いてあったもの。だからもう出てこないわよ、きっと」
 肩越しに振り返った彼女の顔には、清々しい笑顔が浮かんでいた。そこにはやはり痛みもなく、危うさもない。いつもの琴だった。一匹残っていた小さな蛍が、彼女の横を通り過ぎて瞬く。
「――そうだな」
 苦笑しながら彼はうなずいた。確かに、もう大丈夫だろう。琴がそう言うのなら、あの蛍はきっと現れない。琴の隣にいる彼を見てどう思ったかは知らないが、咎められることもなさそうだった。
 そう思うと、肌に纏わり付く風も不思議と爽やかに感じられた。先ほどまで薄気味悪く思われていたのが嘘のようだ。雲の向こうからは、うっすらと月明かりが差し始めている。竜はそれを見上げると肩の力を抜いた。
 瞬いていた蛍は、いつの間にかどこかへと消えてしまっていた。



 蛍の幽霊と対面してしばらくしてからのこと。二人は次の任務を受けに、頭のいる長屋へと向かった。あれ以来幽霊は出ていないらしく、五の組は即行解決という評価に変わりはない。琴も落ち着いた様子だった。
「お久しぶりです、お頭」
「お元気そうですね」
「おー竜に琴、来たか。二人揃ってってのは珍しいじゃないか」
 いつもと同じように、頭は板敷きの上で円卓に向かい茶を啜っていた。藍色の羽織はもちろんだが、額には白いはちまきを締めている。年の頃は三十代半ばで、人当たりの良い笑顔と語り口が好印象な頭だ。だがそれが上辺だけであると、組員なら誰もが知っている。外面がいい分他の者にわかってもらえないだけ、実は厄介だった。
 二人はゆっくりと円卓の前に腰を下ろし、日に焼けた頭の顔を真正面から見据えた。頭は悪戯っぽく口角を上げると、茶を円卓に置く。それとほぼ同時に琴が口を開いた。
「いつも一緒だと変な勘違いされかねませんからね」
「それくらいいいじゃないか、琴。それとも何だ、俺の方がいいってか?」
「冗談っ!」
 差し出された手を、琴は躊躇うことなく叩き落とした。冷たいねえ、ひどいねえと頭は呟くが、それでも彼女は意に介していない様子だ。しかし竜も見飽きる程のやりとりだから仕方ない。懲りないなと感心するくらいだった。
「そうそう、しずねがたいそう喜んでいたよ。幽霊が出なくなって眠れるようになったらしい。さすがだなあ、お前たちは」
 するとふと思い出したかのようにそう口にして、頭はにやりと笑った。返答に詰まった二人は、互いに顔を見合わせて微笑を浮かべる。幽霊の正体については、誰にも何も言っていない。頭は退治したと思っているのだろう。だからといってここでそれを正す気は、どちらにもなかった。
「いやぁよかったよかった。あいつ霊感が強いらしくてなあ。ああ、俺は全然そういうのはないんだが。でもあいつはすごくてな、よく子どもの幽霊とは遊んでいるらしいんだ。それが今度のは怖くて仕方ないから退治してくれだなんて……珍しいよなあ」
『……え?』
 二人の声が重なった。だが頭が不思議そうに首を傾げるので、慌てて何でもないと手をひらひらとさせた。よく話が見えない。幽霊が怖くて眠れない少女が、幽霊と遊ぶわけがない。それだけ今回の幽霊が怖かったというわけでもないはずだった。
「しかも琴たちに頼んでくれ、って指定付きだもんなあ。あいつ、いつの間に組員の名前なんて覚えたんだか……」
 呟き続ける頭をよそに、二人は再び視線を合わせた。そしてまた微笑み合い、漏れそうになる笑い声を何とか喉の奥へと押し込む。
 ありがとうと、琴はそう口にしたい気分だろう。それはその表情から読み取れた。きっと頭は何が起こったのかわからないだろうけれど、あの霊感の強い姪は全てを知っていたのだ。きっと蛍の願いを聞き入れたのだ。親戚といえども、まず気の利かない頭とは違うらしい。
「ああそうだ、竜」
 そこでまた円卓から茶碗を手に取り、頭がやおら顔を上げた。それから意味ありげな笑みを浮かべて、瞳に光を宿らせる。何か企んでいる眼差しだった。背筋を正した竜は嫌な予感を覚えて唇を結ぶ。
「怯える琴は可愛かっただろう? ほーら、滅多に見られるもんじゃないしなあ」
 一瞬の沈黙が、三人の間に生まれた。息を呑んだ竜の横で、琴は動揺に眼を見開いていた。竜は胸中で頭の言葉を繰り返す。つまり頭は、琴の弱点を知りつつこの仕事を任せたのだろうか? 馬鹿げた話だとは思うが、頭ならばやりそうだと思えるから頭が痛い。
「お、お頭!?」
 琴は口を何度も開いたり閉じたりしながら、頭と竜とを見比べた。竜はあえて視線を逸らして頬を掻きながら、曖昧な微笑を浮かべて押し黙る。肯定するのも否定するのも今は危険な気がした。ここは流れに任せた方がいい。
「俺が知らないとでも思ってたのか? 前に蛍から聞いててなぁ。嫌いなのは軽い男で、苦手なのは幽霊だって」
「まあ……確かに震えてて可愛かったけど」
 我慢できずに竜が呟くように答えると、琴は胸の前で震える拳を握りしめた。怒りを堪えているだろうというのは確かで、結わえられた髪も揺れている。これは後で甘味処でも連れて行くべきか。奢るべきか。そんなことを竜が考えていると、彼女は拳を高く振り上げた。
「ほ、蛍の馬鹿ーっ!」
 もう聞いていないだろう元相棒に向かって、彼女は大きな声を上げた。その間も頭の弁舌は相変わらず続き、竜は押し殺しきれない笑い声を漏らす。
 隠し通そうという努力は無駄だったのだ。とうに知られていたのだ。それも元相棒がばらしてしまっているとは、さすがの琴も想定できなかっただろう。
「――だから謝ってたのかもな」
「もう、嫌だ。本当に退治しておけばよかったっ」
 琴は振り上げた手を下ろすと両手で耳を押さえた。泣きそうな声だった。竜はそんな彼女の肩を軽く叩き、軽く慰めの言葉を口にする。
 蛍が現れなくなった今、その真意の程は定かではない。全ては儚い光と共に消えてしまった。それでも穏やかな顔をしたあの少女は、今も呑気に微笑んでいる気がしてならなかった。

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競作小説企画「夏祭り」 「蛍」「祭」「幽霊」