薄鈍色のパラダイム

第三話 「そのための力」

 オキヒロと別れた私は、自分の部屋へ戻ると無理やり仮眠を取った。引きこもるようにカーテンを閉め切っても案の定あまり眠れず、夢現のまま横になっているような状態だった。今朝の会話と過去を思い出しては、あれこれと想像して気持ちが沈んでいく。
 だから私はこれ以上眠る努力を諦めて、日が暮れた後にトウガの診療所を訪れた。この時間に顔を出すのは滅多にないことだ。痛みに耐えられず転がり込んだことが数回ある程度で、大抵は日の高いうちに行く。トウガはいつも夜に何やら研究をしているから、あえてそうしていた。
「……イブキ?」
 だから私が診察室の扉を開けると、トウガは書類を手にしたまま眼を見開いた。外と大して変わらない冷たい空気の中、彼はいつもの白衣姿だ。幸いにも実験中ではなかったらしい。私はトウガの側へと小走りで近づいた。
「トウガ、ブロックと脳改造の調整をお願い」
「は? いきなり両方か? それは負担が大きいと――」
「お願い、トウガ」
 スツールから立ち上がったトウガの袖を、私は両手で掴んだ。身長差のせいでかなり見上げるような体勢になるけど、この手を離すつもりはない。脳改造の調整が終わって落ち着いてからブロックとなると、また数日必要となる。それでは遅いのだ。トウガは眉をひそめると、あいている方の手で私の肩を軽く叩いた。
「落ち着け、イブキ」
「お願い」
「駄目だとは言ってない。とりあえずそこに座れ。話はそれからだ」
 肩を掴んだまま、トウガは私を無理やりスツールに座らせた。バランスを崩したせいか勢いがつき、古びたそれが耳障りな音を立てる。唇を引き結んだ私の顔を、トウガは呆れた様子で覗き込んできた。
「馬鹿か、少しは落ち着け」
 言葉とは裏腹にトウガの声は優しい。つまり、それだけ私が動揺しているってことだ。そこまで認識したところで、私は一度深呼吸した。油断すると今朝のオキヒロの様子を思い出してしまう。そしてあれこれと考えてしまう。冷静でいなければならないのに情けない。すぐ目の前のトウガから私は視線を外した。
「ありがとう」
「いつになく素直だな」
「突っぱねる余裕もないだけ」
「……何かあったのか?」
 肩からトウガの手が離れた。私は静かに頷くと、今朝の出来事をどう説明しようかと頭を悩ませた。私が何をしているのかトウガは知っている。それが違法医療を行う条件の一つだったからだ。ただオキヒロとの過去についてまでは、さほど詳しくは話していない。
「会ったのよ」
 ぽつりと、言葉が漏れた。でもそれだけでトウガはおおよその事情を察したようだった。納得したように相槌を打つと、診察台の上に腰掛ける。白衣の裾が折れたままなのも気にせず、彼は口の端を上げた。
「例の愛しの彼に、か?」
「からかわないで」
「オキヒロ、とかいったか? ようやく顔を合わせられたのか」
「顔を合わせるっていうか、私が動く前に、あっちから声かけてきたのよ」
 しかしトウガの軽口のおかげで考え込まずにすんだのは事実だった。内心でのみ感謝しながら、私は大きく肩をすくめる。そしてすり切れそうな上着の襟に手をかけると、ため息を吐いた。肩口ではねた髪が頬をくすぐり、ちょっとこそばゆい。
「いきなり話しかけてきたの。会ったのは偶然……だと思いたいけど、それもわからない」
 偶然でなかったとしたら? つけられていたのだとしたら? そう考えるとぞっとした。バイト中は特に妙なことはしていなかったと思う。複雑神経ブロックの効果も切れていたし、脳改造の調整もしていなかったから普通に振る舞っていた。万が一見られていたとしても、不審に思われてはいないだろう。
 でもいつ気がついたのか、どこから見ていたのか。そう考えると背筋が凍った。もちろん、本当にたまたま会っただけという可能性もある。オキヒロの職場はあの町にあるのだから、偶然通りかかることもあるだろう。どちらとも、今の段階では断定できなかった。
「そうか」
「あいつ、何考えてるんだか」
「お前のことだろう」
 嘲りを含んだようなトウガの笑い声に、私はまなじりをつり上げた。こちらは本気で心配しているのに、この闇医者ときたらこうだ。どこまでも性格が悪い。
「それだけなら楽なんだけど」
 しかし腹を立てても疲れるだけだ。私は相槌を打ちながら足を組むと、眉根を寄せて小さく唸った。何も起こらない方がいいのか、それとも事態が動いた方がいいのか、今の段階ではどちらとも言い難い。
 一体、私は何を求めてるんだろう? 脳改造で判断力まで上がってくれるといいのに。残念なことに決断力は上がったとしても、その正しさは保証されなかった。
「とりあえず横になれ」
 虚空を見つめて口を結ぶと、抑揚のないトウガの声が部屋の中に響いた。診察台を叩いたトウガは、気怠そうに瞳を細める。私は顔をしかめたまま立ち上がった。
「やってくれるの?」
「お願いしたのはお前だろう」
「そう、だけど」
「嫌なのか?」
「別に。そういう意味じゃあないから」
 診察台から立ち上がったトウガと入れ替わるように、私はそこに腰を下ろした。調整にしろ複雑神経ブロックにしろ、気持ちのいいものではないのは確かだ。だけどもこれがないと話にならない。
 オキヒロのいる会社を含め、あのビル群の辺りは治安が悪い。年頃の女が丸腰でうろつくのは、はっきり言って愚かな行為だった。情報一つ得るために色んなものを失うのは馬鹿だ。
 私が横になると、白いカチューシャへとトウガの手が伸びた。軽い痺れが全身へと広がり、私はきつく瞼を閉じる。しばらくは我慢の時間だ。
「脳なんぞ弄るものじゃあないんだがな」
 調整をする時、いつもトウガはこう言う。では何故こんなことをし始めたのかと、以前尋ねたことがあった。けれども彼は曖昧に濁しただけで、理由を教えてはくれなかった。今までの彼の言動から、きっかけとなるような何かがあった、ということしか推測できてはいない。
 もっとも、彼が私に施した脳改造というのは簡易版だ。本当の脳改造というのは実際に頭蓋に穴をあける必要がある。脳の上に特殊なシートを被せるのだと、前にトウガは説明していた。
 脳の機能について注目が集まったのは、一体いつのことだったのか。それが明らかになればなるほど、脳を何とかすれば自分はもっと幸せになれると考える人々が増えた。はじめはどうやら、認知症を治したいとかそんな理由だったらしい。それがいつしか能力を引き出すことへと関心が移り、違法医療がはびこる結果となった。
「イブキ――」
 トウガの声が遠くなる。私の意識が希薄になって、世界が遠くなるような気分になる。あらゆる感覚が薄布一枚越しのものに感じられ、自分の思考だけが渦巻き始めた。
 隠された能力を引き出すために色々な方法が試みられたが、ある男が「抑制」をコントロールすることに注目して流れが変わった。人々は、人間の限界に挑み始めた。『安全弁』を外すことを躊躇わなくなった。それが今一般的に『脳改造』と呼ばれるものだ。
「ねぇ……」
 舌っ足らずな自分の声が、ややくぐもって聞こえる。いつも通りなら、そのうち私の意識も落ちるだろう。でもこの時間は私にとってはいつも緩やかだ。いつまでもどこまでも続きそうに思えて怖くなる。多弁になると後でトウガは言うけど、単に不安で黙っていられないだけだった。
「オキヒロは何を考えてるんだと思う?」
「さあな」
「ソウトとは何も関係なかったのかな? 私が空回りしていただけ?」
「どうだろうな」
 声が響いて何重にも聞こえる。ふわふわとした気分で、何がどうなっているのかわからなくなる。世界がぼやけて歪んでいる中で、声だけが私の中へと届く。音だけが周囲を取り巻いているみたいだった。
「もしそうだったら、振り出しに戻っちゃう……」
「そうだな」
「でも違ったら。そしたら私は――」
「イブキ」
 頭の芯がぐらぐらした。過去と、今と、これからが、悪い方悪い方へ流れていくような、そんな気持ちになる。全てが絡まり合ってどうしようもなくなって落ちていくような、そんな感覚。怖い。泣きたい。掬い上げて欲しい。誰かに、何かに縋りたくなる。
「いいから、そっちの世界から戻ってこい、イブキ」
「うん、戻る。ちゃんと帰ってくる。約束は守るわ」
 全てを投げ出したくなる。楽になりたくなる。でも駄目だ。これだけ色々してもらって、約束を破るのは駄目だ。トウガの子を産むまでは死なない。それが私のけじめ。彼に何か返すための、唯一の方法。もらうものだけもらって逃げ出すのは、私のプライドが許さなかった。
「……お前、話聞いてないな」
「うん、トウガ、ねぇ、私」
 頭の中がぐちゃぐちゃしてきた。何時かはわからないけど、私は重大な間違いを犯したんじゃないか。取り返しのつかないことをしたんじゃないか。そんな気がしてきた。
 それは今朝のこと? この診療所に転がり込む前? ソウトが殺される前? オキヒロがいなくなる前? ――これ以上間違えないためにはどうすればいいの?
「私、どうしたらいいんだろう? ねえ、一体どうすればよかったんだろう?」
「もういいから眠れ、イブキ」
 トウガの声がまた遠くなった。少しだけ体も暖かくなった。きっと彼が何かしたんだろう。でもそれも今の私にはわからない。微睡みに身を任せ、私はそのまま意識を手放した。トウガが何か言ったような気もしたけれど、聞き取ることはできなかった。

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