white minds 第一部 ―邂逅到達―

第二章「迷える技使い」1

 梅花が帰ってきたのは、世の人々が大型連休を楽しんでいる最中のことだった。人の来ない受付で暇をもてあましていた青葉は、それまでぼんやりと特別車を眺めていた。とりとめのない思考が頭に浮かんでは消え、また浮かび上がってを繰り返す。じんわり汗が滲むような陽気も、心地よい風も、遠くから聞こえる子どもたちの歓声も、それを邪魔しない。
「ただいま」
 だから待ち望んだ声が鼓膜を震わせても、すぐに意識が切り替えられなかった。声の方へと視線を転じて梅花の顔を確認してから、ようやく青葉の思考は働き始める。
「梅花!?」
「ずいぶんぼーっとしてたみたいだけど、大丈夫? 何かあった?」
 無表情ながらも案ずる言葉を掛けられて、青葉は瞬きを繰り返した。どうして彼女が戻ってきたことに気づかなかったのかがわかった。気だ。いつもはかろうじて普通の人間程度の気を残しているのに、今は完全に隠している。それ以外は見送った時と大きく変わりなかった。白い肌がより病的な青白さに思えるのは、日光を浴びていなかったせいだけではないだろうが。
「いや……ああ、あるにはあったな。またオレたちの偽物に襲われた」
 立ち上がった青葉は、梅花の後方にたたずんでいる人影に気づいた。不自然な距離だ。数十歩は離れている。灰色のフードを目深に被ったその男からは、気が全く感じられなかった。――つまり隠している。すると青葉の視線に気がついたらしく、梅花はちらりと後方を振り返った。
「後でちゃんと紹介するけれど、ラウジングさん。上の人」
 彼女は端的にそう説明した。上という響きに、思わず青葉は体を硬くする。無世界に上の者が来るとはどういうことなのだろう? それだけアースたちのことが気がかりなのか? 青葉はもう一度、その男――ラウジングの様子を確認した。フードのせいで表情はわからないが、物珍しげに辺りを観察しているようだった。青空の広がるこの公園では、いかにも怪しい風体に見える。
「おい、上が来るなんて聞いてないぞ」
「昨日決まったのよ。話なら私がするから気にしないで」
 青葉は声を潜める。梅花が上だとはっきり言い切る人物を、彼は初めて見た。多世界戦局専門長官ですら上ではないらしい。その線引きはどこでされているのだろう? 気にならないわけではないが、それよりもどう対応すべきなのかわからない方が困った。失礼があってはならないと思うが、あの怪しい人物を敬えるかどうか自信はない。
「まずはレーナたちと遭遇したところを見てみたいんだそうよ。私は場所がわからないから案内して欲しいんだけど」
「それならオレだな。二回ともだ。って今すぐ行くのか? アサキたちに伝えておかないと」
 本当ならもう少し後にして欲しいところだった。受付業務をアサキたちに任せるのはさほど問題にならないが、少しでも梅花を休ませてやりたい。だがあの怪しい上の者を待たせておくのもまずいだろう。人目もある。青葉は彼女の肩を叩くと、特別車へと向かった。出番のない三人はその中で休憩中のはずだ。
 談笑中だった仲間三人に事の次第を伝えると、青葉は元のテーブルへと戻って来た。その間に、離れていたラウジングも近くへやってきていた。軽く会釈をした青葉は、フードの陰に隠れていた顔を見て固唾を呑む。頬へとかかっている髪は深い緑色をしていた。瞳はそれよりもややくすんだ薄い緑だ。無世界ではもちろんのこと、神魔世界でも見たことのない色合いだった。
「ラウジングさん、彼が第十八隊シークレットのリーダー青葉です」
「そうか。私はラウジングだ。よろしく頼む」
 青葉が閉口していると、梅花がラウジングに向かってそう簡単に紹介する。ラウジングはフードの端を押さえながら頷いた。上だからといって偉ぶった態度ではないようだ。かろうじて「よろしくお願いします」と返した青葉は、凝視するのもまずいかと思い、梅花へと視線を向ける。彼女の横顔にはやや疲れが見えた。引き結ばれた唇の色も薄く、彼は思わず眉根を寄せる。宮殿ではあまり休めなかったのだろう。
「いきなりで申し訳ないが、早速案内して欲しいのだが」
「はい。いいわよね? 青葉」
 だがラウジングがすぐにそう希望してきたので、疑問を口にする隙はなかった。梅花もすぐさま移動するつもりらしい。仕方なく青葉は頷いた。ならばさっさと道案内を終わらせ、ラウジングには帰ってもらおう。その方が話が早い。ついてくるようにと目で合図し、青葉は歩き出した。遠くからまた子どもたちの楽しそうな声が響く。
「ラウジングさんは、こちらの世界は初めてなんですか?」
 沈黙が広がる前に手を打とうと、青葉は尋ねながら歩を進めた。彼の斜め後ろにいたラウジングは、小さく首を縦に振ったようだった。話し好きといった風には見えないが、無視されないだけ最悪な状況ではない。
「話には聞いていたが、実際に足を踏み入れるのは初めてだ。ずいぶん風変わりな場所だな」
 抑揚には乏しいが、好奇心を隠せていない声音だ。ちらちらと周囲を確認する眼差しからも、それはうかがえる。見慣れない髪色であることを除いては、別段変わった人だとは思えない。青葉は少し安堵しながら瞳を細めた。
「そうですよね。あの高い建物はビルって言うんだそうです。あれで倒れないというのが不思議です」
 無世界でよく見かける灰色の巨大な建造物――ビル。神魔世界にはそのような物がない。人の住める場所が減っているとはいえ、そこまで高さを必要とするほど土地には困っていなかった。空を飛び回る技使いの子どもに壊されては困る、という理由もあるのかもしれないが。
「本当だな」
 ラウジングがしみじみと同意する。反応だけなら梅花よりも好感触だと、青葉は内心で苦笑した。その梅花は、今は彼の真後ろにいる。先ほどからずっと気を隠した状態だが、軽い靴音は聞こえていた。必要時以外は喋りたがらない愛想の悪さはどうかと思うが、疲れているだろうから今は放っておく。
 その後もたわいない話を続けているうちに、目的の場所へと辿り着いた。先日初めてアースたちと遭遇した、公園奥の林だ。木々のさざめきが満ちた場所特有の、一種の静寂が心地よい。辺りを見回しても、イレイの光弾によって抉れた跡は見あたらなかった。誰かがならしたのだろうか。
「ここなのか?」
「そうです」
 ラウジングは視線を彷徨わせている。まるで何か手がかりがないかと探っているかのようだ。しばらく三人は黙り込んだ。その間に、犬を連れた壮麗の男が一度通り過ぎていった。不思議そうな顔で一瞥をくれていったが、踏み込んでは来なかった。ラウジングのフード姿がそうさせたのかもしれない。
 手持ちぶさたになった青葉は、横目で梅花を見やった。結ばれていない黒髪を風に揺らしたままにして、俯き気味にたたずんでいる。今にも倒れそうとまでは思わないが、どうも様子が変だ。声を掛けるべきか否か、彼は迷った。けれども彼が決断するより早く、顔を上げた彼女が口を開く。
「ラウジングさん、何かわかりましたか?」
 責めるでもなく訝しむでもなく、ただ淡々と問いかける言葉が辺りに染み入る。神妙な顔で振り返ったラウジングは、おもむろに首を横に振った。
「いや。空間の歪みも感じられないな。ここで実際に戦闘が?」
「戦闘というほどではないです。一度、技を使われただけです。後は結界ですね」
 ラウジングの疑問に、青葉はすぐさまそう答えた。技の使用に限ればそれくらいである。剣が地面にめり込んだりはしていたが、そこまで話す必要はないだろう。するとラウジングは怪訝そうに顔をしかめた。何故それだけですんだのか問いたいのだろうと察して、青葉はさらに説明を続ける。
「相手もどうしてだか騒ぎになるのは避けたいようでした。それはこちらも同じだったので、そうなったんです。別の場所で襲われたときは、あちらが亜空間を作り出してきました。突然連れ込まれるので、準備ができないのが厄介ですね」
 亜空間という響きに、あからさまにラウジングは反応した。わずかに眼を見開いただけではなく、顔が青ざめたのもわかった。視界の隅では、梅花も息を呑んでいた。どうやら青葉が思っていたよりもそれは重大な事実らしい。
「まさか……いや、本当にか。だとするとゲートではなく……いや、まさかな」
 腕組みしたラウジングが、尋ねるというよりは考え込むように呟き始める。あまりに深刻な表情をしているので、青葉の方が戸惑ってしまいそうだった。言葉を差し挟むことができず、立ち尽くしているしかない。何か問題でもあるのか?
「突然連れ込まれるってことは、居場所がばれてるってこと? 気は隠しているのに?」
 眉をひそめた梅花が青葉の方へと向き直る。青葉は肯定も否定もできずに唸った。気とは関係なく居場所が掴まれている、というわけではないと思う。亜空間に連れ込まれた後すぐに特別車を移動させたのだが、その後の奇襲はない。あれは偶然見つかっただけだったのか? それすらも定かではなかった。
「そうではないと思う。一度は見つかったけどな」
 一度あることは二度、三度ある。そんな風に考えると気持ちは重くなるばかりだ。弱い相手ならそう神経質になることもないが、アースたちは戦い慣れしていた。技の使用を封じられている青葉たちにとっては難敵だ。できれば見つかりたくないし、遭遇したくない。
「ただ、気の感知には優れていると思う。特にあのレーナとかいう奴は」
 そう答えてから、青葉はどんな表情をすべきかわからなくなった。自分と同じ顔をした人物への評価を、梅花はどう思っただろう? 以前にその名前については口にしていたから、梅花のことだからしっかりと覚えているはずだ。亜空間を作り出したのもレーナであると告げた方がいいだろうか? 先ほどのラウジングの驚き様を思い出すと、口に出すのが躊躇われる。
「そう、それは厄介ね」
 梅花は表情を変えず、そう答えただけだった。特別な感傷は抱いていないようだった。青葉は安堵する一方で、そこはかとなく気味の悪さも覚える。気を察知することにおいてならば、梅花の能力もずば抜けている。顔が同じというだけで、そんなところまで似るものなのだろうか? 技使いの能力に血は関係ないはずなのに。
「亜空間が作れるということは、亜空間の把握も優れているということだな?」
 それまで考え込んでいたラウジングが、急に話に割り込んできた。フードの下から覗く緑の瞳には、得体の知れぬ光が宿っている。答えあぐねて青葉は首を捻った。そんなこと、彼が知るよしもない。
「えーと、どうでしょう」
「その可能性は高いと思います。亜空間を生み出せるほどの集中力と能力があるなら。この世界はこの通り、神魔世界と違って結界だらけというわけでもないですし」
 だが間髪入れず、梅花が返答した。そこには確信にも近い響きが込められていた。青葉は瞠目する。「結界だらけ」とは何のことだろうか? 神魔世界で暮らしていた頃も、青葉はそのように感じたことはなかった。しかし疑問に思ったのは青葉だけのようで、ラウジングは神妙に首を縦に振っている。
「そうだな、この世界は見晴らしがよい。変化に気づきやすい」
「ラウジングさん、何かいい案が思いついたんですか?」
 勝手にわかり合って話を進めないで欲しい。文句を言いたいところだったが、青葉はぐっと堪えた。宮殿にいた者にとっては常識なのかもしれないと思い直す。あの息苦しい場所に限ってのことなら、彼も納得できた。あそこには妙な気が溢れかえっていて、方向感覚さえ乱されやすい。
「では、おびき寄せるのはどうだ?」
 相槌を打ったラウジングが告げたのは、思わぬ提案だった。おびき寄せるというのはどこにだろう? 青葉が眉間に皺を寄せていると、はっとした梅花は一度辺りを見回した。何を確認したのかはわからないが、ついで恐る恐るといった様子で疑問を口にする。
「それは、まさか亜空間に?」
「ああ、そうだ。適した亜空間について聞いたことがある。この無世界からも繋がっていたはずだ。お前たちがこぞってその亜空間へと飛び込めば、相手は気づくだろう」
 つまり神技隊を囮にして亜空間に誘い出そうということか。確かに、相手のペースに巻き込まれているよりはましだ。いつ襲われるかわからないから困るのであって、来るとわかっていれば対処法もある。何より対応する人数が違う。
「そんな空間があったんですか」
 梅花は若干呆れ混じりの声を漏らした。囮にされることよりも、そちらの方が彼女には重要らしい。やや視線を下げたラウジングは苦笑した。フードからはみ出した深緑の髪が、かすかに震える。
「いつか調べなければと思っていたところだ。ちょうどいい。早速、戻って許可を取らなければな」
 その案を採用することが、ラウジングの中では決まっているようだった。青葉たちが口を挟む余地もない。上の提案は絶対ということなのか? 拒絶されることなど考えていない様子に、暗雲とした感情が湧き起こる。上の者というのは皆こうなのだろうか。
「わかりました。それでは許可が出るまでは待機ということですね。他の神技隊にも通達しておきます。いつになりそうか目処は?」
「明後日を予定している。今日中には決定の連絡を伝えよう」
 青葉が押し黙っている間に、どんどん話は進んでいった。こういった流れにも梅花は慣れているのだろう。戸惑う素振りもない。明後日にはその怪しい亜空間に出向くとなると、ずいぶんと急な話になる。とはいえ、襲われている頻度を考えれば早いに超したことはなかった。また明日にでも奇襲されかねない。
「それでは連絡をお待ちしてます」
 頷いた梅花は、ちらりと青葉の方へ双眸を向けてきた。感情が読み取りにくい眼差しだが、何となく注意されているような気になる。不満が顔か気にでも出ていたのか? それでも青葉は素知らぬ振りをして「よろしくお願いします」とだけ返した。ラウジングはその返事を待つや否や、踵を返す。一刻でも惜しいと言わんばかりだった。遠ざかっていくフード姿を青葉はじっと見送る。
「行っちゃったな」
 灰色の背中が見えなくなったところで、青葉は呟いた。会話が途絶えたせいで、木々のさざめきが大きくなったように感じられる。長居にならなかったことは幸いだった。これでゆっくり梅花を休ませることができる。青葉は仲間たちのもとへ戻ることを促そうとし、だが思いとどまって梅花の方を振り向いた。
「上ってみんなあんな感じなのか?」
 素朴な疑問だった。淡々としているようでいて傲慢さが垣間見える態度は、正直心地よくはない。何気ない言葉の端々が引っかかる。しかし梅花には何を言いたいのか伝わらなかったようで、不思議そうに小首を傾げられた。
「あんな感じってどんな感じよ。私がまともに言葉を交わしたことがある上の方っていうのも数人くらいのものだけど。はっきり言って個性豊かよ。ラウジングさんは驚くほど普通ね」
 梅花の目にはラウジングはそう映っていたのか。あれを普通と称したくなるほど、他の者は変わっていると? 青葉は空を睨み上げた。宮殿で見かける者たちの大半は苛立ちと生真面目さと一種の諦めを共存させてていることが多かった。しかし個性的とは言えない。青葉が見かけた中には『上の者』はいなかったのか?
「あれが普通なのか……」
「態度について言いたいのだったら、それもそうよ。上と、上に関わる人たちの意識なんてあんなものよ。神技隊やってたらわかるでしょうけど」
 わずかに微苦笑を浮かべた梅花は、ゆっくり歩き出した。「上の命令は絶対だから」と囁いた声が、柔らかな風に乗って運ばれていく。彼女がそう思っていないのは明らかだった。彼女がその「絶対」を無視してきたところを、青葉は何度も見ている。
「おい、梅花」
「帰りましょう。アサキたちがきっと心配してるわ」
 風になびく黒髪へと、青葉は手を伸ばした。指先は空を掴むだけ。隠されたままの彼女の気は何も告げてこない。桜色のワンピースに包まれた華奢な背中を、慌てて彼は追いかけた。今になってはたと気づく。普通の人間を装うだけの余力がないから、気を全て隠しているのではないかと。
「梅花、帰ったら休めよ」
「そうはいかないわよ。他の神技隊にこの件のことを知らせておかないと」
「それはオレたちがやるからお前は休め。大体、ラウジングさんから連絡が来てからの方がいいだろう? 二度手間になるし」
 か細い梅花の肩を、青葉は軽く叩いた。彼女は決して疲れたなどとは言わないし、休みたいとも希望しないだろう。無理をすることは彼女にとっては当たり前のようだった。いや、宮殿ではと言うべきか。あそこは彼の常識が通じない世界だ。
「……それもそうね。中途半端な情報を伝えてやきもきさせるのも悪いし」
 幸いにも、梅花はそう納得してくれた。安堵した青葉は肩から手を離すと、おもむろに彼女の隣に並ぶ。宮殿で待機させられただけなら、これだけ疲れるわけもないだろう。何かあったのか? しかし尋ねても答えてくれないだろうという確信が、彼の内にはあった。何でも打ち明けてくれるような距離までは近づけていない。秘密の多い宮殿内部の話はなおさらだ。
 ままならぬことばかりで、ため息を吐きたい気分だった。それでも感情が気に表れないように、努力することだけは怠らなかった。

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