薄鈍色のパラダイム

第六話 「逃亡の先に」

 マツヨシと連絡を取ると口にしたオキヒロを残し、私は別荘を飛び出した。トウガの診療所を知られたくはなかったから、車で送るというオキヒロの申し出はお断りした。
 その決断に後悔はなかったけれど、挫けそうにはなった。どこまでも続きそうな山間の道を走り、転び、立ち上がり、また走るをひたすら繰り返す。頭を割らんばかりの痛みに襲われる度に、私の足は止まった。
 重たげな雲の合間から差し込む光は弱々しく、木々の陰が生み出す薄闇はなおさら足を覚束なくさせる。筋力増強の効いていない体では、この山道を走り続けるのは辛かった。
 いや、そもそもこの体が今まで通りのものなのかどうかも怪しい。重だるいような、それでいて自分の意志と反して動き続けるような、そんな感覚。幽霊にでもなったらこうなのかと思うほど実感が湧かないのに、苦痛だけは感じる。それでも私は駆け続けた。
 早くトウガに会わなければ。誰かがあの診療所に辿り着く前に伝えなければ。こんな時こそ限界を取り払いたい。
 山道を駆け、人気のなくなったビル街を通り抜け、一体どれくらい経っただろう? 診療所の前で立ち止まった時にはとっくに日は暮れ、月が空高く昇っていた。私は近くに誰もいないことを確認すると、動きたくないと駄々をこねる足を叱咤激励して、扉を開ける。足の裏は血だらけだろうけど、もう痛みも感じない。
 床と砂がこすれる嫌な音を無視して、私は誰もいないロビーを通り抜けた。夜の診療所の廊下は、いつ歩いても不気味だ。もうトウガは眠っているだろうか? それともまた論文でも読んでいるのだろうか? 実験中だろうか? 起きているといいんだけど。
 ほぼ暗闇に近い中で、記憶を頼りに診察室を目指す。この廊下には夜間のための明かりなんてものは存在しない。ふらつきながら歩いていると、扉と壁の隙間からうっすら光が漏れているのが目に入った。私はぎこちなく口角を上げると、重たい腕を持ち上げてどうにかノックしようとする。その途端、扉がいきなり開いた。
「イブキ!?」
 扉から顔を覗かせたトウガが、私を見て眼を見開いた。宙ぶらりんになった手を壁につき、私は薄笑いを浮かべる。よかった、無事だった。重たくなった右手で、私は自分の頭を指さした。
「ごめんなさいトウガ。カチューシャ、壊されちゃった」
 トウガが青ざめるのが薄暗い中でもわかった。詰め寄ってきた彼の手が私の右腕を掴むと、安堵したのか膝から力が抜けそうになる。それでも座り込みたい衝動に抗い、私は奥歯を噛んだ。これ以上トウガに迷惑なんてかけられない。こんな状態じゃあ、約束を果たせるのかわからないけれど。
「吐き気は? 倒れなかったか? どこか痛まないか?」
「……吐き気は、今のところはない。時々頭痛はするし、なんか感覚が変だけど」
「当たり前だ! だからあれだけ無茶はするなと――」
「あいつの部下に、マツヨシにやられたのよ。マツヨシも脳改造者だったの。……知らない間に他の医者に診られたみたい。まずいわよね?」
 できるだけ軽い口調で事情を伝えると、トウガは硬い顔をして唇を引き結んだ。首を縦にも横にも振らなかった。やはりまずいらしい。それほど問題がないなら、きっとトウガは悪態を吐くだろう。いつものように、今まで通り、「何をしてるんだ馬鹿」とでも言って肩をすくめるに違いない。
「よく逃げられたな。――拘束はされなかったのか?」
「何だかよくわからないけど、オキヒロが誰もいない別荘に運んでくれたらしいの。だから説得して逃げてきた」
「説得?」
「私が死んだら困るでしょう、って。たぶん追っ手とかはいないと思う」
 自信がないのは、この感覚が当てにならないからだ。ただ、それでも誰かにつけられてはいないと思う。私を泳がせてトウガの居場所を探るなんてことも、やろうと思えばできるだろう。でも、あの別荘にはオキヒロしかいなかった。車は一台しかなかった。あそこに徒歩で行くなんて普通はしない。
「そうか」
「……ごめんなさい、こんなことになって」
「気にするな。どうせそろそろ拠点を移さなければと思っていたところだ。ちょうどいい」
「え?」
 思わぬトウガの言葉に私は瞠目した。それってつまり、まさか、この診療所を捨てるということだろうか? そんな話なんて聞いたことがなかった。私がここを訪れてから数年は、ずっと彼はここにいる。
「ここを、離れるの?」
「ここでなければ駄目な理由はない。お前が転がり込んでくる前は、別のところにいた。厄介な患者が住み着きそうだったからここに移ったんだ」
「そ、そうだったんだ」
 知らなかった。私がまじまじとトウガを見上げると、彼の手がゆっくり私の腕から離れた。診察室から漏れる明かりに照らされた、彼の顔は依然として硬い。何かを考えるように視線を彷徨わせてから、彼は口を開いた。
「今夜、移動する。イブキも来い」
「え、今夜!? でも、私がいたら邪魔に――」
「まさか約束を忘れたわけじゃあないだろうな? 金を払わない患者に、私は医療は施さないぞ」
「わ、忘れるわけないでしょう!」
 私は勢いよく首を横に振った。忘れてるのはトウガの方だと思ったくらいだ。身体を差し出すなんて約束を忘れる女がどこにいるだろう? どういう思いで、あの日決意したと思ってるんだか。私はあの時、真相を知るために自分の人生の一部を差し出したんだ。
「それならつべこべ言うな。準備が終わったら出るぞ」
「う、うん」
「それまで横になってろ」
 トウガは私の肩を軽く叩き、廊下の奥へと踵を返した。翻った白衣の裾が、薄闇の中へと消えていく。
「トウガ……」
 私は眉根を寄せた。間に合ったという安堵感と、こうまでして得た事実の冷たさに、頭の芯が妙な熱を持っているようだ。今までの努力は何だったんだろう。私は何のためにここまで来たんだろう。オキヒロの言葉が、全て嘘だったらいいのに。
 膝の力が抜けて、私はずるずるとその場に座り込んだ。悪い想像ばかりが頭の中を駆け抜けていく。あの別荘でオキヒロは待っているのだろうか? マツヨシは動き出しているんだろうか? 私は、トウガと一緒にいていいのだろうか?
 涙は溢れなかった。何もかもが枯れたようで、心も乾いていた。それなのに今さらどうしようもない疑問ばかりが浮かんでくる。私にとって家族って何だったんだろう。あの頃ソウトは何を考えていたんだろう。私は誰を恨んでるんだろう。何を恨んでるんだろう。
 膝を抱えると、私は壁にもたれ掛かった。今さらになって、足の裏が火に炙られたように熱くなってくる。これは痛みじゃない、体の悲鳴だ。とにかく全身が重くて、ひたすら休息を欲していた。
 いっそこのまま全てを投げ出してしまおうか。何もかも捨てて逃げてしまおうか。そんな誘惑に駆られながらも、私は頭を振って苦笑いを浮かべた。それができたらこんなところにいないことは、自分でもよくわかっていた。何もかも捨てられたなら、今の私はいなかった。



 思っていたよりトウガの準備は早くて。波立った心が落ち着かないまま、私は診療所を出た。トウガが持ち出したのは肩から提げた鞄だけ、私はまさに着の身着のままだった。
 迷う様子もなくトウガは夜道を進んでいく。どうやらあてがあるらしい。いざという時のために、次の候補は幾つか用意しているという話だった。そうせざるを得ないようなことが今までにもあったんだろう。どうも私が思っていたよりも、トウガの技術というのは重大なものらしい。
 裏道を縫うように歩いているせいなのか、人気は全くなかった。浮浪者が身を縮ませて座り込んでいる他は、通りかかる人は誰もいない。たまに野良猫が目の前を通り過ぎていくくらいだ。
 足の痛みは、今はあまりなかった。出かける直前に診てくれたトウガが、思い切り顔を歪めながら応急処置してくれたおかげだろうか。それとも私の感覚がいかれているせいか。歩いていてもふわふわとした心地なのが、どうにも不安だ。
 でも落ち着ける場所に移動しないと脳をきちんと診ることはできない。しかもあのカチューシャは特性だったから、新たに作るのには時間がかかるはずだ。
 トウガは早歩きで進んでいる。私はその後を必死でついていく。痛みはなくとも動かしづらいことにはかわりなくて、何度も足がもつれそうになった。その度にトウガが肩越しに振り返るのが辛い。
 私がいなければトウガはもっと早く歩けるのに。そもそも、私がいなければこんなことにはならなかったのに。ぐちゃぐちゃな頭の中で後悔だけが渦巻いている。もっと慎重に動けばよかった。マツヨシが脳改造者だってわかっていれば、あんなことはしなかった。
 今さら考えても仕方ないことばかりを、私はいつまで悩んでいるのだろう。何度間違えれば気が済むんだろう。わかっていても情けないことに、思考はどん底へと落ちていく。
 自己否定に押しつぶされそうになる、その一歩手前で踏みとどまっているのは、トウガとの約束があるからだ。これ以上私は私を嫌いになりたくない。だからかろうじて動くことができる。
「イブキ」
 不意に、トウガが立ち止まった。その背中にぶつかりそうになった私は、よろめきながら顔を上げた。風に揺れるトウガの黒いコートの向こうで、切れかけた電灯が瞬いている。路地裏の細道が途切れ、どうやらちょっとした広場になっているようだ。元が何だったのかはわからないけれど、脇には木箱が幾つも積まれている。
「トウガ? 何かあった――」
「そいつがその医者?」
 私の言葉を遮ったのは、トウガではなかった。喉の奥から引き攣った声が漏れそうになり、私は口元を押さえる。動悸がした。目眩がした。広場の向こうから、少し歪なリズムで足音が近づいてくる。
「オキ……ヒロ」
「逃げるなんてひどいじゃない、イブキ」
 可愛らしく小首を傾げたオキヒロが、電灯の下へと姿を現した。明滅する光に照らされて、アッシュブロンドが眩しく輝いている。別荘で見たのとは違う恰好だ。やや明るい灰色のコートの下から、少しよれた黒いスーツが垣間見えている。
「ど、どうして」
「なかなか連絡が取れなくて、マツヨシの様子を見に行ったんだよ。そしたら彼さ、再起不能になったって」
「……え?」
「脳改造の後遺症って奴なのかな? 先日の無理がたたったのかもね。どうも意識が戻らないらしい。でもほっとしたよ。これでイブキのこと知ってるのは、あの医者だけになった。あいつは新人だからね。これでイブキを匿える。それでとりあえずマツヨシのこと伝えようと思って、この辺をうろついてたんだ」
 嬉しそうに笑うオキヒロを見て、私の背筋を冷たいものが走った。オキヒロはマツヨシのことをどう思ってたんだろう? 今さらながらそんなことを考える。オキヒロが何を考えてあの会社にいたのか、何をしてたのか。恐ろしい想像ばかりが浮かんできた。
「イブキはたぶんこの辺に住んでるんじゃないかなと思って。この間の感じからしてね。もう大丈夫、何も心配いらないよ。もう怖がらなくてもいいよ。イブキ。だからこっちにおいで」
 コートの下からオキヒロが取り出したのは、小さな拳銃だった。それを笑顔のままこちらへと構えて、オキヒロはもう一度私の名前を呼ぶ。
「イブキ、こっちにおいで」
 体が震えて声が出なかった。それなのにトウガは何も言わなかった。そうだ、このままじゃあトウガが危ない。私は固唾を呑むと、動く様子のないトウガの前へと進み出た。散々汚れて乱れた髪を、冷たい風が揺らす。
「イブキ?」
「とにかく、その物騒なものを下ろして。この人には手を出さないで」
 声がかすれた。それでもどうにか言葉にはなった。やっぱりオキヒロはもう昔のオキヒロではないんだ。いや、単に私が何も知らなかっただけかもしれない。わずかに眉をひそめたオキヒロの顔と、かつて見たソウトの顔が重なって見えた。私が見ていたものは何だったんだろう?
「そういうわけにはいかないよ。だってイブキの体をそんな風にしたのはそいつなんだろう?」
「それは、私がお願いしたのよ。何があったのか知りたくて。だから頼んだのよ」
「……そのためだけに?」
「それだけのために」
 泣きたくなった。でもこんなところで泣いてもいられなくて、私はオキヒロを必死に睨みつけた。突然奪われた日常。その憤りをぶつける場所もなくて、せめて何が起こったのか知りたくてここまで来たのに。明らかになった現実は、この現状よりも冷たかった。
 目の前がかすんで、オキヒロの姿が二重に見える。また頭が割れそうな強い痛みが走り、私は奥歯を噛み締めた。どうも感情的になるのがよくないらしい。落ち着かないと。
「おい、イブキ。大声を出すな。体に障るぞ」
 やや焦りを滲ませた声を出して、トウガが私の肩に手をのせる。私は何も言わずに首を縦に振ると、もう一度オキヒロの顔を真正面から見つめた。オキヒロは拳銃を下ろすことなく、今にも泣き出しそうな顔で頭を傾けている。そんな顔は小さな頃でも見たことがなかった。
「ねえイブキ、どうしたら昔みたいに喋れるの? どうしたらあの頃みたいに君の笑顔が見られるの? 僕はただ、それが欲しいだけなのに」
 オキヒロの言葉が胸に突き刺さる。私だって戻りたかった。でも無理なんだ。全てをなかったことになんてできないし、しちゃいけない。私は大きく首を横に振った。
「無理よ、オキヒロ。だって時間は戻らない。私の家族は帰ってこないし、この体も元には戻らない。全部水に流すことなんてできないのよ。それはオキヒロだってわかるでしょう?」
「そんな、じゃあ僕はどうすれば――」
「そんなこと私に聞かないでよ! 私だって、私だってわからないんだからっ。でも、もう、何も知らない頃には戻れな――」
 声を張り上げた途端、体を貫くような激痛が走った。目の前が暗くなり、ほんの一瞬意識が飛びかける。ついで何かが見えたと思ったら、暗闇に光が明滅しているだけだった。誰の顔も姿も見えない。
「イブキ!?」
 何がどうなってるのか全くわからない。ただ先ほどよりもずっと近くにトウガの声が聞こえた。私はきつく瞼を閉じると、こみ上げる吐き気を堪えた。喉の奥に胃酸を感じる。
「だから言っただろう、大声を出すなとっ。早く調整しないと本当にまずいぞ。聞こえてるか、イブキ?」
「そんなっ」
 トウガの言葉に、悲鳴じみたオキヒロの声が重なる。何かを放り出したのか、路面に弾かれて硬い物が転がる音が聞こえた。拳銃だろうか。様子を確認したくても、瞼が重くて開かない。
「聞こえていたら返事をしろ」
「イブキは、イブキはっ」
「おい、そこのお前、少しは落ち着けっ」
「でも……」
「イブキを高ぶらせるな!」
 二人の会話がくぐもって聞こえる。狼狽えるオキヒロの顔が、瞼の裏に浮かび上がった。そういえば昔から、オキヒロは怪我とかには弱かったっけ。擦り剥いた足を見てはいつも動揺していた。
「だから落ち着け。今、お前の声は毒だ。一刻を争うものではないが、何が起こるかわからないぞ」
「そんなこと言って、あなたには、あなたにはあてがあるんですか? あってイブキを連れて行く気なんですか? イブキを助けられるんですか?」
「……かろうじてな」
「僕はいい場所を知ってます。何年か前に亡くなった医者が使っていた施設が、隣町との境にあります。徒歩では無理な場所ですが、車なら行けます」
 声が遠い。頭の芯が熱い。体の感覚がないのにふわふわとした心地で、自分が溶けてしまったかのようだった。私はこのまま死ぬんだろうか? マツヨシのようになるんだろうか? 恐ろしいことを考えているはずなのに怖くないのは、どうしてだろう? 色んなものが麻痺している。現実感がない。
「取引でもする気か?」
「残念ながら、僕には技術がない。僕にはイブキを助けられない。悔しいけれど」
「それで俺に何かメリットがあると?」
「あなたは患者を見殺しにするのか?」
 オキヒロの声が遠ざかった。トウガが何と答えたのか、私には聞こえなかった。ただ理由のない不思議な安堵感に包まれて、急に強い眠気に襲われる。
 微睡みに溺れそうになる中で、ソウトの不安そうな顔が浮かび上がってきた。大丈夫だと心の中だけで相槌を打って、私は記憶の中の自分を脳裏に描く。何も知らずに精一杯笑っていた私は、頼りないほど小さかった。幼かった。それでも必死に立っていたその強さを、少しだけ今も欲しくなった。

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