「雨音に包まれてひとり」

 昨日も今日も雨が降る。カーテン越しに見えるのは地上へと落ちそうな重たい雲ばかりで、彼女は太陽の姿をしばらく見ていなかった。
 屋根で弾かれる滴が奏でる音を、彼女はベッドの上で膝を抱えたまま聞く。はじめは鬱陶しかったそれも、今はどこか異国の楽器が奏でる旋律のよう。跳ねる、落ちる、跳ねる、また跳ねる、落ちる、落ちる、跳ねる。目を瞑ったまま耳を澄ますと、彼女の世界すべてを雨が支配した。
 その方がいい。ここには誰も来て欲しくない。
 彼女はパジャマの裾を握りしめていっそう強く身を縮める。雨は誰よりも優しい。彼女がなにを思ってもなにを叫んだとしても文句を言わないどころか、誰にも聞こえないようにと包み込んでくれる。きっと母の中で聞いていた音は、この旋律に似ていたのだろう。
 昨日も今日も雨が降る。時にしとしとと、時にざーざーと、時にぽつぽつと雨は降り続ける。
 このままずっと止まなければいい。いっそ大洪水にでもなってあらゆる物を押し流してしまえばいい。それが浅はかな願いだと分かっていても、彼女はあきらめずに強く祈り続けた。
 力を込めすぎた指先の感触がいつの間にか無くなりかけている。目を開ければ病的に白くなったそれらが、さぞ痛々しく見えることだろう。しかし彼女はそうすることなく膝を抱えていた。今は雨音だけを聞いていたい。他は何も感じたくない。
 その優しい旋律を乱す音が現れた。ひたりひたりと忍び寄る恐ろしい気配。階下から聞こえてくる重たい足音が、まるで地獄の呼び声のように床や壁を伝ってくる。
 少しずつ近付いてくるそれから逃れようと、彼女は身体を硬くして耳を塞いだ。それでも振動は徐々に強くなる。布団に潜り込みたい衝動と戦いながら彼女は必死に息を殺した。
 とんとんと叩かれる扉。彼女は声一つ発することなく、気配が去るのをひたすら待ち続ける。とんとん、とんとんとん、どんどん、どんどんどんどんどんどんどんドンドン。震える身体を抱きしめて彼女は嗚咽を堪えた。
 ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン。
 静かな雨音を打ち消すように、狂った機械のように何度も扉が叩かれる。それでも反応しなければ諦めることは分かっていた。いつしかこの音は止み、また雨が彼女を迎え入れてくれる。
 ドンドン、どん、どん、どん。扉を壊しそうな強い振動を残して、それは止まった。微かに聞こえた舌打ちのあと今度は気配が遠ざかっていくのが分かる。苛立ちの込められた足音が弱くなるのを感じながら、彼女はふぅと息を吐いた。
 もう大丈夫、彼女と雨の間に入るものは無い。パジャマの裾をそっと離すと彼女はゆっくり顔を上げた。何日も洗っていない髪が腰のあたりで揺れ、シーツの上をなでていく。
 思わず溜息が漏れた。まだはっきり像を結ばない中でカーテンの隙間から見えたのは、灰色の雲から顔を覗かせた夕日だった。
 雨が行ってしまう、優しい旋律が消えてしまう。彼女は緩慢な動きでベッドを離れると、足をもたつかせながら窓へと近付いた。誕生日プレゼントにとあの男がくれたぬいぐるみを蹴散らし、冷たい窓ガラスに手をつく。
 跳ねる、また跳ねる、落ちる、跳ねる、落ちる、跳ねる、跳ねる、落ちる。雨滴の軌跡を目で追いながら彼女は唇を噛む。優しい旋律が消えたらまたあの男の声が聞こえる、そう思うだけで吐き気がしてきた。物静かな母はどうしてあんな男を選んだのか。
 赤く腫れた左手首を見下ろしてから、彼女は再び目を瞑った。雨が止んでしまう前にせめて学校が始まってくれたならば、部活だの受験勉強だのといくらでも言い訳が出来るのに。
 瞼越しに感じる茜色の光が憎かった。男の手を思い出す自分も憎かった。彼女は身を震わせると両腕を抱き、また雨音に耳を澄ませる。
 ぽつぽつぽつりぽつり、ぽつり。優しい音色はまだ続く。

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