white minds 番外編

シークレットリファレンス

「二十七歳男性。赤みの強い茶髪、焦茶色の瞳、肌は浅黒く中肉中背。額の黒子が目立つ」
 突きつけられたメモを、青葉あおばは声に出して読んだ。白い紙に書かれていたのは、これといった特徴のない男についての情報だった。首を傾げながらメモを受け取った青葉は、手渡してきた少女――梅花うめかへと視線を投げかける。
「これが仕事?」
「そう。こんな時に残念だけど、上からの依頼よ。連れ戻してこいって」
 公園隅のベンチに腰掛けた青葉は、梅花にも座るよう目で伝えた。軽く眉をひそめた彼女は、おとなしく隣に腰を下ろす。不意に、頭上で鳥の鳴き声がした。それにつられたのか、散歩中らしき犬が吠え出す。まだ朝方なので人は疎らにしかいないが、少しでも聞かれたくはない内容だ。彼は声を潜めた。
「人捜しの依頼っておかしいだろ。神技隊しんぎたいの仕事は違法者の取り締まりじゃなかったのか?」
 耳打ちするように距離を詰めて、彼は素朴な疑問を口にした。彼ら神技隊が派遣されたのは、許可なくこの無世界むせかいに侵入した人間――違法者を捕まえるためだ。決して『上』の便利屋になるためではない。すると無表情な彼女は、それはわかっていると言いたげに相槌を打つ。
「だからね、この人が違法者なの。つい先日、宮殿を飛び出してこちらへ逃げ込んだそうよ」
 彼が持つメモを彼女は指さした。なるほど、違法者に成り立ての人間だから詳細な情報があるのか。それでも腑に落ちないものがあり、彼はメモを睨み付ける。
「それって、上の責任じゃないのか?」
「こういう仕事も来るから私たちは特殊なの。でも、今日でなくともよかったわよね。アサキたちが回復するまでにはもう数日はかかりそうだし」
 悩ましい点はそれだった。数日前から青葉たちにも感染症の波がやってきていた。神技隊は毎年一隊ずつ派遣されているが、最初の一、二ヶ月ほどは使い物にならない。未知の病原体に次々とやられるからだ。
 元々無世界に住んでいる人間にとってはありふれたものでも、彼らのように神魔世界しんませかいから来た人間にとってはそうとも限らない。緊張が緩んだ一月後くらいから、続々と体調不良者が現れるのも珍しくないという話だった。彼ら第十八隊シークレットも、その流れとは無縁ではない。昨日アサキの熱も上がってしまったので、今まともに動けるのは青葉と梅花だけだ。こんな時に依頼が来るなど不運でしかない。
「アサキたちが治るのを待ってたら駄目なのか?」
「早急に、だそうよ。上の事情にもある程度通じている人だもの。それは本人も自覚しているから、必死で逃げると予想されているわ。まだ宮殿を飛び出して数日だから、今なら間に合うって言いたいんでしょう」
 彼女は淡々とそう説明する。二人きりで任務を遂行しなければならないという事実に、彼は不安を覚えた。愛想をどこかに置いてきてしまった彼女は、『上』の直接的な管轄地とも言われる宮殿出身なので仕事はできる。神技隊の事情にも詳しい。しかし親睦を深めるのが極めて難しい相手だった。誰もが認める容姿なのに近づきづらい印象を与える。艶やかな黒髪も、透き通りそうな白い肌も、表情と相まって人形を連想させた。
「……つまり今日明日中に、オレたちで見つけろってことか」
 彼はため息を吐いた。この状況を知ってか知らでか上も無理難題を押しつけてくる。ただ違法者を探すのならばともかく、特定の一名を見つけ出すのは骨が折れるはずだ。
 無世界と神魔世界を隔てる結界の穴――『ゲート』を通り抜けてこの無世界に逃げ出すことができるのは、技使いだけだった。炎、風、水といったものを自由自在に操ることができるとされる『技』の中には、結界に干渉する力も含まれている。違法者が全員技使いとなれば、当然捕まえる側の神技隊も技使いで構成されている。青葉たちもそうだ。
 本来無世界に技は存在していないので、こちらにいる技使いは違法者か神技隊のどちらかということになる。技使いかどうかはその者が放つ『気』の強さで判別できた。気そのものは一般人も持っているが、技使いはその強さが違う。もっとも、それなりの実力者であれば放つ気の強さを調整することもできるため、普段は一般人を装っていることも多かった。
 それでも、何らかの技を使う時には強い気が放たれる。それを見逃さないようにと、青葉たちは日々注意を払っていた。
「上は本気か? どう考えても無理だろう」
 だがそれは、特定の誰かを捜す際には通用しない方法だ。見知らぬ男をこの広い世界から見つけ出すのには役に立たない。
「私は数回、その人と顔を合わせたことがあるの」
 文句を付ける彼に向かって、彼女は神妙に告げた。彼女の言わんとすることが読み取れずに、彼は首を捻る。顔を知っているということであれば、人違いすることはないだろう。それでも気から探る上では手がかり皆無に等しい。
「私なら彼の気を覚えてるでしょうって言いたいのよ、上は」
 しかし、ついで彼女が放った言葉は、彼の予想したものではなかった。「は?」と思わず気の抜けた声を漏らし、彼女の双眸を凝視する。彼女が冗談を言うとも思えなかったが、にわかには信じがたい。数回会った程度で気の特徴を覚えられる人間など、いるわけがなかった。
「いくらなんでもそりゃ無茶だろ。……まさか覚えてるのか?」
「はっきりとは。でも近くにいけば思い出すと思うわ」
 彼女は首を縦に振った。彼は絶句し、瞠目した。気には個人個人で特徴がある。人によっては色や温度で表現されるその特徴は、親しい人間のものであれば判別もできる。しかし関わりの薄い人間の気を区別するのは、普通は無理だ。
「――信じられない話だな」
「記憶力はいいからね。まあ、そういうことだから。付き合って。最初の仕事よ」
 かすかに微苦笑して、彼女はやおら立ち上がった。腰ほどある長い黒髪が、ベンチの背から離れる。彼は彼女の横顔を見上げた。遠くを見つめる眼差しは、もう既に何かを探し始めているかのように見えた。



 目的の人物は、その日のうちに見つかった。『ゲート』からそう遠くない宿泊施設を順に当たったところ、日が暮れる前にそれらしき気を発見した。比較的小さなホテルだ。大きな通りにも面しておらず、少しだけ奥まったところに建っている。周囲にある建物と比べても、ずいぶんと年数が経過していることがうかがえた。男はその中にいるらしかった。
「さて、どうする?」
 近くにあったコンビニと呼ばれる店の前で、青葉は立ち止まった。斜め後ろにいる梅花の方を振り返ると、目深に被っていた帽子を手に取っている。風に煽られるスカートを押さえる姿を見て、彼は顔をしかめた。
「帽子取ったら意味ないだろ」
「大きくて見えにくいのよ。躓きそうになるし」
「目立つだろ」
 午前中二人であちこちを歩き回ったが、やたらと人目を引くことが厄介な点だった。仕方なく午後から彼女には帽子を被せている。この手の仕事には向かない見目だと、つくづく感じさせられた。シンプルな白のワンピースに生成り色の上着を羽織っているだけでも、様になってしまう。
「目立つのは私だけじゃないでしょう?」
 彼女は不満そうに眉根を寄せた。ほぼ無表情を突き通している彼女としては珍しいことだった。店から出てくる少女たちの視線を感じつつ、彼はさらに声を潜める。決して自分が地味な人間であるとは思っていないが、比較の問題だ。
「オレにも変装しろってか? その方が怪しいだろう。ってその話よりも、今はどうやってあそこを見張るかだ」
 だが今はそんなことを議論している場合ではない。あのホテルにいるのが本当に例の違法者であるかどうかは、梅花に直接顔を確かめてもらう他なかった。そのためには男が出てくるのを待つ必要があるのだが、寂れたホテルの前には塀と電柱しかない。
「人気はなさそうだけど」
「どちらかと言えば悪い人間がたまりそうだな」
「あそこでじっと待つの?」
「誰かが通りかかった時に、不審に思われるのがまずいよな」
 腕組みした彼は、ちらりと彼女を横目で見る。白い帽子を抱きかかえたまま、彼女はホテルの方を睨み付けていた。徐々に日が落ちつつある中、あんな寂れた場所にこの美少女がたたずむとなると、怪しさもこの上ない状態だ。どことなく犯罪の臭いすらしそうだった。
「とりあえず、あの前まで行ってみるか」
 無論、近くまで行ってみないとわからないこともあるだろう。返事を待たずに歩き出すと、彼女は黙ってついてきた。二人は道路を渡ると、日陰になっている小道へ入る。湿気を含んだ微風が頬を撫でた。
 ホテルの前には何もなかった。やはり塀と電柱があるばかりで、隠れるような場所はない。ただ電柱の陰に身を潜めていれば、賑やかな通りからは死角になりそうだった。小道の奥からやってくる人に注意すれば、何とかなるかもしれない。
「これならどうにか見張っていられるかもな」
「誰も通りかからなかったらね」
 足を止めて塀に手をついた彼は、立ち止まった彼女の方を振り返った。彼女は辺りへと視線を巡らせている。誰かが近づいてくれば気でわかるのに、妙に不安げだ。彼は首を捻った。
「誰も来そうにはないだろ?」
「でも今、私たちは気を完全に隠してないわ。中にいる張本人には、ここに誰かがいるってことは伝わってるわよ」
 彼女はおずおずと彼を見上げてきた。なるほど、それもそうかと相槌を打つ。完全に気を隠していないのは、万が一姿を見られた時に不審に思われるのを避けるためだ。気を隠している人間はすなわち技使いに他ならない。だから一般人を装って弱々しい気に調整しているのだが、彼女の指摘は盲点だった。ホテルの前に二人の人間が居座っていることは、男には筒抜けということか。
「こんな所にずっといたら怪しまれるわよねえ」
 寂れた薄暗い路地に用のある人間などいるはずがない。けれども頷こうとした彼の脳裏に、不意に一つの妙案が浮かんだ。不思議がられない理由が一つだけあった。しかしそれを目の前の彼女に言うのは何だか憚られる。一瞬口を開きかけた彼は、そっと視線を外した。
「……どうかしたの?」
「いや、まあ。一つ案が浮かんで」
 彼が躊躇ったことに、彼女はすぐさま気づいたようだ。怪訝そうな声を耳にして、彼は微苦笑を浮かべる。
「案?」
「そう。男女が人目を忍んでこんな所ですることったら、まあ、一つあるだろう」
 言葉を濁した彼は、彼女へと一瞥をくれた。彼女はいまだに意図が理解できないといった顔で首を傾げていた。今の表現では伝わらなかったらしい。この手のことには鈍いのか。ため息を吐いた彼は、彼女が抱きしめている帽子へと手を伸ばした。
「つまり、恋人の振りをすりゃいいってことだよ」
 帽子を取り上げられた彼女はきょとりと目を丸くした。それから「ああ」と納得した表情で首を縦に振る。わずかに頬でも染めてくれたら十六歳の女の子としては可愛らしい反応だろうが、そうはならないのが彼女だ。それでも普段とは違って、やや頼りなげな色の双眸を向けられた。
「それなら確かに怪しまれないわね。でも私、具体的にどうすればいいのかわからないんだけど」
 正直な彼女の告白に、彼は噴き出すのをすんでのところで堪えた。変な唾の飲み込み方をしたらしく、数度咳き込む。窮屈な宮殿に閉じ込められてきた彼女が普通の恋愛を経験しているとは思っていなかったが、それにしても素直すぎる申告だ。眉根を寄せた彼は額を押さえながら、取り上げた帽子を彼女の頭に乗せる。
「それじゃあ、お前は動かなくていいから。……でも暴れて拒否するなよ」
 妙な気恥ずかしさと一種の苛立ちから、乱暴な言い様になった。複雑な心境だ。何かに落胆しているのは間違いなさそうだが、それ以上にどこかむずがゆい。一方、彼女は躊躇うことなく頷いた。仕事のためなら仕方がないとでも思っているのか。
 居心地の悪さを覚えて、彼はホテルの方へと視線を転じた。いつまでこうして二人でいればいいのかと考えると、気が重くなる。
 しかし幸いなことに、彼らが電柱の影に身を潜めている時間はそう長くはならなかった。おそらくはこんな場所に人がいることを訝しんだのだろう。辺りに黄昏の色が満ちる頃に、目的の気が動き出すのを感じた。彼は目で彼女へと合図を送る。
「梅花、来るぞ」
 塀にもたれかかっていた彼女へと耳打ちし、彼は再び帽子を取り上げた。相手の顔を確認するのにこれは邪魔だ。彼は帽子を彼女の胸元へと押しつけ、ホテル側へと背を向けた。彼自身の体と塀で彼女を挟み込むようにすると、右腕を細い腰に回す。
「見えるか?」
 軽く力を入れるだけで、彼女の体はあっさり腕の中に収まった。思っていた以上にか細い。彼女の背丈では、この状況だとホテル側は見えないのではないか?
「ぎりぎり。青葉、もうちょっと頭を下げて」
 肩口に吐息がかかった。彼が言われた通りに頭を下げると、甘い香りが鼻孔をくすぐる。人形のような少女でも女の子の匂いがするのだなと、そんなどうでもいい思考が頭の片隅に浮かんだ。余裕があるとも言える。それでも彼女はまだ視界が悪かったのか、小さく身じろぎした。指通りの良さそうな髪が頬に触れる。
「――来た」
 扉の開く音と共に、靴音が響いた。固唾を呑んだ彼は、気配が近づいてくるのを感じて意を決する。ここからが本番だ。怪しまれて人通りのある方に逃げられたら、次の機会はない。彼は回した右腕の力を緩め、そっと細い腰を撫で上げた。彼女が硬直するのがわかったが、かまわず脇腹まで手を伸ばす。すると抗議するように上着の襟元を掴まれ、彼は仕方なく耳元で囁いた。
「いいからおとなしくしてろよ」
 これならたとえ男に聞こえたとしても問題ないだろう。左手で彼女の頭をぽんぽんと軽く叩くと、襟を握っていた手から力が抜けた。同時にくたりともたれかかってきた華奢な体を、彼は慌てて右手で支える。顔が見えないので様子がわからない。やり過ぎたか?
「なあ」
 左手でそのまま長い髪を梳き、首筋に触れた。ぴくりと肩が小さく震えたのがわかる。青葉は近づいてくる男の気配に耳を澄ませながら、「見てんじゃねえよ」と悪態を吐く振りをした。近づいてきた男の足音が止まり、ついで舌打ちと共に遠ざかっていった。向かったのは大通りの方ではない。人気のない小道の奥だ。
「……青葉」
 再び襟を軽く引っ張られる。首に掛かった重さに彼が眉をひそめると、今にも擦れそうな囁き声が耳朶をくすぐった。
「確認できたわ、間違いない。合図したら離れて。私が技を使うから、青葉は走って彼を捕獲。お願いできる?」
 いつもの彼女だった。先ほどのは演技だったらしい。彼が首を縦に振ると、彼女の指先が襟から離れた。そして握られた拳がトンと軽く胸元を叩いてくる。合図だ。
 彼は腰へと回していた腕を解き、後方へと大きく跳躍した。一瞬だけ、彼女と目が合った。感情の読めない黒目がちな瞳はいつもと変わりないが、ほんのわずかに口角が上がっていた。見慣れていなければわからない程度の変化なのに、微笑んでいるように思えて鼓動が跳ねる。
 しかし動揺している暇はない。異変に気づき振り返ろうとした男へ、彼女は一歩を踏み出している。彼女の動きを横目にしつつ、青葉も男へと向かって駆け出した。白い帽子が道路に落ちるのが見える。伸ばされた彼女の右手から、薄水色の矢が数本放たれた。
「なっ――!?」
 男の悲鳴は辺りに響くことなく途切れた。放たれた矢は、男の右腕、胴、左足に直撃した。ぐらりと傾いだ体に向かって、青葉は走りながら右手を伸ばす。瞬発力には自信があった。男が地面に倒れ伏す前にかろうじて、片膝をついて支えることに成功する。
「よしっ」
 ぐったりとした男をそのまま後ろ手に拘束しようとしたが、すぐにその必要がないことに気がついた。目を瞑った男は眠っているように見えた。体にも力が入っておらず、青葉がいなければ体を起こしていることもできそうにない。もちろん、大怪我をしている様子もない。
「全部当たっちゃったわね」
 困惑していると、彼女が小走りで駆け寄ってきた。振り返った青葉は顔をしかめる。ほぼ無表情に戻った彼女を見上げ、彼は疑問を口にした。
「今の技は何なんだよ。こいつ動かないぞ」
「精神系よ。技使いなら、これくらいは耐えられると思ったんだけど」
 しゃがみ込んだ彼女は、目を開けぬ男の顔をのぞき込んだ。彼女の指先が額の黒子を叩くのを、青葉は不思議な心地で眺める。精神系という技の系統は耳にしたことがある。とはいえその程度で、どういった効果があるかはよくわかっていない。それだけ使い手の少ない珍しい種類の技だった。
「思いの外弱い人だったみたい。これだけで全く動けなくなるなんて困ったわね。背負えそう?」
「それは問題ないけど。目立つぞ?」
「酔っぱらいってことにでもしておきましょうか」
 ほんの少しだけ、彼女は苦笑した。酒を飲むには早い時間だと思うが、その辺りはどうとでもごまかすことができるだろうか。何はともあれこれで任務完了だ。安堵した青葉は男を背負おうと体勢を整えつつ、息を吐く彼女の横顔を見た。
「で、どこに連れて行けばいいんだ?」
「ゲートのところ。そこまで運んでくれたら後は大丈夫。私がやるわ。神魔世界にさえ行ってしまえば遠慮なく技が使えるからね」
 この無世界では、表立って技を使うことは許されていない。だが神魔世界では違う。技さえ使うことができれば、か細い彼女でも男を運ぶことは可能だった。逆に言えばこの世界ではどれだけ強い技使いでも、人目がある限りは無力に等しい。彼女の細い腕を見下ろし、彼は眉根を寄せた。
「本当にそれで大丈夫か? こいつ、起きて暴れたりとかしないか? その、お前は腕力ないんだし……」
「ええ、技が使えるなら平気。大体、私が特別非力なんじゃなくて、青葉の力が強いのよ」
 何かを思い出したように、彼女は瞼を伏せた。おそらく先ほど抱き寄せた時のことを言いたいのだろう。力などほとんどこめていないのだから、彼のせいではないと思うが。そもそも彼女の体は軽すぎる。筋力以外にも何か欠けているのではないかと疑るほどだ。
「オレは普通だって。お前、男慣れしてないなら気をつけろよな。動揺したら技だって使えないだろ」
 先ほどドキリとさせられた反撃のつもりで、彼はからかいの言葉を口にする。と、彼女はあからさまに顔を曇らせた。これほどわかりやすい表情の変化を見るのは初めてかもしれなかった。傷でも抉るようなことを言ってしまったのかと内心で慌てていると、彼女は小さく相槌を打つ。
「そうね、盲点だったわ。忠告ありがとう」
「いや、本気で受け取らなくても。大体、最初の仕事を片付けたんだからもっと喜んで――」
「帰るの、遅くなると思うの。宮殿から逃げ出した人を連れ戻したんだから、数日の話じゃあないわ。その間、アサキたちのことをお願いね」
 彼の言葉を、彼女は無理やり遮った。思いも寄らぬ話を耳にして、彼は思わず「え?」と聞き返す。今までも彼女は何度か宮殿に赴くために神魔世界へと戻っていた。しかしいつもその日の内に帰ってきた。今日もそうだと思い込んでいたが、違うらしい。
「す、数日じゃないって、嘘だろう?」
「嘘だったら私も嬉しいわ。でもきっとそうなるから、看病よろしくね。この手のことで宮殿に入ると身動きが取りづらいのよ。ごめんなさい」
 ここで爽やかに微笑まれたら嫌味だと思うところだが、彼女は真顔だった。もちろん冗談でもないだろう。さらなる試練が待ち受けている予感に、彼は苦笑いするしかなかった。これだから『上』が絡むと厄介なのだ。もたれかかってくる男の体が、妙に重く感じられた。

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