「おたより」

 遠くで遊ぶ少年たちの声がいつの間にか聞こえなくなっていた。何時になったんだろう? 固く閉じていた瞼を開けると、ぼやけた視界にかさついた膝が映る。背を丸めていたせいか体も強張っている。肩が重い。
 仕方なくのろのろ顔を上げようとした途端、草の匂いを含んだ風が乱暴に髪を煽った。人気のなくなった公園の隅で、私は膝を抱えたまま小さく体を震わせる。
 瞬きをしながら辺りをうかがうと、ほとんど日は沈みかけていた。寒い。昼間はよくてもこんな時間にもなると、やはりそれなりに冷え込む。そこは北国の春だ。セーラー服の袖を指先で掴み、私は首をすくめた。髪が長かった頃ならマフラーの代わりになるんだけど、先日切ってしまったのでそうもいかない。熱を失った土が、太陽を遮ってくれていた木々が、私の体温を奪おうとしている。
「帰ろうかなあ」
 そう呟きながら、でも立ち上がることができなかった。ぼんやりしているとすぐに先ほど見た光景が頭をよぎり、胸を鷲掴みされたような感覚に襲われる。
 強く唇を噛んで私はその痛みをやり過ごそうとした。どうということはないのだと、傷つくようなことではないのだと、自分に言い聞かせて涙を堪える。口の中にじんわり広がる鉄の味がそれを助けてくれた。
 ふられたのだと、誰かにそう言えたら少しは楽になるだろうか。でもそれを口にする資格はなかった。少なくとも私にはそう思えた。あまりにも馬鹿馬鹿しい話だから、親にはもちろん言えないし、友だちとの笑い話の種にもできない。耐え切れずにこぼしたむなしい独り言だけが、風に乗って流されていく。
「帰りたくないなあ」
 私は相川が好きだった。中学時代は何も思っていなかったはずなのに、いつの間にか好きになっていた。きっかけも覚えていない。気づいたら目で追っていて、くだらない話をするだけで喜べるようになっていた。相川がいるというだけで、どうでもいい行事も楽しかった。
 でも中途半端な交友だっただけに、何も言わずにここまで来てしまった。卒業する時には告白すべきか、それともそこまで待たずに動くべきか。そんなことをぼんやりと思っているくらいで、好意をほのめかすようなこともしていなかった。友達は多いけどなかなか彼女ができない彼に、安心していたところがあったのかもしれない。今の関係が続くような気がして甘えていたのかもしれない。
「馬鹿よねぇ」
 私は両腕を抱え、引き攣った笑みを浮かべた。部活が突然なくなってたまたま早く帰ろうとしていなかったら、あんな光景を見なくてすんだかもしれない。そう考えている自分が情けなくて苦しい。こんなところに座り込んでいる自分が弱々しくて嫌いだ。
 今日、相川が告白されていた。相手の顔に見覚えはなかったけど『相川先輩』と呼んでいたから部活の後輩あたりだろう。背が小さくて可愛らしい、素直そうな子だった。ちらりと見ただけでもそう思える愛くるしい顔立ちをしていた。正直、相川にはもったいない。
 だから私は彼の返事を聞かなかった。怖くて聞けずにその場を飛び出してきてしまった。気づかれてはいないと思う。唸るような強い風の音が、全てを掻き消してくれたと思う。だけども問題はそこではない。明日からどんな顔をして彼と話をすればいいのか、私にはわからなかった。
 何も知らない振りして、今まで通り挨拶できるだろうか? もし告白の話が出てきても動揺せずにいられるだろうか? 返事を聞いておけばよかった。それなら結果がどうであれ、時間さえあれば落ち着くことができたのに。
 等間隔に植えられた木を風が揺さぶり、葉のざわめきが公園に満ちる。遊具もない奥まった小さな広場など利用する人はなく、昔はよく子どもたちの隠れ家にも利用されていた。小さな丘がその先に広がっているので、後ろから丸見えってこともない。でも少子化が進んだ今となっては、こんな場所を訪れる人はいなかった。せいぜい遅刻しまいと抜け道の一つとして使う生徒がいるくらいだ。
 だから今でも、私は逃げたくなった時にここへとやってくる。泣きたい時、落ち込んだ時、怒りが収まらない時、落ち着くまでの時間をここで過ごす。今日もそうするつもりだった。なのにいっこうに立ち直る気配もなく、日が暮れようとしている。
 いつになったら成長するんだろう。鼻をすすって私はかぶりを振った。十七歳というのはもっと大人だと思っていたのに、全然子どもの頃と変わらない。手に入れる努力もせずにいたものが遠ざかっただけでショックを受けるなんて、どう考えても馬鹿だ。冷たくなった髪が頬へかかるのも気にせず、私はまた膝を抱える。決定的なものは何一つないのに、渦巻く思考は景気並みに沈みゆく一方だ。
 途端、木々の葉が一斉にさざめいた。いっそう強い風が吹き、頭へと冷たい何かが落ちてくる。思わず間抜けな悲鳴を上げた私は、飛び跳ねるように立ち上がった。けれども何のことはなく、それはただ水の滴だった。その後も数滴落ちてきて、セーラー服に幾つか染みを作る。今朝のにわか雨のせいだろう。まだ残ってるなんて。
 無性に腹が立った私は、立ち上がると背後にある木をねめあげた。先ほどまでは日差しを遮ってくれたありがたい存在だったのに、今は迷惑の元凶でしかない。
「ちょっと、びっくりさせないでよね」
 私は幹を軽く蹴った。木の枝からどっと水滴が降り落ちてきて、癖のある髪を濡らす。すり減ったローファーの底から鈍い振動を覚えるのも、今は何だか心地よかった。これくらいの痛みが何だっていうのだ。嫌な笑みを浮かべている自覚はあったけど、私はかまわず踵を返した。
 これ以上ここに居ても駄目だ、落ち着くどころではない。そろそろ夕飯の時間だし、お母さんが心配しないうちに帰った方がいいだろう。部活で疲れたとでも言っておけば、元気がないのはきっとはぐらかせるはずだ。よくそう言ってるし。
 所々抉れた地面を踏みしめて、私は大股で歩きだした。すっかり冷たくなっただろう自転車のことを思うと若干気が重い。それでも今朝のようなにわか雨がないだけましだろうと考えることにして、歩きながら制服についた土を払い落とした。既に地面は乾いていたから、さほど苦労しなくとも砂がぱらぱらと落ちていく。
「おい、そこの娘」
 そこで、呼び止める声があった。老人のものにも子どものものにも聞こえるような、どこか不安定な声質。それが風音にも負けず、すぐ傍から私の鼓膜を震わせた。目を見開いて慌てて振り返ったんだけれど、でもそこには誰もいない。何度も瞬きしてみても、人の姿は見あたらなかった。細い木の陰にも気配はなくて、自然と体が震え出す。――まさか幽霊? この公園に出るなんて噂は聞いたことないのに。
「どこを見ている、娘」
 すると今度は右手から声がした。脈打つ鼓動を意識しながら、私は怖々とそちらを見る。そこには、確かに何かがいた。誰かではなく何かだった。手のひらくらいの大きさの人型の何かが、風をものともせず浮かんでいる。
 一応、男だろうか。茶色い三角帽子に緑の服らしき物を身につけている。波打つ桃色の髪は小さな背の中程まであり、肌は小麦色だった。その背から左右に伸びているのは二対の玉虫色の羽。風に流されそうになるとそれがかすかに縮み、羽ばたき、縮み、微妙なバランスを保っている。
 この特徴だけなら妖精とでも表現したいところだけど、生憎その顔がそれを許してくれなかった。彼は厳つい老人が苦虫を噛みつぶしたような、そんな表情をしていた。思わず声を失うほどの迫力だ。
「おい、ちゃんと聞いているのか娘?」
 その小さい何かは桃色の眉をひそめた。私は一度大きく頷くとぼんやりと周囲を見回す。これは夢だろうか? もしかして現実ではないのか? 相川が告白されたのも夢の中の話で、全ては私の不安が生み出した幻なのだろうか? 確かめるべく頬を叩こうと手を上げると、小さい何かはそれを阻むように咳払いする。私はもう一度その何かの方を見た。
「私はさわやか公園に住む木の精だ」
 余裕と自信を滲ませた名乗り声に、とりあえず私は首を縦に振った。そういえばそんな名前の公園だったなと、記憶の中の看板を思い出す。年季の入った物らしく、錆び付いた上に肝心の文字がかすれていた。でもさわやかとかろうじて読めた。
「聞いているのか娘」
 もう一度小さい何か――木の精らしい――が問いかけてきた。聞いてはいるが信じたくないだけだと、私は胸中で答える。この目の前にいるのが木の精だなんて嘘だ。精霊を名乗るならもっと見目にも気を使って欲しい。その羽に見合う顔立ちやら表情やら、どうにかできるはずだ。少なくとも後者なら人間にだってどうにでもなる。
「なに、驚いて声も出ないのか?」
 自称木の精は得意げに鼻を鳴らした。間違ってはいないが、こう自慢げに言われると若干イラッとくる。絵本や童話の中なら、絶対こんな精霊は出てこない。悩み事を抱えた女の子の前に現れるのは、もっと愛らしい存在だ。これが私の現実逃避の世界だとしたら、きっとそうなっている。
「こういう時って、普通は可愛いタンポポの精とかそういうのが出てくるんじゃないの?」
 でもまさか思ったことをそのまま言うわけにもいかず、私はそう答えていた。そうだ、木の精とか大まかな存在だからきっとこんな姿なのだ。桜だったらもっと儚い感じで、梅だったら凛とした顔立ちに違いない。タンポポならたぶん愛らしいだろう。色んな物が混ざっているからこんな風になるのだ。そう考えて納得していると、木の精は渋い顔をさらに曇らせた。
「夢見がちな娘だな。だが足癖が悪い」
 彼の嫌みっぽい口調に心臓が跳ねた。すごく、嫌な予感がした。この木の精が何故こんな表情をしているのか理解できたような気がした。顔が引き攣りそうなのを自覚していると、木の精の羽がゆらりと動く。
「まったく、最近の娘は躾がなっとらんなあ。私の体を蹴りつけて平気な顔をしているなんて、謝罪の言葉もないなんて、どんな風に育てられたらこうなるのか」
「ご、ごめんなさい……」
「今さら謝ってすむ問題ではない!」
「じゃ、じゃあどうすればいいのよ?」
 こんな妙な木の精に呪われるのはごめんだ。何をどうすれば機嫌を直してさっさといなくなってくれるだろうか? これ以上冷え込む前に帰りたい。風邪をひく前に家に入りたい。
「ふむ」
 すると木の精は右の口角を上げた。その言葉を待っていましたと、そう言わんばかりの顔つきだった。しまったと思ったものの時既に遅し。この精霊、どこをどう見ても性格が良いようには思えない。絶対に何か企んでいる。
「よし、罪滅ぼしの機会を与えよう。お前さん、確か華奢な乗り物に乗っていたな?」
「華奢な乗り物?」
「ほれ、あちらに置いてある」
「……それって自転車のこと?」
 木の精は大仰に頷いた。私の中で、ますます嫌な予感が膨らんだ。自転車を使ってとなるとどこかへ連れて行けとかそんな話だろうか? この木の精なら無茶な要求をしてきてもおかしくない。冷え切った背中を汗が一筋流れていく。
「それを使ってこの手紙を隣町まで届けて欲しい」
 突然木の精の腕の中に、巨大な葉っぱが現れた。いや、巨大だと思ったのは妖精と比べてしまったからで、普通の葉と比べて特別大きいわけでもなかった。木の種類までは特定できないけれど、でもたぶんこの公園の中にあるものだろう。まさかこれが手紙だろうか?
「これを届ければいいの?」
「隣町にあるわくわく公園までだ。お前さんもこの辺に住んでいるなら行ったことくらいあるだろう?」
 また自信たっぷりに木の精が言う。届けるだけなら自分一人で行けばいいのにという言葉を、私はすんでのところで飲み込んだ。さらに機嫌を損ねられては困るから余計なことは言わない。わくわく公園までならそこまで時間はかからないだろう。しかも家の方向と真逆ってわけでもないし。
「届けるだけでいいのよね?」
「そうだ」
「わかった」
 何度も頷く木の精に、私は素直にそう答えた。何かをしている方が無駄なことを考えなくてもいい気がするし、気分転換にはちょうどいいかもしれない。できる限り前向きに考えることにして、私は言う通りにすることに決めた。すると風に流されるように近づいてきた木の精が、セーラー服の袖にしがみついてくる。
「……ちょっと、もしかしてあなたも行くの?」
「もちろんだとも。私がいなければ誰に渡すかもわからないだろう?」
「それはそうだけど、ここに居なくてもいいの? ――移動できるなら一人で行けばいいのに」
「乗り物がなければ時間がかかるのだ」
 木の精は再び鼻を鳴らした。どうやらもうしばらくこの腹立つ精霊と一緒にいなければならないらしい。さわやか公園の木の精って言うから、てっきりここを離れられないのかと思ったのに。
「私が一緒では嫌か? わかりやすい娘だな」
「そ、そんなことないから! ただ振り落とされたって私は知らないからね」
「心配するな。こう見えても腕の力はある」
 右腕によじ登ってきた木の精は得意げに笑った。ため息を吐きたいのを堪えて、私は自転車の方へと向かった。



 葉っぱにしか見えない手紙を鞄のポケットへと仕舞って、私は隣町へ自転車を走らせた。何だか懐かしい。小学生の頃はよくこうしてあちこち冒険に出かけたというのに、最近は街に出かける際に電車で通りかかるだけだった。でも月が見えるような時間に遊びに行ったことはなかった。こんな田舎でも不審者は出るのだと、お母さんがうるさかったから。
 風が気持ちいいのは体を動かしているからだろう。セーラー服が、髪が、向かい風に煽られてバタバタと音を立てる。腕に掴まっている木の精も、洗濯物よろしく大きく揺れている。薄暗い中で玉虫色の羽が描く軌跡は、夏の花火を思わせた。
 黄昏の細道には独特の寂しさと怪しさがある。その中を、錆び付いた自転車のタイヤ音が真っ直ぐ突き進んでいく。切れかけた街灯の瞬きと群がる虫の羽音が、現実と夢の境を曖昧にしていた。あの電柱の陰から口裂け女でも出てくるのではないかと、何故だかそんな気分になる。
 緩やかな下り道をしばらく行くと、ふと美味しそうなカレーの匂いが漂ってきた。突然の現実感に体が反応し、お腹が鳴りそうなる。どこの家だろう? 右も左も住宅ばかりだから出所がわからない。どこかに相川の家もあるのかな? 住所はこの辺りだった気がする。
 そんなことを考えてしまったせいか、またちくりと胸が痛んだ。でも気にしない振りをして私は自転車をこぎ続けた。今はこの不確かな世界の中に浸っていよう。時折玉虫色の光を目の端に入れて、私は現実逃避をする。明日のことを考えるとどうしても気が沈む。
 途中で犬を散歩させている見知らぬおばさんとすれ違い、部活帰りらしい中学生の横を通り過ぎた。誰もが悩み事なんてないって顔をしていたけれど、それでも私のように実は何か考え込んでいるんだろうか。今にもこちらに飛び出してきそうだったあの子犬さえも。
「もっと速くはならないのか?」
 とりとめのない思考に流されそうになっていると、腕にしがみついている木の精が急に文句を言ってきた。私は顔をしかめてその三角帽子をちらりと見る。せっかくその顔を見ずにすんでいたのに、声という問題もあったか。
「我が儘言わないでって。この自転車古いから無理しないようにしてるの。それにもうすぐ坂道なんだし」
 そう、この先には鬼のような坂が待っている。小学生にとってはいい競争の場だったけど、今の私にはただの障害物だ。どうせ上るなら下るなと、この道に言いたい。人を疲れさせるのが趣味なのか、それとも子どもたちの味方なのか。
「他の人間はぶーんと言わせてこんな道走り抜けていくぞ」
「それってバイクとかじゃない? これは人力なの!」
 中途半端な知識って最悪だ。そんなに速さを求めているのなら、他の人に頼んだ方がいいだろう。ああ、そんな人はあの公園には立ち寄らないか。だったら身の丈ってものを知った方がいい。だいたい一分一秒を争うならもっと早く声をかけるべきだ。丁寧に頼んでくれば私だって断ったりしないんだから。
「人間の理屈はよくわからないな」
 呆れたような言い草に、私はあえて反論しなかった。この木の精を相手にしていると疲れるだけだ。さっさと目的を果たして解放してもらおう。鬼の坂を目の前に私はさらに決意を固めた。ハンドルを握る手にも力がこもる。
 けれども予想通り、その坂はきつかった。ペダルが重い。ろくに教科書も入っていないはずの鞄が重い。ぜぇぜぇと息が荒くなり、額に汗が滲んだ。よろよろと進む自転車が時折無愛想な悲鳴を上げるも、労ってあげる余裕がない。だから木の精が肩までよじ登ってきても、私は文句を付けることもできなかった。体が熱いし喉の奥が痛い。こんな姿を見られたら大変だと、誰ともすれ違わないことを密かに祈った。相川と出くわすことだけは、それだけは避けたい。
「おい娘、頑張れ。さらに遅くなってるぞ」
 耳元で聞こえる木の精の声も無視。どう考えても運動不足がたたっている。相川と違って私は運動部員じゃない。体育だって苦手な方だし、高校に入ってからは休日だってろくに体を動かしていなかった。情けないけど事実だ。
「……押した方が早いんじゃないか?」
 これは、木の精の言う通りかもしれない。意地を張らずに素直に従うべきかもしれない。このままでは公園に辿り着く頃にはくたくたになっているだろう。閉まらなくなった口から、私はかすれ気味の声で返事した。
「そう、かも」
 自転車から下りると少しだけ呼吸が楽になった。長くて急な坂道を、私は自転車を押しながら歩き始める。冷え切ったアスファルトの上で、自転車のライトと街灯の生み出す影が不器用に重なった。見える物全てが徐々に色を失っている。そんな中、視界の端にある玉虫色の輝きだけが異質な光を放っていた。
 また体が小さく震えた。汗を風がさらっていったせいだろう。これは本当に風邪をひきかねないと、額に張り付いた前髪を気にしながら私は早足に自転車を押した。どうせだったら思い切り体調を崩して、明日は休んでしまおうか。そんな悪魔の囁きが聞こえてくる。
 大した距離ではないはずの坂道を必死に上っていると、途中で塾の鞄を持った中学生とすれ違った。また現実へと引き戻された私は、ひりひりする喉の奥へと唾を押し込む。硬い顔をしたあの子は札幌の高校にでも進学するんだろうか? 確かにその方が将来は明るいだろう。こんな町にいるよりはずっと。
 でもきっと私は親元を離れることはない。取り柄があるわけでも成績がいいわけでもない私が、高いお金をかけて札幌になんて行っていいとも思わない。この辺でバイトしながら自宅から通える大学か専門学校にでも行くってのが、せいぜいだ。それで、それでどうなるのか、なんてことは考えたくない。
 相川はどうするんだろう? 札幌に出るのかな? それとも東京? そこそこ家には余裕があるみたいだったから、私立も考えているのかもしれない。彼は私と違って一人っ子だから、後のことを気にする必要がない。ちっちゃな弟のことを考えなくてもいい。自転車へと視線を戻して私は瞳をすがめた。
「おお、坂道が終わるぞ」
 呑気な木の精の声が耳元で聞こえる。その言葉に嘘はなく、鬼の坂ももうすぐ終わりだった。目指している公園もそのすぐ先だ。私は自転車を押しながら少しだけ笑顔になる。
 わくわく公園は、坂の上にあるためかいっそう風が強かった。街灯の明かりがちらつく中を、私は目を細めながら一人とぼとぼと歩く。公園の中には案の定誰もいない。古ぼけたブランコが揺れているだけ。塗り直されることもない遊具たちはすごく寂しげに目に映った。
「到着したけど、誰に届ければいいの?」
 問いかけながら私は自転車のかごから鞄を持ち上げた。そして脇のポケットに手を入れると、葉っぱを取り出す。でもいくら待っても返事がない。眉根を寄せた私は、自分の肩、腕、手首を順に見下ろした。
「あれ?」
 あの口うるさい木の精は、いつの間にか居なくなっていた。まさか風に吹き飛ばされたんだろうか? 落っこちたんだろうか? 自転車を走らせていたわけでもないから、てっきり大丈夫だと思ってたのに。
「ちょっと待ってよ、どうするのよこれ!?」
 私は手紙と呼ばれた葉を持ち上げ、指先に挟むと街灯の明かりにかざした。これは予想してなかった。誰に届ければいいのだろう? やっぱりこの公園の木の精だろうか?
 何か手がかりはないかと葉脈に目をこらそうとした瞬間、不意に突風が吹いた。スカートが捲れあがる気配に慌てて裾を押さえると、癖のある髪が顔の前を覆い隠す。何も見えない。
「もうっ」
 目を瞑り髪を手櫛で整えた私は、大きく息を吐いた。そして、はっとした。指に挟んでいたはずの葉がない。今の一瞬ですり抜けていたらしく、その感触がない。慌てて周囲を見回すと、数メートル先にそれらしき葉っぱが落ちていた。ちょうど街灯の真下だったから目に付く。
「あったあった! よかった!」
 これをなくしたらあの木の精にまた何を言われるかわからない。安堵の息を吐き出して、手紙へと走り寄った私は両膝をついた。ひんやりとした土の感触にまた鳥肌が立つ。
「今年はあなたが持ってきてくれたのね」
 その時声が、唐突に聞こえた。強い風に掻き消されることなく私の耳元まで届いたそれは、すぐ真後ろから聞こえてきた。鈴のような高らかな音色なのに、聞き取りやすい安定感のある声だ。私はゆっくりと振り返る。
「……わくわく公園の、木の精?」
 そこにいたのは手のひらサイズの精霊だった。さわやか公園の木の精にも見習って欲しいと思うような、絵本にも出てきそうな見目だった。深い緑の髪を腰まで延ばし、焦げ茶色のシンプルなドレスを着ている。三角帽子もドレスとお揃いの焦げ茶色で、その先には赤いリボンがついていた。二対ある羽はやはり玉虫色をしているが、とにかく美人だ。涼しげな目元には知性が感じられる。
「まあ、そうとも言うわね。性格に言うと、イチイの木の精だけれど」
「あ、ちゃんと木の種類まである!」
「手紙を届けてくれたのでしょう? ありがとう」
 ふわふわと綿毛のような動きで近づいてきたイチイの木の精は、葉っぱの横へと降り立った。彼女が愛おしそうにその葉を抱きしめるのを見ていると、荒んでいた心も明るくなる。
「本当に嬉しいわ、ありがとう。でも今年も彼は出てきてくれないのね」
 くすくすとイチイの木の精は笑った。今年もという響きが気になって、私は思わず眉をひそめた。それってつまり、毎年こんな風に手紙を運んでるということだろうか? 
「もう今頃は戻ってしまったんじゃないかしら。ほら、あそこ。綺麗でしょう? 散り始めてしまったけれど」
 頼りない動きで浮き上がったイチイの木の精は、私の町の方を指さした。既に空は茜色というよりは紫から藍色へと染められていて、薄雲の端にも陽の名残はなかった。細い月も雲の隙間から顔をのぞかせているだけで、明かりとしての力には乏しい。そんな月のちょうど下に、あのさわやか公園があった。高台から見下ろす形になるので全体がよくわかる。
 私がいた広場のさらに奥にある小さな丘の裏に、何本か桜があった。すぐ側の街灯のおかげで、風に吹かれて散りつつある花びらまで浮き立って見える気がする。鮮やかなピンクが灰色の塀を背に、舞うようにひらりはらりと落ちた。あんなところに桜があるなんて気づかなかった。あの丘のせいで死角になっていたんだろう。そういえば子どもの頃に一度見たことがあるかもしれない。
「変な桜、って言われたのを彼は気にしていてね。それから会ってくれないのよ」
「……え?」
「たぶん、遠くから転校してきた子どもだったんじゃないかしら。ほら、彼は葉と花が同時に開くでしょう? 彼、それで拗ねてしまって」
 とても残念そうなイチイの木の精の話を聞きながら、私は桜をもう一度よく眺めた。風に揺れる枝の動きにあわせて、また花びらが一斉に舞い落ちる。あの今にも消えそうな街灯があるからこそ見える光景だ。そのやせ細った幹が、あの口うるさい木の精を思わせた。皆に忘れ去られた桜は日の光にも愛されていない。誰の目にも留まらない寂しい木だ。
「あんなに綺麗なのに残念よねえ。花びらを見つけられると探されるかもしれないからって、枝まで縮めちゃって」
 語る彼女の口調には慈しみが込められていた。そうだ、彼が誰にも見られていないなんてことはない。彼女はここからこうしてずっと彼を見ている。そして彼は、拗ねながらも毎年この時期に手紙を出す。実際に言葉を交わすことのない緩やかな関係が、確かに二人の間にはあった。
「すぐ自分を否定しちゃって、子どもみたいよね。あなたもそう思うでしょう?」
 そうイチイの木の精に問いかけられて、私はどきりとした。先ほどの自分が思い起こされて、背筋が伸びる思いがする。私のことも、誰かそうやって見ていてくれてるんだろうか? 期待してもいいんだろうか? わからない。それでも私が気づいていない繋がりというものは、きっとまだあるのだろう。
「ともかくありがとう。これでまた一年楽しく過ごせるわ。あなたも早くお帰りなさい」
 イチイの木の精に向かって私は首を立て振った。早く帰って暖まろう。夕飯を食べよう。それから、それから、相川にメールしてみよう。明日休んでも問題が先延ばしになるだけだから、それなら思い切って聞いてみればいい。手紙と比べて味気ないかもしれないけど、メールなら私にだってできる。今の私にもきっとできる。そんな気がした。
「さようなら」
 私は踵を返すと自転車へと走り寄った。先ほどの足の重さが嘘みたいに元通りになっていた。気持ちでこんなに変わるものらしいと、駆け寄りながらつい笑い声が漏れる。半分かごからはみ出した鞄を仕舞おうとしたら、その上にはいつの間にか桜の花びらが一枚乗っていた。それを指先で摘むと私は苦笑する。ありがとうのつもりだろうか。それならちゃんと言葉で伝えてくれればいいのに。
「って、あれ?」
 そうだ、私は木を蹴った責任として、手紙を運ばされたんじゃなかったっけ? 罪滅ぼしじゃなかったっけ? でもあの口うるさい木の精は、彼女の話ではどうやら桜の木の精だったみたいで……。
「桜って言いたくなかったから、公園の木の精を名乗ったってこと? でも、私が蹴ったのって桜じゃあなかったよね?」
 つまり騙されていた。ようやく全てを理解した勢いで、私は思わず桜の花びらを握りつぶすところだった。彼は私を都合良く利用したんだろう。たまたまあそこにいたから声をかけたんだろう。彼は怒った振りをしていただけだ。
「それって、ちょっとひどいんじゃない!? ああ、もう、しょうがないなー!」
 叫びながら私は笑った。笑いすぎて危うく自転車を倒してしまうところだった。大事なことを言わないのは、隠したままなのはやはりよくない。どんな形でも伝えなければ。
「今度はちゃんと会いなさいね」
 聞こえていなくてもかまわない。私はそう囁くと花びらを指先でつまんだ。淡いピンクのその端が、一瞬玉虫色に輝いたようなそんな気がした。

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