「神の山」

 遠くから何かの遠吠えが聞こえた。私を木へ縛り付けようとしていた男たちが動きを止めて、一瞬だけ空を仰ぐ。私もほんの少し視線を上げた。憎々しい程の青空にはうっすらと白い雲がかかっていて、それがのどかな風に乗って流れている。
 ここしばらく、よく見る空の色だ。そして私をこんな風にしてしまった色。
「メースィ、お役目を果たすんだぞ」
 作業を再開した男の一人が、努めて明るい声で囁いた。彼がどんな表情をしているのか見る気にもなれず、私は黙って静かに頷く。その動きにあわせて、長い首飾りが音を立てた。赤に黄色、青に黒と色とりどりの石をつけた首飾りが、何重にも私の首にはかけられている。着せられた衣服もこの辺りでは手に入らない上等な代物だった。絹と呼ぶらしい。艶やかで着心地のよいそれは、きっと一日もすれば見る影もなく汚れてしまうのだろう。
 雨季に入ってしばらく経つというのに、村に雨が降らなくなった。日に数度は天地がひっくり返るような音を立てるはずの雨が、もうずっと降っていなかった。これが乾季ならばまだ誰も怯えずに済んだことだろう。けれども今は雨季。不吉な星があると星見の婆がつぶやいたのがきっかけで、村中は恐怖に包まれた。
 神がお怒りなのだ。
 誰が初めに口にしたのかわからない言葉は、瞬く間に広まっていった。そして生け贄に私が選ばれた。守ってくれる親が流行病で亡くなっていたためだろう。若い娘の方がいいだなんて、そんなおかしな話があるわけがないのに。女一人差し出されたくらいで機嫌を直す神なんて信用できない。
 けれども神が降りると言い伝えられている山の麓に今、私は取り残されようとしている。まずは腰が木に括り付けられた。人の胴の三倍以上はある幹は、私が動いただけではびくともしない。足も縛られてしまった。きっと高価だろう足輪も縄の下に隠れてしまった。後は手が縛られれば全てが終わる。彼らは私を置いて、村へと帰ってしまう。
 そうなればどうなる?
 考えれば背筋が冷たくなった。雨季といえども山の朝晩はそれなりに冷える。だけど死ぬ程ではない。飲まず食わずで餓死するのか、それとも山の生き物たちに見つかってしまうのか。臓物を食い破られる前に死にたいと切に願った。死にたくないとはもう泣き叫ばないが、せめて苦しまずに息絶えたかった。
「よし、あとは右手を」
 けれども作業を続けていた男の言葉が、不自然なところで途切れた。息を呑む音も聞こえた。不思議に思って顔を上げれば、男たちは瞳を見開いて数歩、木から離れている。
「神の使いだ」
「神の使いがいるぞ!」
「山に踏み込まれてお怒りなんだ、逃げろっ」
 口々に、男たちは叫んだ。彼らの視線は真っ直ぐ、山頂へと続く道に向けられていた。私は無理矢理首を捻って、そちらを見やる。
 そこには、一匹の犬がいた。いや、犬にしては大きすぎるし耳が長すぎた。白い毛並みは光を纏ったように美しく、神の使いという言葉にもうなずける姿。熟した実のごとく光る瞳も、不思議と厳かだった。
 それでも、きっとあれはただの動物だ。きっと彼はお腹を空かせてやってきたのだ。そう私は確信していた。だからこのままこの体は食いちぎられて、惨めな殺され方をするのだろう。縛られたままでは逃げることもできないのだし。
 ならばせめて獣の迫る瞬間を見ないようにと、私はきつく目を瞑った。痛みが一瞬であればいいと願いながら、その時が訪れるのを待つ。
「ミン?」
 だけどいっこうにその瞬間は訪れず、代わりに鼓膜を振るわせたのは人間の声だった。
 この山に人がいるはずがない。そう思いながらも、私はそっと瞼を持ち上げていた。すると緑いっぱいの視界の中に、見慣れない青年の姿が入る。
「神、様?」
 私は呆然とつぶやいた。人間と同じ姿をしているというのに、彼は人間には見えなかった。村の人間とは違う白い肌に、木の膚と同じ色の髪。一枚布に穴を開けて紐で縛っただけの簡素な服だけれど、私が着ているものよりもずっと神聖なものに思えた。それは全てこの山に似つかわしい。
「神様? 違うよ、私はアフタル、ただの人間さ。君は生け贄にでもなったの?」
 彼はそう言って笑いながら、私の方へ近づいてきた。その足下には先ほどの白い獣がまとわりついている。まるで彼の使いか何かのようだ。
「そ、そうよ」
「かわいそうに。それでこの山に捨てられたの? こんな所に縛り付けても、誰も願いなんて聞き入れてはくれないのに」
 彼はすぐ側まで来ると、木の背後に回って縄を解き始めた。突然のことにどうしてよいかわからずに、私はただ彼のすることを黙って見つめるしかない。縄が緩むと、自由になった足の輪が音を立てた。
「来る?」
「え?」
「私と一緒に。もう村には戻れないんだろう?」
 研ぎ澄まされた石を手にしたまま、彼は私を見つめた。頷くと、今度は首飾りが派手に音を立てた。耳馴染みのない高音が、不安の中にいる私の心を象徴しているみたいだ。
 それでも私は、アフタルの後をついていった。助かった以上、一人でいるのは心細かった。足を運ぶ度に髪に差し込まれた飾りが、額の輪から下げられた石が、派手な音を立てて耳につく。けれどもこれらをその辺りに捨て置くのも、何となく気が引けた。これを手に入れるために皆が汗水垂らして働いていたのだと思うと、どうも手放す気になれない。
「これを食べると少し気分が落ち着くよ。結構甘いから」
 さらに山奥へと入った彼は、木から実をもぎ取って私にくれた。見たことのない真っ赤な実はそれでも熟してはいないらしく、手に取ると石のように硬い。私は口にするのを躊躇った。確かめるよう匂いをかいで、しげしげとそれを見つめる。
「本当に食べられるの?」
「食べられるよ。ミンが教えてくれた実だから」
 彼の視線にあわせて、私は足下の獣を見た。ミンというのが名前なのだろう。ふさふさとして毛はこの山の中を歩き回っても、不思議と汚れてはいなかった。私の服の裾はもう、土に染まっているというのに。
「私はこの山に捨てられたんだ。そしてそれはミンも同じ。毛の色が、耳の形が違うからと群れに入れてもらえなかったみたいなんだ。だから私たちはここで暮らしている」
 彼は歩きながらそう説明してくれた。だから彼は私を助けてくれたのだろうか? 同じく捨てられた境遇だから?
 近くで見れば、彼の顔は恐ろしい程整っていた。乱雑に切られた髪も汚れた服でさえも、その魅力を損なうことはない。そんな彼をどうしてこの山に捨てたのだろう? やはり私と同じように生け贄として捧げたのだろうか? 考えれば考える程疑問がわいてきた。こんな神様のような人を山に置いていく気持ちなど、私には理解できない。
 すると不意に、彼が立ち止まった。ぶつかりそうになった私は慌てたためよろめいて、せっかくもらった実を取り落としてしまった。それは私の周りを転がると、木の根にぶつかって動きを止める。
「骨がある」
 その実を拾おうとした手は、彼の放った言葉で石のように硬くなってしまった。耳を疑って、私はおそるおそる彼を仰ぎ見る。こうして何気なく歩いている道に骨があるなんて、信じられなかった。でもそう、私はここで一時は死を覚悟したんだ。そんなことを考えると、木に縛り付けられた時の恐怖が蘇ってきた。ここは平和なだけの場所ではない。
「珍しいな。人間のだ」
「に、人間の?」
「それもかなり昔の。生け贄にされた人のかな? ここはどの部族も神の山だって思っているみたいだから」
 青ざめただろう私の方を振り返って、彼は手にした骨を高く掲げた。恐ろしくはないみたい。骨をじっと見つめる彼の瞳は、この山と同じ瑞々しい緑だった。私は自分の両手を抱えて、そんな彼の横顔を眺める。
「いや、結構新しい方かな。重労働してたみたいだ」
「そんなことまでわかるの?」
「こっちが膝の方。見てごらん、磨り減ってるだろう?」
 そう言われて、顔を強ばらせながら私は骨を覗き込んだ。でも普通の骨なんて見たことがないから、その違いがよくわからない。逆に言えば、それだけ彼は見ているということだった。この山では当たり前のことなのだろう。たぶん。
「せっかく見つけたんだし、埋めておこう」
 彼はそう言うとその場に膝をついた。そして手にしていた研いだ石で、木の根本を一心に掘り始めた。ミンは興味深そうにその周りを動き回っている。私もそっと彼の横で膝を抱えた。
「あっ」
「何?」
 けれどもその時私は、驚くものを見てしまった。思わず声を出してしまったためか、手を止めてアフタルが不思議そうに振り向く。私は何でもないと強く首を横に振った。それでもまだ動機は収まらない。
 土を掘るアフタルの緩んだ服から見えたもの。それは白く柔らかなふくらみだった。
 女……だったんだ。
 ずっと男だと思いこんでいた。私よりも頭一つ分背が高いし声も低かったから。露わになった手足も長かったから。恥ずかしがる様子もなかったから、だからそうだと思いこんでいた。頼りになるのも当たり前だって。
「これでよし」
 私が動揺している間に作業は終わったらしい。アフタルは満足そうに微笑むと、おもむろに立ち上がった。その足からぱらぱらと土が払い落とされる。私もゆっくりと立ち上がり、彼の――いや、彼女の隣に並んだ。
「そういえば、君の名前を聞いてなかった」
「私? 私はメースィ」
「聞いたことのない名前だな」
「それは、あなただって」
「互いに別の場所から来たんだ、それも仕方ないかな」
 アフタルはそう言うと笑った。するとその周りをうろついていたミンが、彼女の足にすり寄っていった。私のような女々しさのないアフタルは、ミンが傍にいると余計に神々しく感じられる。この山の厳しさも、彼女の強さの象徴のように思えた。
 どうして彼女のような人が捨てられたのか、ますますわからなくなった。いや、あまりに神々しすぎるから手放したのかもしれない。現に傍にいるだけで、私も息が詰まりそうになっていた。自分がいかに卑屈で小さな存在か、感じずにはいられなくなるのだ。着飾っている私よりもずっと、彼女の方が綺麗だった。
 私は自嘲気味な笑みを浮かべると、落としてしまった実を拾い上げた。そしてそれをたっぷりとした袖で磨く。もう汚れたってかまわなかった。神のいない山に、私は取り残されただけなのだから。
「よく見ると、メースィの瞳は綺麗だね」
 それなのにアフタルはそんなことを言い出した。思わず赤面した私は、口を開けたまま彼女の顔を見つめる。それを言うならアフタルの目の方がずっと綺麗だった。私の真っ黒な瞳とは違う、優しい緑の色。それはこの山を象徴するような色だった。
「そ、そんなこと」
「ミンと同じで、すごく透き通って綺麗だよ。私もメースィと同じような容姿なら、きっと捨てられなかったんだろうね」
 そう言ってアフタルは笑った。私はどきりとして、綺麗になった実を手の中で転がす。自分が羨ましがられるなんて思ってもみなかった。やっぱり彼女も普通の生活に憧れだろうか? 村の中で支え合う暮らしを、思い描いたりしたのだろうか? アフタルはその場にしゃがみ込むと、ミンの毛を撫で始める。そんな彼女を私は見下ろした。
「ア、アフタルは、村に帰りたいの?」
 私は思いきってそう聞いてみた。彼女も私と同じなのかどうか知りたかったから、私もここでやっていけると信じたかったから。けれども顔を上げた彼女は、苦笑して首を横に振った。乱雑に着られた髪がふわふわと舞う。
「ううん、そういうのはないかな。私はうんと小さい頃ここに捨てられたから、村の記憶はあまりないんだ。かすかに残ってるのは嫌なものだけだし」
「そ、そうなんだ」
「メースィは帰りたいの?」
 むしろ逆に聞き返されて、私は言葉に詰まった。思わず息を呑むと、耳飾りの触れ合う音が妙に頭に残る。私は、できるのならば帰りたかった。私のような貧弱な娘がこの山で生きていけるとは思わなかった。もちろん、幼い頃のアフタルが何とかやっていけたのだから、実際は不可能ではないのだろう。でも私は弱いのだ。彼女とミンがいなければ何もできない。
「帰りたくても、帰れないじゃない」
 だから私は仕方なくそう答えた。そしてその場に座り込むと、手にしていた実にかじりつく。皮は固かったけれどその中は予想以上に柔らかかった。甘酸っぱい果実から染み出す果汁は、今まで食べたどんな物よりも美味しく感じられる。広がる香りも濃厚で、目眩がしそうになった。
「そうだね。生け贄が帰ったら、何言われるかわからないからね」
 アフタルはそう答えて相槌を打った。もしかすると、今までにもここに生け贄にされた人が来たのだろうか? そう思える発言だった。もしかしたらその人は、彼女の忠告を無視して帰ったのかもしれない。どうなるかなんて目に見えているのに。
「でも君が寂しそうだって、ミンが心配してるよ」
 続けて彼女はそんなことを口にしてきた。驚いた私は実を口にしたまま、アフタルの傍でくつろぐミンを見下ろす。アフタルはミンの気持ちがわかるのだろうか? ずっと傍にいれば、動物の気持ちもわかるのだろうか? 気持ちよさそうに寝そべっているミンからは、心配するそぶりなんて見られなかった。私のことなんて視界にも入ってないみたいに思える。
「ミンは優しいんだ。幼い私を助けてくれたのもミンだし、食べられる物を教えてくれたのもミンだし。だから私はずっとミンの傍にいるつもりなんだ。一人にはしたくないから」
 言いながらミンを撫でる手つきは、とても優しかった。私は何だか羨ましくなる。そんな風に思える親しい友だちが、私にはいただろうか? そう思うとますます寂しくなった。私が神への生け贄にされても、それを必死で止めてくれる人はいなかったと思う。こっそり泣いてくれた人はいたけれど。
「大丈夫だよ、メースィ。ここにはミンや私がいるから」
 だからそうアフタルに言われると、気恥ずかしくて仕方なかった。どうして彼女は私に親切にしてくれるのかとか、考えられない程にこそばゆかった。体の奥がむずむずとする。
 それをごまかすように、私は果実でべとべとになった指を口に含んだ。普段なら行儀が悪いとたしなめられる行為だ。でもここは山の中で、私とアフタルとミンしかいないのだから、もう気にしない。邪魔で仕方なかった額の輪も取ってしまった。重たい耳飾りも、一緒にはずしてしまう。
「ミン!?」
 でもその時突然、ミンが弾かれたように体を起こした。私もアフタルも驚いて、空を見上げるミンを凝視した。
 何かあるのだろうか? そう思って同じように見上げてみても、青空に浮かぶ雲しかそこにはなかった。得体の知れない鳥もいなければ、もちろん雨など降る気配もない。先ほどと同じ、憎々しい程の好天だった。
「ミン、どうかしたの?」
 今度ばかりはアフタルも、ミンの考えがわからないのだろう。怪訝そうに首を傾げて、ミンの黒い瞳を覗き込んでいた。いや、覗き込もうとした。けれども唐突にミンが走り出して、その視界から消えてしまう。私とアフタルは慌てて立ち上がった。そしてミンの後を追いかけ始める。
「ミンっ!?」
 叫ぶアフタルは、私よりもずっと足が速かった。いや、私が遅いんだ。たっぷりとした着慣れない衣服は、足にまとわりついて走りにくい。息が上がるのを自覚しながら、私はそれでも懸命に彼らを追った。ここで見失ったらそれこそ終わりだ。死ぬしかない。
「ミン、アフタルっ」
 けれども幸いなことに、私の体力が尽きる前に彼らの姿は見つかった。切り立った崖の上に、彼らは立ち止まっていた。坂道を駆け上がった私は、何とかそこへと辿り着く。頭がくらくらして足がもつれそうになった。そんな私の腕をアフタルが掴んでくれる。
「見て、メースィ」
「な、なに?」
「山の麓から煙が上がってる。たぶん火事だ」
「か、火事!?」
 言われた方へと視線を向けて、私は目を見開いた。青々とした木々の合間から見えるのは、見覚えのある家屋の屋根だった。方角的にも間違いない、私の村だ。その奥に見える小さな丘でも、よく遊んだ記憶がある。だけど今、その一帯からは灰色の煙が上がっていた。
「ひょっとして君の村? ここ最近ずっと乾燥してたからね。きっとそのせいだよ」
「そ、そんなっ」
 頭の中が真っ白になって、私はどうしていいのかわからなくなった。このままではみんな死んでしまう。水不足の村では、火の手が広まるのを止めることなんてできない。できるのはせいぜい、そこを逃げ出すことぐらいだ。
「ど、どうしよう……隣の婆様なんてまともに歩けないのに」
「まさか行くつもり? メースィが行っても何もできないよ?」
「だ、だって」
「今行けば、全てが君のせいにされるよ。君が生け贄としての使命を果たさなかったからだって」
 アフタルの言葉は、私の胸に深く突き刺さった。その通りだろう。悪いことは全て神の怒りに結びつけられる。そしてそれは、怒りを静めるという務めを果たさなかった私の責任となる。そうなればどうなるかなんて、考えるまでもないことだった。辱めを受けた後、酷い殺され方をするだろう。怒れる人々は容赦がない。
「メースィ」
 アフタルの声には、ほんの少しの苛立ちと不安が混じっていた。私を心配してくれているのだと思う。私だって、殺されるのは嫌だった。それでも頭の中をちらついたのは、私のために泣いてくれた人たちの顔だった。誰にも知られないように隠れて泣いてくれたあの子や、泣きはらした目ですり寄ってきたあの子。私を助ける力は持っていなかったけれど、でも私のことを思っていてくれた人たちだ。卑屈になっていたけれど、よく考えれば私は一人じゃなかった。
「無理よ」
 私はかぶりを振った。燃えている村を見て、今さらになってわかった。私はやっぱりあの村を愛していたのだ。私を捨てた村だけれど、私を育ててくれた村でもある。両親が亡くなった後もずっと、見守っていてくれたのだ。それを見捨てることなんて私にはできない。
「メースィ!」
 アフタルの制止を振り切って、私は元来た道を駆けだした。今から行っても間に合わないかもしれないけれど、でもここに止まればなおさら後悔する。きっと自分がもっと嫌いになってしまう。だから転びそうになりながらも必死に、私は道を駆け下りていった。勢いづいた足はもう、自分の意思で動いているわけじゃあない。だから自分でも信じがたいような速度で、私は走っていた。
「ミン?」
 そんな私の横を、すり抜けていく姿があった。ミンだ。白い肢体を伸ばして跳躍する姿は、私と違って余裕さえ感じられる。けれどもミンの姿が見えなくなることはなかった。たぶんこちらにあわせていてくれているのだろう。
 一緒に行ってくれるのだろうか? そう思うと、私の胸は少しだけ膨らんだ。アフタルが追いかけてくる気配はないけれど、この心優しき生き物は私の意思を尊重してくれているらしい。私はうなずくと、転がり落ちるように山を駆け下り続けた。
 麓まで辿り着くのに、それほどの時間はかからなかった。ミンの後をついていったおかげだった。近道でもしてくれたのだろうか? 行きにかかった時間を考えると、その差は雲泥だった。立ち止まった私はひたすら肩で息をする。体がばらばらになりそうだけれど、まだ限界は来てないはずだった。
「村は……村は?」
 辺りを見回しても、煙のせいで何がどうなっているのかよくわからなかった。焦げ臭さに鼻が曲がりそうだし、煙が目に染みて涙がこぼれてくる。それでもミンは、しきりに周囲へと視線を走らせていた。何かを探しているのだろうか? 私も目を細めながら、できるだけ辺りの気配に意識を集中させた。瞳は役に立ちそうもない。
「え?」
 するとかすかに、誰かの泣き声が聞こえてきた。それはたぶん……子どもの泣き声だった。それもまだ、物心ついたばかりくらいの年頃のだ。そう思った瞬間、私はまた駆けだしていた。鼓動が早すぎて死にそうなくらい苦しいけれど、でも動き出した体は勝手には止まってくれそうにない。
 同じく走り出していたミンが、小さく鳴いた。その姿が煙に紛れて、私は慌ててその後を追おうとした。見失ってはいけない。ここで頼りになるのはミンだけだ。そう思って焦ると、何かに躓いて私は思いきり体勢を崩した。踏ん張ってももう遅い。私はそのまま、腕を前にして地面へと倒れ込む。
「痛っ」
「ふぇ……」
 肘をすりむいたらしく、わずかな痛みが走った。と同時に近くで声が聞こえて、私は急いで顔を上げた。いた、すぐそこ。たぶん泣き声の主だ。私が躓いたのはその子が落とした木のおもちゃらしい。座り込んだ子どもの前に、それらは放り出されていた。私は痛みを堪えて上体を起こす。
「君、名前は? お父さんは? お母さんは?」
 その子の傍まで這い寄ると、私はその小さな頭を撫でた。けれども泣きやむ気配はなくて、どうしようかと躊躇う。この子を置いては行けないけれど、だからといって抱いて走る自信はなかった。もう私にはそんな力は残っていない。
「ミン……」
 心細くなって、私はその名をつぶやいた。ミンはどこへ行ってしまったのだろうか? もう傍にはいないのだろうか? 私のことを気にかけてくれたのだと信じてたけれど、思い上がりだったのかもしれない。急に不安になって、私は強く唇を噛んだ。
 でもこのままではいられない。戸惑ってばかりではいられない。私は泣きわめく子どもの頭を、そっと抱きかかえた。火の手はまだこの辺へは来ていないみたいだけれど、それがいつまで続くのかはわからなかった。おそらく時間はないはずだ。
「え?」
 その時だった。突然耳をつんざかんばかりの、動物の吠える声が聞こえてきた。いや、これはミンの声だ。鳴き声の方へと目を凝らしてみれば、熟した実のごとく輝く瞳が、灰色の世界に浮き立っていた。私は子どもを無理矢理抱え上げると、よたよたとそちらへ近づいていく。足がもつれて、今にも倒れそうになった。一人だったら踏ん張りきれずに転んでいただろう。でも今、私はそうではない。
「ミン、ねえミン。何をそんなに吠えているの?」
 傍まで寄ると、ミンが空を見上げていることがわかった。その視線につられるように、私もおそるおそる上を見上げた。もちろん煙のせいで何も見えはしなかった。ひたすら灰色の世界が続いているだけだ。
「……あれ?」
 だけどかすかに感じた違和感に、私は間の抜けた声を上げた。今、確かに懐かしい感触があった。空を見上げようとした頬に、ぽつりと当たった冷たい感触。
「――雨?」
 最初は一粒だけ、けれども次第にはっきりとわかる頻度で、それは私の顔へと降り注いできた。
 雨だ。皆が待ち望んでいた雨だ。全て煙だと思っていたその一部は、空にかかった重たい雲だったのだ。いつの間にか広がっていた雲だったのだ。そこから今、堪えきれなくなった涙のように大粒の雨がこぼれてきている。
「雨だ!」
 腕の中の子どもが顔を輝かせた。するとどこからか呼応するように、喜びの声が聞こえてきた。雨だ、雨だ、雨だ。待ち望んだ雨だ。雨が降ったぞ、と。
 するともう一度、ミンが空へ向かって吠えた。私はミンの傍に座り込むと、同じように空を見上げた。焦げ臭いにおいも、全てが雨の中に溶け込んでいく。それは、見る見る間に土砂降りになった。今で溜め込んできた分を、全てぶちまけようとしているみたいだ。
「嘘みたい」
 あれだけ降らなかった雨がこうもあっさりと降ってくると、誰が想像しただろうか? 重くなった服は体にまとわりつき、髪も首元に張り付いてきた。でも私は子どもを抱いたまま、その場に座り込んでいた。たぶんもう当分は動くことはできない。
 雨のおかげで煙が落ち着いていったためか、次第に辺りの状況がはっきりとしてきた。私がいるのは、丁度村の端にある井戸の辺りだった。よく見ればその周りには、呆然とした顔の大人がぽつりぽつりと、ただその場に立ちつくしている。名前は知らないけれど、どこかで見たことのある顔ばかりだ。
「あっ!」
 すると腕の中から声が上がった。その小さな指が差す方へと目を向ければ、駆けだしたミンの後ろ姿が見えた。その速さは、私と連れてきてくれた時とは比べ物にならないものだ。名前を叫ぶ暇さえなく、ミンは山の中へと消えていく。
「ミン……」
 私はそれを見送りながら、小さくつぶやいた。まるで全てが、幻のような状況だった。そんな中漏れた頼りない声は、降り続ける雨の音にかき消される。それをいいことに、私は瞳を細めて付け加えた。
「ミン、アフタルをよろしくね」



 降りしきる雨を、私は格子越しに眺めていた。雨期に入った今年も、またよく雨が降る。空に川でもあるのかと思わせるその降り方に、思わず頬は緩んだ。この雨独特の匂いが好きだ。地面で跳ね返る雨粒も、その感触も好き。
「メースィ様」
 するとおずおずと近づく気配があって、背後から声がかかった。格子に触れていた手を離して、私はゆっくりと振り返る。
「おはよう、テンモ。いつもありがとう」
「いえ。メースィ様は雨がお好きなんですね」
 傍に寄ってきたのは今年十を数えるという少女――テンモだった。この屋形で働いている子どもの一人。彼女は白い布をかぶった恰好で、小さな盆を手にしていた。その上には茶色の瓶が二本、静かに載せられている。そこには神にお供えするための、甘い香りのする水が入っていた。
「そうね。私は雨に殺されそうになって、雨に助けられたんだもの」
 その盆を受け取ると、私はほんの少し肩をすくめた。同時に揺れた耳飾りが、甲高い音色を奏でていく。
 雨乞いのために生け贄にされそうになってから、もうどれくらいの月日が流れたのだろう。あの頃と中身はちっとも変わらないけれど、その立場はがらりと変わってしまった。私が巫女として崇められているだなんて知ったら、アフタルはどう思うだろうか。
「違います、メースィ様が雨を連れてきてくださったんです!」
 すると手が自由になったテンモは、必死の形相で小さな両手を天へと伸ばした。その姿が可愛らしくて、私は思わず瞳を細めた。テンモを始め子どもたちは、皆私にとっては宝物のようだ。
 あの雨は私を死へと誘い、けれど結局は私や、村を助けた。それを奇跡と呼ぶべきか、今も私にはわからなかった。火事に襲われた村を助けるために、日照りが続いたと考えるのか。日照りが続いたため火事が起きたのだから、それは単なる雨の気まぐれと捉えるべきか。
 たぶんどうとでも考えられるだろう。だから人々は、自分たちに都合良く解釈することにしたようだった。すなわち火事のために雨は蓄えられて、それを連れてきてくれたのが私――神の使いであると。
「皮肉よね」
 テンモには聞こえないよう小さく、私はつぶやいた。そんな素晴らしい神なんてあの山にはいないのだ。いるのは孤独の中で暮らしている、気高い女性と、心優しき生き物だけ。そこにあるのは穏やかな暮らしばかり。
 そんな彼らをさしおいて自分が神の使いだなんて、笑ってしまいたかった。けれどもそれでも私は、この役目をすんなりと受け入れていた。だって私がいれば、あの山は侵されずにすむのだから。彼らの幸せは守られるから。
「メースィ様」
「なあに? テンモ」
「私も雨が好きです」
「そう?」
「だってメースィ様と同じ香りがするから」
 にこにこと笑うテンモを見下ろして、私は口角を上げた。白い絹に身を包み髪を結い上げた私は、テンモから見れば見事な巫女様なのだろう。そう、あの時私がアフタルを見て、神の使いだと思ったのと同じ。そこにある差はほんの少しなのに、それを大仰に捉えている。
「ありがとう」
 アフタルとミンは、今もあの山にいるのだろうか? 慣れ親しんだ場所で、幸せに暮らしているのだろうか?
 盆を手にしたまま、私はまた格子から外を眺めた。彼らとは違う道を選んでしまったけれど、でも今なら少しはその気持ちがわかるような気がする。思い違いかもしれないけれど、でもたぶん同じものを抱えていたはずだから。一時のことだったけれど、友だちになれた気がしたから。
「一緒にいられなくて、ごめんなさい」
 私は何かに誘われるように、そっとそう囁いた。そして不思議そうに見上げてきたテンモに向かって、取り繕うように微笑みかけた。
 雨の音は止まない。それでも不意に、山からミンの遠吠えが聞こえたような気がした。私はそれに応えるように、格子の外へと真っ直ぐ手を伸ばす。
「天の、山の恵みね」
 私はそっと、瞼を閉じた。手のひらで跳ねる雨には、かすかにあの山の匂いが混じっていた。

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