white minds 番外編

赤い薔薇の涙

「ただいま帰りましたー!」
 シンがそんな陽気な声を聞いたのは、そろそろ夜も更けようかという頃だった。部屋で小さなテレビをぼんやり眺めていた彼は、違和感に眉をひそめる。今の声はローラインだ。いつもより帰りが遅いので心配していたが、調子が悪いということもなさそうだった。むしろ普段と比べると不自然に元気がよい。
「ローライン……よね?」
 座卓に向かいながらレシートを睨みつけていたリンが、怪訝そうに顔を上げる。彼女の視線を感じて、シンは頷いた。間違いない。声もそうだが、何よりこの『気』はローラインのものだ。無世界むせかいに派遣されてまだ半年ほどしか経っていないが、これだけ一緒にいれば気は覚える。『技使い』特有の強さと、ローラインに特徴的な穏やかさが滲んだ温かみのある気だった。
「まさか酒でも飲んだのか?」
「さあ。見てくる」
 腰を上げかけたシンより先に、リンが立ち上がった。ぱたぱたと軽い足音が玄関へと向かっていく。出遅れた彼は短い後ろ髪を掻き上げてから、ゆっくり彼女の後を追った。
「何それ!?」
 ついで聞こえてきたのは喫驚するリンの声だった。顔をしかめたシンは、何事かと玄関へ急ぐ。彼女が驚いた理由はすぐにわかった。花だ。玄関にたたずんでいるローラインは、両手に溢れんばかりの花を抱えていた。艶のある濃厚な赤い花弁は、頼りない明かりの下でもその存在を主張している。そしてこの匂い。むせ返るような濃厚な香りがその場を満たしていた。
「薔薇ですよ」
 花束の横から無理やり顔を出したローラインは、そう告げてうっとり瞳を細めた。彼の豊かな金の髪は赤い花と相まっていっそう目映く見える。その姿は子ども向けの本で時折見かける王子とやらを連想するものだが、場所が狭苦しい玄関なだけに台無しだった。
 いや、問題はそこではない。もっと目を向けるべき点がある。シンが我に返って首を横に振ると、硬直していたリンの肩がかすかに震えた。乾ききっていない黒髪もその背中で揺れる。
「そうね、薔薇ね」
「ええ。まさかこちらの世界にもあるとは思ってなかったので、見つけた瞬間は信じられませんでした。即買ってきてしまいましたよ」
「ありったけを?」
「そうですね、ありったけです。一輪でももちろん美しいですが、薔薇の花束は格別ですから!」
 これだけローラインが幸せそうに微笑む姿を見たことがあっただろうか? 違法者を取り締まるために無世界に派遣されて、誰もが心細い思いでどうにかこうにか生活をしていた。ローラインもそうだった。狭い部屋での生活にも慣れない仕事にも文句を言わなかったが、ふとしたときに沈んだ様子を見せていた。シンたちは密かに心配していたものだ。しかし今はどうだ。まるで水を得た魚のようだった。
「そうね、綺麗ね」
「でしょう?」
「でもね、ローライン。ここはこんなに狭い部屋なの。わかる? 神魔世界みたいに大きな家じゃないの」
「そうですねー。庭付きの家ならば花を植えるところなんですが。ああ、美しくない」
 リンの声に怒りが滲んでいることにさえ、ローラインは気がついていないようだった。今までの弱々しい姿はどうしたのかと言いたいくらいに強い。いや、鈍いと言うべきか。どことなくふわふわしていて捉え所がない青年だとは思っていたが、今日は拍車がかかっている。シンは胸中でため息を吐いた。
 シンたち五人――スピリットは、本来ならその人数は許容されない小さな部屋を、大家の厚意で借りていた。少しでも生活費に回すためだ。『技』を使って無断で異世界へと進入した違法者たちを取り締まるのが、彼らの本来の仕事だった。だが、それは日々の生活まで賄ってくれるようなものではない。異世界の金銭を偽造するのは厳しいからというのが理由のようだった。その結果、生活費を稼ぎながら本業をするという悲しい状況に陥っている。
「あのねぇ、ローライン」
「はい?」
「今の状況、わかってる?」
 狭い住環境の中、男だらけの仲間たちに囲まれ、最も苦痛を強いられているのはきっとリンだろう。しかも一番年下だ。それなのに彼女は誰よりも早くこの状況に適応し、率先して生活の安定化を図った。滅多に愚痴もこぼさず、後ろ向きになる仲間たちを叱咤激励している。顔には出さないが、我慢していることは多いはずだった。そうなだけに、今のローラインの一言はまずい。彼女の纏う『気』には明らかに棘があった。
「私たちはこの世界に来て、それで違法者たちを取り締まるのが仕事なの。そのために狭くても我慢してるの」
「ええ、そうですね。美しくない」
「ローラインたちが稼いでくれてる間に、私とシンが任務を遂行する。ここは寝床にだけする。文句は言わない。そう決めたわよね?」
「はい、決めましたね」
 怒りを押し殺したリンの低い声にも動じず、ローラインは素直に頷いている。しかしどれもわずかに苛立ちを引き起こすようなものばかりで、はらはらしながらシンは成り行きを見守った。一触即発だ。
「じゃあ、何でそんな大きな花束を買ってくるの!?」
「何でと言われましても、それは美しかったからですよ」
「それで、どこに飾るつもりなの!?」
「もちろん、わたくしの枕元に。座卓の上では食事が取れません」
「あのねーそれってシンたちの枕元でもあるでしょ!? それにそんな場所なんてないしっ」
「わたくしが小さくなればいいだけの話ですよ」
 悪びれた様子もなく微笑むローラインは、無邪気な子どものようでさえあった。全く何も感じていないらしい。荒い息を吐くリンとローラインを交互に見て、シンは何をどう言うべきかと躊躇った。言いたいことは大抵彼女が口にしてくれている。彼が付け足すべき言葉は、すぐには見つからなかった。
「小さくなるのはローラインだけじゃあないでしょう? まさか皆に迷惑かける気?」
「この薔薇を見れば皆さん心が癒されるはずです。それくらいは我慢してくださりますよ。何事も代償なしには得られませんよ? リンさん」
 ローラインはそう言い切った。それを耳にしたリンは拳を握ったままがくりと肩の力を落とし、よろめくように壁にもたれかかる。そしてうなだれつつ、おもむろにシンの方を振り返った。今にも泣きそうで、かつ諦念の色を浮かべた双眸だった。こんな彼女の様子は見たことがない。
「シン、駄目。私には無理。説得お願い」
「お前に無理だったらオレには無理だぞ」
「じゃあこれどうするの?」
「……まあ、オレたちもしばらく小さくなるしかないだろうな。サツバは怒りそうだけど」
 大きく肩をすくめたシンは、ローラインの花束へと一瞥をくれた。持って帰ってくる途中は恥ずかしくなかったのかとか、それを買うのにいくらかかったのかとか、聞きたいことは山程ある。しかし今は何を言っても無駄なように思えた。昨日は給料日だったから、ローラインも気持ちが大きくなっているのだろう。そのせいだと信じたい。
「これでしばらく幸せな時間が過ごせます。ああ、美しい!」
「ああ、そう。よかったわね……」
 こんな時は常識のない者の方が強いのか。節度ある生き方をしている者だけが損をするのか。花好きとは聞いていたがまさかここまでだったとはと思いつつ、シンは脱力するリンの肩を軽く叩いた。
 この花が枯れるまでの辛抱だ。また買ってこようとしたらその時は金額を理由に止めよう。そう決意してため息を吐く彼の前で、ローラインは花束を抱えて回っていた。
 その薔薇がまさか三週間も咲き誇ることになるとは、シンたちは予想していなかった。しばらく彼らの部屋は、甘く濃厚な香りに満たされていた。

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