「瓶いっぱいの死の行方」
「まだ残るつもりですか?」
日付が変わろうという頃。気怠さを堪えて立ち上がり、私はそう声を掛けた。この研究室に残っているのはもう私と彼だけ。家路につこうと急ぐ足音さえ、扉の外からも聞こえない。機械の低い唸り声のようなものだけが、二人の間に横たわっていた。
「うん?」
彼は顔を上げるとしばし天井を見つめ、それから私の顔を見て微笑んだ。たぶん言葉の内容を思い出していたんだろう。耳を通っていてもその意味が脳に伝わっていなかったに違いない。夢中になるといつもこれだ。
「うん、もうちょっとかかるかな。それよりも恵理、二人きりな時くらい、その言葉遣い止めてみない?」
彼はやや寂しそうに笑いながら、重たげに伸びた前髪を掻き上げた。彼を知らない人が見たら、学生だと思うような仕草だ。くしゃっとしたどこか情けない笑顔はいつも彼を幼く見せる。でも彼はこの会社で研究をする一人であり、そして将来を期待されている社員だ。最初にその話を聞いた時は嘘だろうと思ったけれど、でも実際に彼は優秀だった。信念のある努力家だった。
「だってここは会社でしょう? 私は切り替えが下手なんです」
「社内恋愛嫌いだって言ってたね」
「嫌いじゃなくて苦手、です。大きな違いですよ」
肩をすくめながら私が浮かべた微笑みは、彼にはどう映っただろうか? いつも優しい彼は、私のことはとやかく言わない。付き合ってからもそれは同じだった。
ちょっと寂しいけれど、今はこれでいいような気もしている。私も彼もそれなりに不器用で、そして仕事馬鹿だ。ちょっとバランスを崩すだけで色んな物を壊してしまう。彼は今ちょうど重要な研究で忙しいみたいだから、その邪魔はしたくなかった。
「ねえ、恵理」
帰り支度をはじめた私を、彼が名前で呼ぶ。鞄を置いて振り返ろうとすると、背後からきつく抱きしめられた。ふわりと漂う良い香りが鼻孔をくすぐる。たぶんシャンプーの匂いだ。近づいてきたのに気づかなかったのは、考え事をしていたせいだろうか? 私はうわずった声を漏らした。ここで名前を呼ばれるのは、いまだに何だか緊張する。
「み、みつる?」
「恵理、今度の日曜どこかに行かない? 俺、久しぶりに時間が取れそうなんだよね」
思わず下の名前で呼んでしまった。回された腕に手を伸ばして頷くと、嬉しそうな声が耳元にかかった。デートなんて久しぶりだ。ここしばらくはまともな休日なんてなかった。あったとしても睡眠のために費やされていたから、正直嬉しい。
「それじゃあ先に帰ってて。俺もデータまとめたら帰るよ」
離れていく温もりを名残惜しく思いながら、私は鞄を持ち直した。翻った彼の白衣が、視界の隅で踊っていた。
私たちのデートは、いつものことだけれど地味なものだった。今回は博物館。先日は美術館で、その前は水族館だった。この前旧友にデートの話をしたら「それじゃあ熟年夫婦だよ」と笑われてしまった。彼と二人きりの時間があるならそれだけで十分すぎる程嬉しいだなんて言ったら、「今度は惚気てる」って返ってくるのだろう。でもこういう何気ないことが幸せなんだと思う。少なくとも私はそう思っている。
彼の横顔は綺麗で、ずっと見ていたかった。髪型なんて気にしてないだろうけど、でもそんなところも彼らしくてよかった。それにお洒落になんて気を遣われたら、誰に目をつけられるかわからない。ただでさえこう優秀ってだけで注目されるのだ。彼に密かに憧れている後輩が何人かいたことも、私は知ってる。
「恵理」
「――何?」
博物館を出たところで、彼の透き通った目が不意に向けられる。この瞬間は今でもどきりとした。いつも遠い世界を見ているその瞳が現実に戻ってくる瞬間は、言い様のない熱を帯びている。
「いや、何でもない。ちょっと呼んでみたくなっただけ」
一瞬間をおいてから、彼はそう言って微笑んだ。その瞳が少し揺らいでいたのが、私には気になった。何かを言いかけて止めたような、そんな印象だ。彼らしくない。何となく嫌な感じがして私は顔を曇らせた。けれども彼はそれ以上何も言わずに少し歩調を速める。石畳に響く彼の足音はどこか沈鬱に聞こえた。
「みつる?」
「お腹空いてない? そろそろ何か食べようか」
肩越しに振り返った彼は、軽く小首を傾げた。何かあったんだろうか? 疲れているだけというわけでもなさそうだ。それならいつものことだし、躊躇う素振りなんて見せない。今の研究がうまくいってないんだろうか? でもそれだけの理由というのも彼らしくない。
「……そうね。何食べる?」
でも今ここで問いかけるのはよくない気がした。あえて追及はせず小走りで彼のもとへ寄ると、私は薄く微笑む。また何か研究のことを思い出したのかもしれない。いつでもどこでも彼の頭の隅には仕事のことがある。すぐに別世界へと行ってしまう。
「恵理の好きなものでいいよ」
「この前もそう言ってた。今度はみつるが決めてよ」
「じゃあ、イタリアンにでもしようか? この間は和食だったから」
幸いにも、車を少し走らせたところにレストランはあった。茶色をベースにシックにまとめた内装で、ウエイトレスの愛想もいい。若い女性向けと呼ぶほどお洒落でもないが、天井は高めで解放感があった。
そして料理も悪くなかった。値段を考えれば上出来と言っていいくらいだ。くどくないクリームソースは彼も気に入ったらしく、いつもはのんびり食べるのにもうなくなっている。私は最後のベーコンを口へ運ぶと、何気なく窓の外を見た。穏やかな風に吹かれて木々が揺れている。のどかな日曜の象徴みたいだ。
「ねえ、恵理」
呼ばれて振り向くと、コーヒーカップを手にした彼が私を見ていた。いつもと変わらないはずなのにどことなく愁いを帯びた眼差しに、また胸の奥がざわつく。彼はカップの縁を指でなぞりながら、軽く目を伏せた。
「恵理は、本当はどんな研究がしたい?」
「……え?」
「まだ俺たちは、自分の好きなことやれるわけじゃあないし。こんな会社じゃあ、それこそ一生無理かもしれないけど」
「み、みつるは何かしたい研究があるの?」
彼の口からそんな弱気な言葉が漏れるのを初めて聞いた。予想外なことに慌てた私は、自分が答える代わりに問いかける。彼はちらりとだけ私の方を見ると、かすかに口の端を持ち上げた。そんな風に笑うところだって、今まで一度も見たことがない。
「アポトーシスの研究」
「アポ、トーシス?」
「恵理も習ったことはあるだろう? 細胞死の話。シグナルを受け取って自殺する細胞の話」
「あるけど……でもどうしてそれを?」
私たちが普段手がけるようなものに、アポトーシスなんて直接は関係がない。それこそ彼が言う通り、この会社にいる限りは一生縁のないものかもしれない。すぐに実用化されないような研究が許されるとも思えなかった。私は首を傾げる。
「シグナルを受け取って素直に死んじゃうなんて、不思議だなと思ってさ。全体のために個を犠牲にするそのシステムが、学生の頃から気になってて」
そう続けながら彼はコーヒーカップをテーブルに置いた。言い様のない冷たい感覚が背中を立ち上っていき、私は息を呑む。彼の声が何だか遠い。カップを見下ろす瞳が遠い。つい手を伸ばしたくなる程に、不安がこみ上げた。
「そうだ、恵理。渡したい物があるんだ」
その衝動をどうにか押し殺していると、顔を上げた彼はおもむろに鞄を開けた。期待してもおかしくない状況なのに、私の中に別種の予感が渦巻き始める。それをどこかへ追いやるように、私もコーヒーカップへと手を掛けた。けれどもそれを口に含んだところで苦みしか感じない。かぐわしいはずの香りさえ、もうわからなくなっていた。
「これを持っていて欲しいんだ」
彼の手には、透明な小瓶があった。中に何か透明な液体が入っている、手のひらに収まる大きさの小瓶だ。飾り気もないところからすると、香水でもなさそうだ。そこらの店でも、もちろん実験室でも見たことはない。
「――これは?」
「大切な、ものなんだ。恵理に預けるから、だから大事に持っていてくれないか?」
彼はそう言いながら、私の手に瓶を握らせた。有無を言わせない調子だった。預けるってことは、そのうち彼に返すってことだろうか? 私は手の中の小瓶を光にかざしてみる。これといった特徴はないし、表面にも何も書かれていなかった。ただ見た目よりも硝子は厚そうだ。瓶を通った光は歪められて、適切な像を描いていない。
「これは何なの?」
「ごめん、今は言えないんだ。でも後で説明するから」
硝子越しの景色みたいに、彼の瞳も揺れているように見えた。気になる。でもそう言われたら追及できない。私は渋々とそれを鞄に仕舞い込み、曖昧な微笑みを浮かべた。楽しかったはずの時間さえ色褪せたようで、油断するとつい顔が曇ってしまう。それを気取られないようまたコーヒーカップに口づけると、彼の囁くような声が聞こえた。
「無駄なものなのに――何で消えないんだろうなあ」
彼は窓の外へと顔を向けていた。綺麗な横顔は、それなのに私の心をざわつかせる。次第に膨れあがる不安にますます鼓動が速まった。彼は一体、何を考えているんだろう? 思わず手を伸ばしたくなる。
「みつる……」
「ん? ああ、何でもない。疲れてるのかな、俺。ごめんな、せっかくのデートなのに」
照れたように頬を掻く彼の姿が、やけに印象的だった。それ以上言葉を紡げずに、私はただ薄く笑みを浮かべているばかりだった。
次の日も、彼は普段通り出勤してきた。そしていつも通り研究をしていた。真剣にデータを見比べる彼の姿は私をほっとさせた。昨日おかしかったのはやはり疲れていただけなのだろう。今度は彼が休めるようなところへ出かけた方がいいかもしれない。私はそんなことを思いながら、小瓶のことを考えないようにしていた。
でもその日の帰りに、異変は起こった。
まだ残って仕事をするという彼に別れを告げて、私は家路を急いだ。日付が変わるまでもう少し。終電に乗り遅れたら大変だと、薄暗い道を小走りで急いだ。硬く響くヒールの音が、夕立で濡れたアスファルトに反響する。
気配を感じたのは、小道をしばらく進んだ頃だった。人気の少ない道路に、私の靴音とは違うものがかすかに混じっていた。酔っぱらいか何かだろうと最初は思ったけれど、でもそれにしても気配が薄い。変質者だったらどうしようと、私はちらりとだけ後ろを振り返った。けれども誰もいない。街灯に照らされた道には人影もなく、ただ光に群がる虫の羽音が聞こえるだけだ。
痴漢だったら困ると、私は駅へさらに急いだ。人がいれば大丈夫だと自分に言い聞かせて、走り出したくなるのを我慢する。けれども、電車に乗ってもその気配は消えなかった。いや、もはやそれを気配と呼んでいいのかわからない。何かねとっとしたものが周囲を覆っている気がして、見知った車両にいるのに体が震えた。
どうしよう。私は自分の鞄を抱きしめた。その中には昨日彼が渡してきた小瓶も入っていた。急にそのことが気になり、ちゃんとあるのかどうか確かためたくなる。でも今ここで取り出してはいけないような気がして、私は衝動を堪えた。周囲を見回すのも我慢し、俯いて奥歯を噛む。いつもの駅に着くまでの時間が長かった。
電車を降りても、粘り着くような気配は離れなかった。むしろ強くなったようにすら思えて、心臓が早鐘のように打ち出す。このままマンションに帰ってもいいだろうか? 居場所を知られても大丈夫だろうか? それはとても危険なことに思えて、私は咄嗟にいつもの道を外れて近くの住宅街へと向かった。鞄を握る手に汗が滲む。夜風に吹かれてなびく前髪が、徐々に額へと張り付く。
このままどこへ行けばいいんだろう。静まりかえった住宅街には、街灯の光しかない。どこの家も真っ暗で、助けを求めるのも無理そうだった。しかも交番があるのは逆の方向だ。このまま進むといつしか建ち並ぶ家も途絶え、川へとぶつかってしまう。逃げ場がなくなる。
焦る私の目に、ふと大きな門が飛び込んできた。その傍には立派な茂みがある。何も考えずに私はその中へと飛び込んだ。特に理由のない判断だった。とにかくこのままではいけない気がして必死だった。何故隠れているのか? 自分に聞いてみても答えは返ってこない。ただ息を、気配を殺して、じっとその場にうずくまった。
それからどれだけ経っただろうか? 纏わり付くような気配は相変わらずだが、誰もやってくるような様子はない。足音も聞こえない。耳障りな虫の音がするだけで、通り過ぎる人もいなかった。そろそろいいだろうか。でもそう思い始めた頃、突然、声は聞こえてきた。
「おい、あの女はどうしたっ」
それは間近から響くかのようで、思わず身をすくめて悲鳴を上げてしまいそうだった。鞄を抱きしめた私は、かろうじてそれだけは我慢する。大丈夫、今の声は門の外からだ。私は唇をきつく結ぶ。
「見失ったのか? 馬鹿が」
「仕方ないだろう、この天気だ。しかもあの女、地味な恰好してがやるし」
どうやら二人組の男らしかった。ぼそぼそとした低い声で聞き取りづらいが、それでも静かな住宅街だ。内容はわかる。やはり私をつけていたらしい。汗がどっと噴き出すのを感じた。
「でもよ、あの女が薬を本当に持ってるのか?」
「ああ、間違いない。あいつが手渡すような奴、他にはいない」
「へぇ、寂しい人生だな。まあいいけどよ、薬さえ手に入れば」
薬とは、何のことだろう? 私は鞄へと視線を落とした。まさか、あの小瓶に入ってるのは薬なんだろうか? あの男とはみつるのことなんだろうか? 背中を冷たい汗が伝っていく。
「でもよ、何の薬なんだ?」
まるで私の疑問を代弁するかのように、一方の男がそう言い放った。音を立てないようさらに身を縮め、私は目を瞑る。心臓が高鳴り目眩がしそうだった。倒れないようにするのが精一杯で、生きた心地がしない。
「体に作用した後、消え去る薬。まさに完全犯罪のための薬さ。死んだ奴の体を調べても、何を使ったのかわからないって奴」
もう一方の男が鼻で笑った。その言い様からすると、どうも信じていないようだった。私は目を開くともう一度鞄を見下ろす。もしこの小瓶に入っているのがそんな危ない薬だとしたら、それをどうしてみつるが持っていたんだろう? 風に吹かれて揺れる茂みの音が、妙に遠く聞こえる。
「そんなことできるのか?」
「俺に聞くなよ。だから試そうとしてるんだろ、あいつの体で」
みつるは何の研究をしていたんだろう? 何をさせられていたんだろう? 昨日の彼の言葉が脳裏をよぎる。私は彼の何を知っていたのだろう。私はどうしてもっと問いかけなかったのだろう。湧き起こる後悔に押しつぶされそうになり、唇が震えた。
「それなのに逃げられて、そんでもって女も見失ってか」
「いや、そんなに遠くへは行っていないはずだ。探すぞ。実験台にはされたくないだろう?」
徐々に二人の声が遠ざかっていったが、足音はほとんどしなかった。会話が聞こえなくなりしばらく経っても、私はその場を出られなかった。気づかれたらおしまいだ。私はとにかく息を殺し、ガタガタと震えそうになる体を鞄ごと抱きしめた。汗と一緒に涙が溢れ出し、冷えた頬を伝っていく。
『無駄なものなのに――何で消えないんだろうなあ』
昨日の彼の呟きが、頭の中で繰り返される。彼は何がしたかったんだろう。どうしてこんな物を私に渡したんだろう。あの男たちは、何者なんだろう。
わけがわからなすぎて、考える気力もなくて、私はそこに座り込んだまま身動きできなかった。何気ないことが幸せだったのに。それなのに何故こんなことになってしまったのか。いつまでたっても涙は止まりそうになかった。冷えていく体を、どうすることもできなかった。
朝日が昇る前に、私はその茂みを出た。行く当てなどなかった。マンションには戻れないし、会社にも行けない。とにかく私は人のいるところを目指して、頼りない足取りで歩いた。今はとにかく人混みに紛れたかった。
幸いにも、昨夜のようなねっとりした気配は感じなかった。あの二人は私を見失ったままなのだろう。そのことが私を幾分か安心させた。もっと先へ先へと歩いて行ってしまったのか、それとも会社に張り付きに行ったのか。
駅に辿り着く頃には、日が昇っていた。でももちろん通りかかる人はほとんどなくて、これからどうしようかと考える。目立ってはいけない。いつも訪れるような場所には行けない。駅前のベンチに座りながら、ともすれば停止しそうになる頭を無理やり働かせた。
途中、犬の散歩をさせる人たちが私の前を通り過ぎた。くたびれたサラリーマンも私の横を通っていった。誰もが私のことなど気にした様子もなく、ただ日常の中に浸かっているようだった。私も昨日までは彼らと同じ側にいたはずなのに。なのに今どうしようもない方へと流されている。
「いつもの場所は、駄目ね」
私はとにかく始発に乗って遠くへ出ることにした。見知った所にいると心が砕かれてしまいそうで、会社とは反対へと向かう電車に乗った。あいつらに見つかったらおしまい。その思いだけが私を奮い立たせていた。電車の規則的な揺れが眠気を誘うけれど、鞄を強く抱きしめて誘惑をやり過ごす。
とにかく遠くへ、できるだけ遠くへ。私の知らない、誰も私を知らないところへ。まずはそれからだ。そんな言葉を何度も何度も心の中で唱えた。一種の呪文だった。
電車を降りて、知らない街を歩く。それは不思議な感覚だった。もうすぐ出勤の時間だなとぼんやりと思う。いつもなら眠いとぼやきながら駅へと向かって歩いている頃だ。朝日の眩しさに目を細めて、時計を確認している時間。そう思うとまた涙が溢れ出してきそうだった。私は慌てて頭を振り、目についた木のベンチへと腰掛ける。小さな店の脇にあるそれはささくれ立っていた。
足が重い。自覚していた以上に疲労は溜まっているらしい。立ち止まったのはまずかったかと思い俯くと、どこかから話し声が聞こえてきた。噂話に花を咲かせる、年配の女性の声だ。
「ニュース見ました?」
「ビルの上から飛び降りですって? また」
「嫌な世の中ですねぇ。怖い怖い」
ぼんやりしながら聞いていると、聞き慣れた会社の名前が飛び出した。私たちの会社だ。そのビルの名前だ。心臓が飛び跳ねて、再びどっと汗が噴き出す。おもむろに私は立ち上がると、ニュースの事実を確かめようとふらふらと歩き出した。頭が重くて何も考えられない。でも鈍い思考は何かを求めている。
昨夜、もしくは今朝のことだとしたら新聞にはまだ載っていない。それじゃあテレビ? テレビで流れている? 確かめたいようでいて知りたくないような、相反する気持ちに飲み込まれる。もし、飛び降りたのが彼だったらどうしよう。彼が死んでしまっていたらどうしよう。
手が震える。鞄を落としそうになる。不思議そうな視線を気にすることもできずに、私は人を掻き分けて歩いた。歯の奥がガタガタいって止められなかった。頭の奥から徐々に思考が白く染められていて、考えること全てがこぼれていってしまっているみたいだ。まともに考えられているのかわからない。
「ねえ、みつる、みつる――」
呼べば彼が答えてくれる気がして、名前を繰り返す。不審そうな視線が向けられても、うわごとのように囁き続ける。途中、小さな電器店の前を通り過ぎた。そこから聞こえる彼の名前さえ、私を落ち着かせることはなかった。ただとにかく今は誰もいない所へ行きたかった。特に男の声は聞きたくない。
ふと気づいた時、私は知らない場所へとやってきていた。望んでいたように人通りはない。目の前に川が広がり、朝日を反射して輝いていた。こうして川面をじっくり眺めるのはいつ以来だろう? 少なくとも働き出してからではない。何だか別世界に来たみたいだ。
「綺麗……」
私は力無い足取りで川縁へと向かう。水と草の匂いが肺を満たし、気持ちよかった。私はそのまま川岸の草原に座り込むと、小さく伸びをした。もう一歩も動けなさそうだった。何だか眠い。体が重くて気怠い。
「この薬、どうしたらいいんだろう?」
それまで決して手にしなかった小瓶を、私は鞄から恐る恐る取り出した。それはもらった時と変わらない姿で、私の手の中に収まっている。あの男たちの話を聞いた今でも、そんなにすごいものだとは思えない。ただの水みたいだ。でも猛毒だって水みたいに見えることを、私は知っている。
「ねえ、みつる。どうしたらいいの?」
この場にはいない彼へと私は尋ねた。優しいくしゃっとした笑顔に会いたくて、縋るように呟いた。
『無駄なものなのに――何で消えないんだろうなあ』
蘇る彼の声に、再び目尻に涙が浮かぶ。彼はもしかして、シグナルを受け取っていたんではないか? アポトーシスせよというシグナルを。そして、もしかしたら、私にも送っていたのだろうか? 同じシグナルを。
「みつるだったら、どうしたかな」
彼のことを全然知らなかった。何を考えていたのか知ろうともしなかった。でも今、少しでもいいからわかりたい。彼の世界に一歩でも近づきたい。私は小瓶を光に透かして眺めた。完成しているのかどうかもわからない薬を、どうしたらアポトーシスさせられるか考える。こんな危ない薬は、この世の中にはいらない。まるで存在していなかったかのように、消し去りたい。
「川に流したら……何が起こるかわからないのに危ないわよね。普通に捨てる? でも誰かに拾われたら大変。あいつらに見つかったら困るし。もしこの薬の作り方を知ってるのが彼だけだったとしたら……分析されるのも駄目だわ」
口に出すと、少しは思考の筋道がはっきりする気がした。それと同時に手立てがほとんど無いことに気づかされた。得体の知れない薬の処分方法など限られている。しかも私には今、頼れる者がいない。
「そっか」
でも一つだけ、方法がある。私は瓶の蓋を開けた。簡単な処分方法が一つだけある。どうしてすぐに思い至らなかったのか。疲れていたからか、眠かったからか、混乱していたからか。それともただ気づかない振りをしていたのか。でも今は、これしかないような気がしていた。
「みつる、あなたの研究に私も参加させてね」
私は瓶の中身を飲み干した。それは驚くほど味がなく、粘りけもなく、するりと喉を通っていった。臭いもしなかった。それでも念を入れるために、手ですくった水を小瓶へと注ぎ、それをも飲み込む。一滴だろうと残してはいけない。誰かの手に渡ってはいけない。
この薬が本当にあの男の言う通りならば、何も残らないはず。失敗しているならば生きているかもしれない。どちらにせよ、私の体に入った以上は薬の成分を調べることは不可能だった。誰もみつるの研究結果を手にすることはできない。
「これで終わり」
体の中が燃えるように熱くなってきた。胃の奥が熱を持ち、火でも飲み込んだような気分になる。私は草原に体を横たえた。急に眠くなってきて、全てがどうでもよくなった。苦しみのたうち回ることになったらどうしようかと思ったけれど、どうもこの調子だと安らかに死ねるかもしれない。そうだ、完全犯罪のための薬なのだから、証拠は少ない方がいいのだろう。
視界もぼやけてきた。全てが溶けているような感覚があった。もう一度かすれた声で彼を呼ぶ。すると、目の前に彼の笑顔が見えたような気がした。それはいつもよりずっと晴れやかで、穏やかで、清々しさに満ち溢れていた。
「よかった」
目覚めた時、彼が傍にいたらいいのに。消えかけた彼へ微笑み返すと、私はそっと目を閉じた。