薄鈍色のパラダイム

番外編 絡まる糸と、交わる時と

 頭を締め付けられるような痛みが走り、一瞬だけ息が止まる。それでも声を上げることはかろうじて堪え、私は顔をしかめた。硬いベッドの上で跳ね損ねた体はきっと不恰好だろう。誰も見ていないからまだいいけれど、それでも自分の弱さに歯がみしたくなる。
 全力疾走しただけでこれだなんて呆れる。見慣れた診療所に辿り着いた途端動かなくなる体なんて、いざという時に役に立たない。今日は危ないところだった。あの男がずいぶんしつこく追ってきたせいでこの体たらくだ。
 でも泣き言を口にするのが嫌で勝手に診療台に寝転んだのは、今となってみると間違いだったかもしれない。本格的に動けなくなってしまった。指先を動かすのも億劫で、軽く寝返りを打つこともできない。立ち上がることなんて到底無理だろう。結わえていた髪をほどくのが精一杯だなんて、かなり情けなかった。それでもカチューシャがはずれないように気をつけることは忘れない。
 先にそこら辺の毛布でも手に取っておけばよかった。裾のほつれたショートパンツでは、若干この診療所の中は寒い。湿気を含んだ涼しい風が、陰鬱とした部屋の中を通り抜けている。汗が引きつつある身体に、それは冷たく感じられた。
 せめて呼吸を整えようと大きく息を吸う。けれどもたったそれだけのことなのに、全身を貫くような鋭い痛みが走り抜けた。思わず呻きそうになり、喉の奥から息が漏れる。今日はちょっと無理をしすぎたのかも。先日よりもひどいことになると思うとげんなりして、私は現実を拒否するように目を閉じた。誰もいないんだろうか? それなら一眠りするのもいいかもしれない。
 だけどもそうはいかなかった。視界が黒く染め上げられると同時に、かすかに足音が聞こえた。堅い床で反響した靴音が、今の私には耳障りだ。この気怠さを隠そうともしない歩みは、きっとトウガのものだろう。
 このみすぼらしい診療所には医者は彼しかいない。看護師や事務の人たちなんてのもいない。しかも患者を見かける方が珍しいとくると、廃業してるも同然だった。要するにここには彼しかいなかった。時々転がり込む私のような患者を除けば、だけど。
「イブキか」
 処置室との仕切り代わりのカーテンが開く。ついで彼の無愛想な声が聞こえてきた。私は何も言わずに目を開け、彼がいるだろう方向へと双眸を向ける。先ほどよりも視界が歪んでいないから、少しはましになったんだろうか。染みのついた白い壁を背にして、彼は大儀そうに肩をすくめていた。
「また危なっかしい所にでも行ってたのか? 何度やっても懲りない奴だな」
「諦めるつもりはないもの」
 私は即答した。彼は長い襟足へと指を差し入れ、嘆息しながら苦笑いを浮かべた。せめて恰好ぐらいはと白衣を羽織っているものの、傍目には闇医者か藪医者にしか見えない。適当にはさみを入れただけの黒髪は清潔感とはほど遠く、眼差しにもやる気が感じられなかった。もっとも彼は違法医療を行う者の一人だから、完全に的外れってことでもないんだけれど。
「ああ、そうか」
 それでももう少し真摯な対応をすべきではないか。そう思ったこともあった。最初は私だけぞんざいに扱われているのかとも考えたくらいだ。だけども彼はこの診療所を訪れる患者誰に対しても同じように対応している。小さな子ども相手でもそうだった。
「仕方のない奴だな」
 ゆっくりと近づいてきた彼は、診療台の傍にある椅子に腰掛けた。金属のこすれる嫌な音がして、私は片眉を跳ね上げる。それでも彼は意に介した様子もなく、左手で私の頭に触れてきた。長い指先が額を往復し、それから頬へと下りてくる。
「どこか痛むか?」
「――少し」
「言葉が足りない。どこがだ?」
「……全身」
 静寂の満ちた部屋に、彼のため息が染み込む。私がそれ以上何も言わずに天井を睨みつけていると、今度はむき出しになった右腕に触れてきた。先ほど壁に打ち付けて腫れた手首が鈍く痛む。
「神経伝導をブロックするってことは、別に傷そのものをなくすわけではない。何度言ったらわかるんだ?」
 聞き飽きた言葉から意識を遠ざけるため、私は堅く目を瞑った。理屈は何度も聞いているからわかってる。神経ブロックは痛みの伝導を遮断しているだけ。痛みにも色々種類があるとか仕組みがどうだとかその辺のことはよく知らないが、体が受けたダメージが消え去るわけではないというのは理解している。だから時間切れになるとこうして反動が来る。全身が悲鳴を上げ、襲い来る痛みに呼吸もままならなくなる。いつものことだった。
「無茶も大概にしろよ」
 ほんの少し彼の指先に力が加わるだけで、また息が止まりそうになった。瞑った目の端に涙がにじみ、私は奥歯を強く噛む。強引な患者教育だ。けれども弱音を吐くのは嫌なので痛いとは叫ばない。すると腕から彼の指が離れて、そっと目尻の水滴を拭われた。こういう時の手つきは優しい。きっと表情は険しいだろうけど、見ていないからそれはわからなかった。
「何かあったらどうする気だ」
「大丈夫よ、追っ手なら撒いてきたから」
「それは最低限のことだろう? 追われる前に戻ってきて欲しいんだがな、俺は。何度も言ってるが、いつ限界が来るのかわからず動くなんて無謀だ」
 目を閉じたまま交わす言葉はいつもと何ら変わりない。繰り返し言われてきたものだ。痺れるような痛みをやり過ごした私は、少しずつ深く呼吸した。新鮮とは言い難い空気でも体は欲していた。もうしばらくすればどうにか動けるようになるはずだ。気怠さが消えるまでは時間がかかるけど、それは毎度のことだから気にしない。彼の手が離れていく気配を感じて、私はうっすら目を開いた。
「無理しなきゃならない時もあるの」
「毎日のように、か? 困った人生だな。――痛い時に痛いと言ってくれないと、医者は困るんだがな」
 彼の皮肉は癖のようなものだ。本音とそれが混じり合い、どれが本心なのかすぐにはわからない。巧妙に隠されている。大事な忠告でさえ後になって気づくことばかりで、ここに患者が寄りつかない理由の一つにもなっていた。それでも彼に頼らざるを得ない者だけが、結果的には残っている。高額な何かを要求されても断れない人だけが、ここを訪れる。
「こういう時だけ医者面するのね、トウガは。いつも診察は面倒くさがるのに」
「それはまっとうな患者が言うべき台詞だな」
 かすかに開いた瞼の隙間から、私は彼の顔を見上げた。何故か彼は楽しそうに微笑んでいて、全てを見透かされているようで悔しくなる。そう、私も彼に縋るしかないのだ。でもソウトの死の真相を突き止めるまで、諦めるつもりはない。どれだけ時間がかかってもどんな手段を使ってでも、必ず犯人を捜し出してみせる。そのためならトウガの嫌味も我慢できた。
「俺は別に、お前のことを思って言ってるんじゃない」
 トウガが椅子に座り直すと、今にも壊れそうな金属音が部屋の中に響いた。そうだ、彼はこういう男だった。患者のためにお小言なんて言う奴じゃあない。それすらも面倒くさがるとんでもない医者だ。彼が私の体を気遣うのは、約束を破らせないため。彼の子どもを産むという、耳を疑うような約束を。
「私の子宮のことを思ってるんでしょう?」
 無理矢理私が口の端を上げると、彼はくすりと笑い声を漏らした。取り繕わないのが彼らしい。違法医療である脳改造を受けるにあたって、その費用を払えない私に彼が要求してきたものだ。
『その代わりに、お前の子宮を貸せ』
 藁をも掴む思いの私に予想外の言葉がかけられたのは、もうどれくらい前のことだろう。怪我を負って転がり込んだ時だから、半年近く前の話か。肉体改造、できれば脳改造をして欲しいと頼み込んだ私に、彼は真顔でそう告げてきた。金がないなら代わりに体を差し出せなんて、物語の中でしか聞いたことのない話だ。
「そうだな。子どもを産んでもらうまでは大事にしてもらわないと、俺がただ働きになる」
 悪びれた様子もなく、彼はそう言い切る。ここが彼の憎めないところだ。割り切った関係――否、取引。そう考えればいいだけのこと。本来ならば受けることのできない恩恵を得る代わりに、普通は要求されないものを差し出す。それをあの時私は了解したのだ。
「約束は守るわ」
 私はゆっくり首を縦に振った。体を休めるだけならここに帰ってくる必要はない。何らかの調整が必要な時にだけ来ればいい。でもそうしないのは約束を破らないという意志を示すためだった。いただく物だけいただいて逃げ出すようなことはしたくない。それは私の中の一つのけじめ。だから情けない姿をさらすことになっても、用がなくても、私はここへ帰ってくる。
「いい心がけだ」
 彼の手がまた私の頭に乗せられ、白いカチューシャが外された。と同時に重苦しさがほんのりと和らぎ、思わず吐息がこぼれる。脳改造がこの華奢な飾りによって成り立つと知ったら、皆は驚くだろうか。こんな方法があるとは、私も彼と出会うまで知らなかった。大手術が必要なのだとずっと思っていた。もちろん、それは彼だからできることだけど。――超能力者である彼だから。
「模範的な患者でしょう?」
「その点だけはな」
 乱れた髪を梳く手も優しい。幼い頃に父がよくそうしてくれたのと同じ、なんて言ったらさすがの彼も拗ねるだろうか。たぶん三十を超えたかどうかというところだろう。私のことは子ども扱いもするけれど、だからといっておじさんだなんて言われたくはないはずだ。
 いらぬ口喧嘩をするのも疲れるから、私は黙ってされるがままにしていた。癖のある樺茶色の髪は柔らかくて、その手触りが密かな彼のお気に入りというのは知っている。
「このまま少し眠れ。調整はその後だ」
「……いいの?」
 けれども今日はその時間も短くて、手を離すと彼はすぐさま立ち上がった。白衣の裾が翻るのを横目に、私は眉をひそめて彼を見上げる。珍しいこともあるものだ。後回しにするとやる気がなくなるからと、調整はいつも先に済ませてしまうのに。
「しばらく他の患者は来そうにないからな、時間はある。俺も寝不足ですぐには調整なんてしたくない気分だ」
「よくそれでやっていけるわねえ」
「高額医療だからな」
「違法な、ね」
 私がどうにか笑顔を浮かべると、彼は肩をすくめて右の口角だけを上げた。そして何も言わずに背を向けると、仕切り代わりのカーテンへと手をかける。
 私は遠ざかる靴音を聞きながら汚れた天井を見上げた。彼がどうしてこんなことをしているのか、それはわからない。知る必要もないと思う。私は真相を突き止め、そしてただ約束を果たすだけだ。これ以上深く関わっても仕方がないし、きっとお互い毒にしかならないだろう。だから子どものことについても、あえて深く考えないようにしている。私が目的を達成するまで、どうやら彼は待っていてくれるようだし。
「いつまで続くのかな……」
 喉から漏れた声はかすれていた。その日が一刻も早く訪れることを祈り、私はそっと目を瞑った。

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