「黒いツバサ」

 夏休みというのは子どもにとっては嬉しいことこの上ないけれど、母親にとっては面倒な時期よ。
 ご近所さんが以前口にしていた言葉を、七恵は思いだした。
 全くその通りだった。
 いつもなら学校へ行っている時間。でも今は夏休みだ。外で遊んでいるだけならまだしも、あそこへ連れていけだのここへ連れていけだの、それがダメなら友達を家へ連れてくるだの、とにかく息子の浩太はうるさかった。
「それに、宿題もあるしね」
 食卓の上に置きっぱなしになっている絵日記に、七恵は目を移した。
 小学生には宿題というものが存在するのだ。たわいのないものとはいえ、面倒には違いない。毎日描かなければならない絵日記。自由研究。そして、一番問題なのは『鳥の観察』であった。
 鳥……観察できるようなものなんて、どこにいるのかしら?
 一年生にしてはやや厳しい宿題のような気がしたが、文句を言っても仕方がない。
「さすがにそろそろはじめないと……後で困ることになるわね。お父さんにでも聞いてみましょう」
 水音だけの台所に、七恵の声は吸い込まれていった。



「ねえ、お父さん」
 テレビの音に負けないように、七恵は心持ち大きな声でそう呼びかけた。食事を終えたばかりで上機嫌の夫――誠夫は、ソファに座ったまま七恵の方を振り返る。
「何だ?」
「浩太の宿題のことなんだけど……鳥が観察できる場所って知ってる?」
「鳥? この辺でか? 無理だろ、そんなの。カラスでも観察するのか? それとも雀か?」
 誠夫は笑いながら、足下でカードをいじっている浩太の頭をなでた。遊びの邪魔をされた浩太は不満そうに誠夫を見上げる。
「冗談を聞きたいんじゃないわ。困ってるのよ、本当に」
「あの梅公園はどうだ? でっかい林があるだろ? 何かいるんじゃないのか?」
「梅公園……ねえ」
 三人の住むマンションから少し離れたところに、その公園はあった。マンションばかりのこの区画に緑を、という意図で作られたものらしい。
 本当にいるかどうかは怪しかったが、しかしこの辺りを闇雲に探し回るよりははるかに可能性は高そうだ。
「じゃあ明日梅公園に行ってみるわ。浩太と二人で。お父さんは忙しいでしょ?」
「まあな。残念ながら会社に夏休みはないからなあ」
 そう言って笑う誠夫の横顔を、七恵は見つめた。
 主婦にも休みはないのよ。
 喉元まで出かけた言葉を飲み込んで。
「え、何、お母さん、明日どこか連れてってくれるの?」
「梅公園よ、浩太。鳥の観察っていう宿題があったでしょ? 鳥さん探しに行くの」
 話を聞きかじっていたらしい浩太は、七恵の側に駆けてくると、嬉しそうにその袖を引っ張った。苦笑しながら、そんな息子の髪に七恵は触れる。
「あ、鳥さんの絵を描くやつだね!」
「あら、絵を描くの?」
 にんまりと笑う浩太の頬を、七恵はなでた。浩太は絵を描くのが大好きなのである。
「うん、おっきい絵を描くんだって! クレヨンでさ!」
 太陽を宿したかのような息子の目は、七恵にはまぶしかった。



 何やら騒がしい子どもたちの声は、次第に遠ざかっていた。強い日差しに手足が焼けこげたようなそんな気さえする。昼間は暑すぎるからと避けてきたのにこれだ。もうすぐ夕方だというのにいっこうに気温は下がらない。
「こっちかなあ? それともこっちかなあ?」
 楽しそうな浩太は彼女の前を小走りしていた。双眼鏡を持つのが嬉しいのだろう。しきりにのぞき込んではくるくると回り、その不思議な景色を楽しんでいる。
「浩太、走ると危ないわよ」
「大丈夫大丈夫っ!」
 浩太は本当に楽しそうだった。こんなに喜んでもらえるならもっといろんなところに連れていってあげたいな、と思うくらいに。
 しかし肝心の鳥の観察の方は進まなかった。
 鳥が見つからないのだ。カラスにでも追い出されたのだろうかと思うくらいに、何もいない。時折聞こえるひぐらしの鳴き声が、ただただ七恵をかき立てるだけで。
 人間の作り出したまやかしの林になんて……やってこないのかしら。
 ふと七恵はそう思う。
 無邪気に走り回る浩太を追いかけているうちに、次第に七恵は林の奥まで来ていた。先ほどで聞こえていた子どもの騒ぐ声も、今は聞こえない。
「奥まで来すぎたわね。大丈夫かしら……?」
 後ろを振り返り七恵はそうもらす。気づけばひぐらしの鳴き声もしない。世界から切り離されたような、そんな静けさだ。輝かしいはずの緑の木々もうっそうと感じられる。
「お母さん……雨」
 浩太が手のひらを空に掲げた。七恵が空を見上げると、うっすらとした雲が空を覆っている。
 七恵は慌てて浩太の腕を引いて木の下に入った。すぐに雨足は強くなり、茶色い地面をぬらしていく。雨独特の匂いが土の匂いと混じり、不思議な空気を作り出した。
「お母さん、ひーまー」
 雨はなかなか止まなかった。木陰から出られない浩太は不満そうに七恵を見上げる。
「仕方ないでしょ? 止まないんだから」
「ひーまー!」
 浩太は手をバタバタさせた。困った七恵は嘆息するばかりだったが、そんな彼女の様子には気づくはずもなく、浩太はひたすら「ひま」という言葉を繰り返す。
 突然、声が消えた。
 不思議に思って七恵が視線を下に落とすと、勢いよく浩太は走り出した。雨の中を。
「こ、浩太っ!」
「見てみてお母さん! すっごい大きな水溜まりっ!」
 雨に打たれながら振り返った浩太は満面の笑みを浮かべていた。濡れることなど全く気にしていないようなそんな笑顔。
 浩太は水溜まりの前でしゃがみ込むと不思議そうにその中をのぞき込んだ。身動き一つせず、声も出さない彼の様子が心配になり、七恵は慌てて駆けよる。
 すると浩太は立ち上がった。一歩大きく後ろに下がり、そして思いっきりジャンプする。
「やったーっ!」
 かろうじて彼はその水溜まりを飛び越えていた。一番細いところを選んだおかげだ。でなければ今頃彼の靴は水に浸かっていただろう。
「こ、浩太……?」
 わけがわからず七恵は眉根を寄せる。
「お母さん、僕、虹を飛び越えたよ」
 浩太は先ほどと同じとびっきりの笑顔で七恵を見上げた。
 雨はもう止んでいた。
「虹……」
 つぶやきながら七恵は空を見上げる。霧がかかったような空の中で、うっすらとかかった虹がその存在を主張していた。その姿は無論、水溜まりにも映っている。
「虹を……飛び越えた、か」
 気づくと七恵の頬はゆるんでいた。
 不思議、子どもって不思議だ。その瞳がとらえる世界は違うのだ。同じなのに違うのだ。
 七恵は浩太の頭を優しくなでる。
「あ、カラスさん!」
 浩太が木の上を指さした。そこには黒々とした羽を持つカラスが、威厳をたたえながらとまっている。
「ねえお母さん、カラスさんは、鳥さんじゃないの?」
「え?」
 ひぐらしがまた思い出したように鳴き始めた。浩太は真っ直ぐ七恵を見上げている。
「カラスさんは鳥さんじゃないの?」
「カラスさんも鳥さんの仲間よ」
「じゃあ何で仲間はずれにするの?」
 七恵は、どきりとした。そして思い出す、昨日の晩の会話を。
 それは人間の都合だ……。
 七恵は微笑んだ。
「じゃあ浩太、鳥の観察はカラスさんにしようか? カラスさんの絵、描ける?」
「うん、描ける!」
 浩太は双眼鏡を七恵に預けると、背負っていた小さなリュックの中から画用紙とクレヨンを取り出した。そして汚れるのもかまわずその場に座り込む。
 でも七恵は怒る気はしなかった。ただ今は浩太の好きにさせたかった。
 ひぐらしの鳴き声に混じって、カラスが数羽声を上げる。
 画用紙いっぱいに広がる黒。浩太の描くカラスは力強く、そして綺麗だった。荒々しいはずのそのタッチも、どこか厳かに感じられる。
 生き生きとした黒いツバサは神秘的ですらあった。
「これを見たらあの若い担任の先生……なんて言うかしらね」
 誰にも聞き取られないような小声で、七恵はつぶやく。
 いつしか虹は消えていた。空は徐々に茜色に染まっており、その中をカラスが飛び去っていく。
 赤の中に浮かぶ黒い点を、七恵は見つめた。
 絵の中のカラスが動き出すのは、もうそろそろだった。

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三題噺 「ひぐらし」「水溜まり」「ツバサ」