「春の踊り子」

 待ちわびた春に、人々が活気づき始めたある日。フマルとマロンは切らしたミルクを買いに古びた家を飛び出した。まだ頬に当たる風は冷たく、指先は凍りそうだったけれど、空から降り注ぐ日の光は暖かい。
 舗装されていない道はどこまでも続くようで、その上をお喋りしながら二人は歩いていた。水溜まりを飛ぶように避け、丘を悠々と登り、目指すは隣町。笑いながら歩く二人の髪は柔らかな金色で、白い肌によく映えていた。空のようなブルーの瞳もまぶしい程に輝いている。
「なあフマル。今日はちょっと寄り道していかないか?」
「何だよマロン。また母さんに叱られるぞ?」
 小さな店が建ち並ぶ通りにやってくると、マロンはその瞳を瞬かせてそう問いかけた。応えるフマルが嫌そうなのは、この間母さんにみっちり叱られたせいだ。
「ほら、何かサーカスが来てるみたいじゃないか!」
 マロンの指さす方向には広場があり、広場にはたくさんの人が集まっていた。隙間から時折見えるのはピエロらしき人影で、楽しそうに踊っている。
「ちょっとだけだからさ!」
 そう言ってマロンは飛び出した。ミルクはどうするんだよと問いかけるフマルの声は、どうやら聞こえていないらしい。
「困った奴だよなあ。まあ僕の方がほんの少しだけお兄さんなんだから、仕方ないのかもしれないけれど」
 フマルも仕方なくマロンの後をついていく。人混みを掻き分けるようにしてのぞき込むと、ピエロがお辞儀して去っていくところだった。でもマロンの姿は見つからない。
「マロン?」
 自分と同じ姿の弟を求めて、フマルは人を掻き分けながら進んだ。するとどっと歓声がわき始める。
「何?」
 不思議に思ってフマルが振り向くと、広場の中央には一人の少女がいた。赤い花のついた髪飾り、まるで天使のような白い服をまとった少女が、そこで一礼している。
 踊り子だ……。
 彼女の流れるような舞が始まった。軽くステップを踏みながら広場中を使って、彼女は時に鳥のように、時に蝶のように踊る。見とれた人々のため息が、周囲を覆っていた。
「綺麗……」
 フマルはじっとその少女を見つめていた。まるで異国に迷い込んだように、吸い込まれるように、その目は少女だけを追っていた。
「フマル!」
 そこへ聞き慣れた弟の声が背中からかかる。肩を叩かれはっとして、フマルは振り返った。
「フマル、忘れてたよミルク! あんまり遅くなると怒られるから、帰ろうよ」
「あ、ああ」
 何度も振り返りながら、フマルはマロンに引かれていった。



「薪が足りないなんて、母さんもどうかしてるよなあ」
 その夜、フマルは薪をもらいにまた隣町へと駆けなければならなかった。疲れたのかすぐに寝てしまったマロンは、今はベッドの中にいる。
「なんだよ、数分遅く生まれただけで」
 春ともいえどもまだ夜は寒い。頬を刺すような風が彼の足を阻んでいた。それでもフマルは必死に走る。
 夜の町は静かだった。昼間はあれほど歓声に包まれていた広場も、今はひっそりとしている。時々聞こえる鳥の声だけが、フマルの心を慰めていた。
「こんな時間に薪なんてもらえるのかなあ。顔見知りだからって」
 広場を横切ろうとしたその時、フマルは少女の泣き声を聞いた。かすかにもれてくるそれは、涙を堪えている声のようだった。
 フマルはそっとその声の方に近づいていく。
「あ……」
 そこにいたのは、昼間見た少女だった。今は簡素な麻の服に着替えた彼女は、膝を抱えて広場の隅に座り込んでいる。軽やかな栗色の髪は乱れて、今はぐしゃぐしゃだ。
「誰?」
 少女が声を上げた。フマルははっとするも、どうすることもできずにただその場に立ちつくす。立ち上がった少女と、目があった。
 思っていたよりも大きい……。
 舞っている時は気づかなかったけれど、少女はどうやらフマルたちよりは年上のようだった。困惑した顔で彼女は小首を傾げている。
「ど、どうかしたんですか?」
 高鳴る鼓動を抑えながらフマルは尋ねた。少女は涙を拭きながら、何でもないというように首を横に振る。
「気になるじゃないですか」
 フマルは声を上げた。驚いたような顔で少女が目を見開き、フマルを見つめる。思ったよりも大きい声を出していたことに気がついたフマルは、頬を赤らめた。こんな時は、この薄暗さに感謝したくなる。
「今日……踊りを失敗しちゃって」
 かすかに聞こえる程度に、少女は告げた。では自分たちが帰った後だったのだろうと、フマルは考える。あの時はとても綺麗だったのに、失敗するだなんて。
「で、でも僕、今日踊り見たけれど、と、とても素敵だったよ!」
 フマルは精一杯の想い出そう言った。今度は別の意味で驚いた少女が、かわいらしく頭を傾ける。
「見てたの?」
「そ、そりゃもちろん!」
「失敗してたでしょう?」
「ううん、すごかったよ! みんな見とれてたもん!」
 それがフマルにできる精一杯のことだった。そのうわずった声のためか、赤らんだ頬に気がついたのか、少女がさもおかしそうにくすくすと笑い出す。
「な、何だよ!」
「ありがとうね」
 少女は笑った。昼間見たよりもずっと素敵で、春のような微笑みだった。フマルも思わず声をもらして笑い出し、右手を差し出す。
「じゃあさ、今度また君の踊り見せてよ」
「いいわよ? 今度はもっと素敵なのを見せてあげる」
 少女は彼の手を取った。その手は細くてしなやかだった。
 少女の笑顔を頭に焼き付けながら、フマルは何度も何度もうなずいた。



 次の日の朝。薪を買い忘れて沈んでいたフマルの肩を、マロンが叩いた。雲がかかったようなフマルとは違い、マロンの顔は輝いている。
「母さんがさ、今度はちゃんと薪買ってこいって。やっぱり僕らは二人じゃなきゃだめなんだってさ」
 寝てたお前が悪いんだ、という言葉をフマルは飲み込んだ。どうやらマロンは、自分が頼られたことが嬉しいようだ。
 二人は昨日と同じく、駆けるように町へ向かった。でこぼこ道を走りながらたわいもない話をするのは、滅入っていたフマルには楽しかった。
「あれ? もうサーカス終わっちゃったのかな?」
 広場の側までやってくると、マロンがふと気がついたように首を傾げた。昨日はあれほど賑わっていたのに、今は行き交う人くらいしかいない。
「フマル!」
 われ知らずにフマルは駆けだしていた。広場を突き抜け、さらに隣町へと続く道をひた走る。
 昨日のサーカスよかったわよね。ええ、そうね。もう次の町に行っちゃうんですって。残念よね。
 耳に入ってくる人々の会話が、フマルの胸に突き刺さる。
「嘘つきっ。見せてくれるって言ったじゃないか!」
 フマルはひたすら駆けた。疲れ切って足が動かなくなるまで、ただただ走った。通り過ぎていく景色を尻目に、力一杯足を運ぶ。
「あ……」
 町の端まで来た時、サーカスの馬車らしい姿が道の先に見えた。ゆっくりと車輪を転がし去っていく姿は、もう彼方にある。
「あ!」
 目を凝らすと、馬車の荷台の上に少女が立っていた。ひどく揺れるはずなのにそれを感じさせない動きで、軽やかにステップを踏んでいる。
「守ってくれたんだ……」
 見に来ると信じて。
 フマルは目に焼き付けるように、何度も目をこすりながら見た。上がった息を整えて、必死に目を凝らす。
「フマルー!」
 どうやら追いかけてきたらしい。マロンの声が聞こえてきた。でも応えられないフマルは唇をかんだまま、馬車が見えなくなるのを待つ。
「踊り子さん、見えた?」
「え……?」
 マロンの声に、フマルは振り向いた。
 夜のこと知っていたのだろうか?
 驚くフマルにマロンは微笑みかける。その澄んだ笑顔は少女同様、春そのもののようだった。
「僕も見たかったなあ。ずるいよ、フマル」
 マロンの頭を、フマルは乱暴になでる。
「これは兄の特権なの!」
 フマルの言葉に、マロンは吹き出した。
 二人の笑い声は、日の光を浴びながら空気へと溶けていった。

小説トップ   サイトトップ