「落とし物」

「チャローチャロー、ご飯だよー」
 睦美ちゃんの呼ぶ声が聞こえて、うとうとしていた僕は目を覚ました。
 今日みたいに天気がいい日は、二階でゴロゴロするのが僕のモットー。でもご飯の時間は別だった。
 階段を駆け下りると、僕はテトテトと廊下を急いだ。チャロチャローと呼ぶ睦美ちゃんの声が、居間から何度も聞こえてくる。
 この名前を付けてくれたのは睦美ちゃんだ。拾われた時に僕は泥だらけで、それを見た睦美ちゃんがチャロだチャロだと呼び続けたから。
 その時はまだ子猫だった僕と同じで、睦美ちゃんもまだまだ小さかった。でもそんな睦美ちゃんの言い方がカワイイからと、あっさり僕の名前は決まってしまった。
 実際の僕は白地に黒ブチだったりする。茶色なんてどこにも入っていない。
「ほらチャロ、安くなってたからってお母さんがおいしいの買ってくれたよ!」
 居間では睦美ちゃんが待っていた。その足下の皿には、山盛りのキャットフードが入れられている。僕専用の黄色い皿は、いつも焦げ茶色で埋め尽くされるんだ。
 僕は皿に近づくと、一度ニオイを嗅いでからキャットフードを観察した。日の当たる窓際で、それは輝いているようにも思える。
 でもこういう時は要注意。睦美ちゃんは嘘吐かないんだけど、時々お母さんは僕を騙すのだ。
 もしかしたら店の人に誤魔化されてるのかもしれないけれど、それは僕には関係ない。酷い味だと食べられないから困るだけだ。
 僕は拾われてからずっと無添加育ちなのだ。変な物が入っているとすぐに分かってしまう。
「いーっぱい食べてね!」
 学校が休みの睦美ちゃんは、僕を横目に笑顔のまま台所に向かった。きっと睦美ちゃんもご飯の時間なんだろう。そっちからは別の匂いも漂ってきている。
 すぐ傍の窓は半分だけ開いていて、そこから気持ちのいい風が中へと吹いていた。ぼくはそれを浴びながら、お行儀良く座って外を見る。
 そろそろ来るんじゃないかという予感があった。ここ数日ずっと雨続きだったから、もうすぐじゃあないかと。
 いた、博士だ。
 予想通り、高い塀の上には澄まし顔の博士が立っていた。白地に茶ブチ、といってもほとんど茶色みたいな姿の博士は、僕と違って厳しい世界で生きる野良猫だ。
 すごく物知りで、この近くの猫達はみんな博士って呼んでいる。もちろん僕もそうだ。
 たまにお腹が空いてどうしても我慢できなくなると、博士はこうして家の前にやってくる。寒い日にふらふらと迷い込んできた博士を、僕が助けたのがその始まりだった。
 人間で言えばもう立派にお爺ちゃんな博士は、最近は顔を見せることが多かった。昔より足腰が弱ってきていて、雨だとご飯にありつけないらしい。
「博士ー、お昼ご飯が来たよ!」
 僕は急いで窓に近づくと、いつものように尻尾を立てて合図した。すると博士は塀から飛び降りて、庭の中を駆け抜けてくる。そして器用に網戸を開けた。
 野良を続けた博士が身につけた、自慢のワザなんだそうだ。僕も覚えたいと何度言っても、まだ駄目だと許してもらっていない。
 博士は家の中に入ると、そこにある足拭きタオルに足を擦りつけた。僕専用のはずなんだけれど、博士が使っていることの方が多い気がする。
 博士は器用に網戸を閉めると、僕へと向き直った。
「チャロ君、いつもすまないな」
「食べきれないくらいのご飯だからいいよ。僕、お父さんみたいになりたくないし」
 博士の申し訳なさそうな顔を横目に、僕は瞳を閉じた。食べ過ぎの猫も病気になるんだと、前にお父さんが睦美ちゃんに注意していた。
 そう言うお父さんは、実はもう少しでその病気になるところらしい。メタなんとかは怖いとか、いつも呟いている。お母さんにもよく叱られていた。
「君はいつも賢明だよ、チャロ君」
「博士が色々と教えてくれるからねー」
 僕は誰かが近付いてこないようにと、辺りを警戒し始めた。
 博士のことは睦美ちゃん達には内緒だ。知らない猫がいると、きっと追い出されてしまうだろう。さすがに二匹飼うのは無理だと、前に話していたのをよく覚えている。
 僕が慎重に周りを見張っていると、博士は一心不乱にキャットフードを食べ始めた。よっぽどお腹が空いていたみたいで、すごい勢いだ。
「何日食べてなかったの?」
「覚えていないな」
「それだけ食べてないってことだよね」
 野良は大変なのだよ、と博士はいつもぼやいていた。冒険話もよく聞かせてくれた。
 でも最近は物忘れが酷くて、同じ苦労話を繰り返すようになった。僕は他のももっと聞きたいのに、夏になってからは一つの話しかしてくれていない。
「家猫はいいね、チャロ君」
「博士も誰かに拾われればいいじゃない」
「この年でそれは無理だよ。それに私は怪我ばかりをする、迷惑猫だ」
 皿から離れた博士は、遠い目をして窓から空を見上げた。まずい、これはいつもの話が来る前触れだ。思い出に浸る時の合図なのだ。
 僕は慌てて別の話題がないかと考えた。何でもいい、博士の気を引けるものならどんなものでもかまわない。
 だけどそれを口にする前に、思い出話は始まってしまった。しみじみとした口調で、博士はまた語り始める。
「私が昔、大きな自転車とやらに撥ねられたのは知っているね? チャロ君」
「……何度も聞いたよ」
「あれから私の生活は変わってしまった。私はあらゆる物を失ってしまった。記憶もなのだよ。それがどれだけ苦しいことか、君には分かるかい?」
「残念だけど分からないなあ」
 博士はよく道端で、やたらといろんな物に撥ねられている。多いのは自転車で、あとはすごく小さな車やよく分からない乗り物なんかもあった。
 それでもちょっとした怪我ですむのが、博士のすごいところだった。ただその事故だけが酷かったらしい。
「私と一緒に娘達がいたというんだが、私は覚えていない。悲しいことに全く覚えていないんだ。撥ねられた時に頭を打ったのかもしれない。気付いたら私は独りだったんだよ、チャロ君」
 博士は独り言のようにそう続けた。記憶を失った博士は、目覚めた時には空き地で横になっていたらしい。
 半分土が被っていたというから、ひょっとしたら死んでいると思われたのかもしれない。
 きっと可哀想に思った子供が、埋めようとでもしてくれたんだろう。全部埋められなくて本当に良かった。
「娘は亡くなったらしいと、後で近くの家猫が教えてくれた。私は記憶と同時に、家族を失ったんだ。嗚呼、綺麗な白毛の美しい娘だったと、話ばかりは聞くのに」
 物知りな博士に足りないものは娘の記憶。それがとても悲しいことだってのは、僕もよく分かっている。
 だけど、その話を数え切れない程聞かされる身にもなって欲しかった。僕はどんどん気が重くなってくる。
「ねえ博士、それが辛いことだってのは分かるけど。だったらなおさらあの道を歩くのは危ないんじゃない? また記憶を無くしちゃうかもよ」
 何度も撥ねられたことがあるというのに、その道を博士は今もよく歩いている。僕と会ってからは止めていたのに、最近また歩き始めたみたいなんだ。
 危険だよと止めれば頷いてくれるのに、また次の日には行ってしまう。
 もしかしたら前の日の約束を忘れているのかもしれない。このところ物忘れはどんどん激しくなっているし。
「そうだな、確かにあの道は危険だ」
「でしょう? ほら、最近雨が多いし。だから博士、あの道には行かない方がいいよ」
「うむ、そうだな」
 このやりとりも何度繰り返したことか。ひょっとしたら睦美ちゃんのお婆ちゃんと同じで、アルツなんとかなのかもしれない。
 もしそうだとしたら大変だった。博士は野良猫だから、入院はもちろん通院もできない。させてもらえない。
「だがな、チャロ君。私はあの道に行かねばならないのだよ」
 でも今日の博士はいつもと違った。普段はそうだなの一言で終わるのに、博士は尻尾を振るともう一度窓の外を見た。
 さっきまで青空だったはずなのに、いつの間にか暗い雲が張り出してきている。今日も雨が降るのかもしれない。あの日を思い出すから、僕は雨が嫌いだ。
「どうして?」
「私は孫を捜さなければならないんだ」
 博士が神妙な顔でそう言うから、僕は目を逸らして尻尾を丸めた。それで必死なのかと、納得すると同時に悲しくなった。
 どんどん博士の中で、時間が逆戻りしているみたいなんだ。僕がその孫だってことも、思い出したはずなのにまた忘れてるんだから。
「娘は亡くなったが、孫は人間が病院へ連れていったらしい。そう知り合いが言っていた。私はせめて、その孫だけでも捜しにいかなければ。きっと寂しい思いをしているだろう。可哀想に」
 確かに僕は、今すごく寂しい。偶然再会した僕らの記憶が、どんどん消されてしまっている。それでもチャロという存在を忘れていないのが、すごく不思議なんだけれど。
 ねえ、博士。僕はここにいるから、もう捜さなくてもいいんだよ。だから危ないところには行かないで。
 もう何度も口にした言葉を、僕は声に出さずに繰り返した。
 今そうやって説得しても、きっと数日もたてば博士は忘れているだろう。だったら僕に出来ることは一つしかなかった。
 博士がまた事故に遭わないようにと、祈ることだけ。
「なあ、チャロ君」
「なーに?」
「孫は本当に生きているんだろうか。私は時折不安になるのだよ。もう、二度と会えないのではと……」
「大丈夫だよ、博士。きっと元気にしてるよ。だからまた会えるよ博士」
 僕は尻尾を立てて博士に擦り寄った。博士はそんな僕を見下ろすと、目を瞑ってゴロゴロと喉を鳴らした。
 今度は僕が、こっそりその道に出かけようかな。もしかしたらそこには、博士の記憶が沢山落ちているのかもしれない。

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