white minds 第一部 ―邂逅到達―

第三章「望みの居場所」3

「妙な気配、消えたわね」
 街灯の下で立ち止まった梅花は、息を吐いて辺りを見回した。囁き声は微風に乗って瞬く間に消えていく。夜風に揺れる長い髪を、彼女は指先で押さえた。
 無世界へ戻って来た梅花は、帰路の途中に違和感を覚え、気を探っていた。確かに何かがあったはずなのだが、それも今し方なくなってしまった。手がかりが完全に消え失せてしまっては、どうしようもない。彼女は肩を落とした。確かなものが何も得られないことばかり続いていて、正直疲れていた。呼び出されて向かった宮殿でもそうだった。リューから告げられたのも、「近々重大な話が行くかもしれない」という曖昧なものだった。それならば何故今呼び出したのかと、問いかけたくなる。
「急に言って驚かれたら困るってことなんでしょうけど」
 しかし呼び出される度に気構えていく梅花の身にもなって欲しい。ゲートを使っての移動を繰り返すことは、彼女にとってはさほど苦ではない。だが宮殿に入るのは別だ。あそこの空気は毒のようだった。じわじわと体を浸食し阻んでいく、たちの悪い毒。あの空間に身を置いていると息苦しさを覚える。ずっと暮らしていた場所ではあるが、一度離れるとその重さがいっそう強くのしかかってきた。あんな空気でも慣れるものなのだと、今さらながら実感する。
 宮殿内と比べたら、この無世界は実に軽やかな空気で満たされている。若干「薄さ」を感じないわけではないが、それでも常に突き刺さるような負の感情に満ち溢れていないだけましだ。
 知らぬ間に瞼を伏せていたことに気がつき、彼女は顔を上げた。屋根と屋根の間から見える藍色の空には、うっすらと雲がかかっている。星の瞬きは、神魔世界で見たものよりは弱々しい。明かりが多いためだというのはわかっていた。夜空さえ、そこはかとなく薄い。
「……帰らなきゃ」
 梅花は独りごちた。気を隠しているから、無世界に戻って来たことに青葉たちは気がついていないはずだ。しかし遅くなれば文句を言われる可能性が高い。彼らは心配性なので、彼女が単独行動することをやけに嫌っていた。最近は上に呼び出されると一日以上拘束されることも多いので、早く帰ってこいと耳が痛くなるほど注意される。彼女の意志でどうにかなる問題でもないのだが。
 嘆息した彼女は踵を返した。だが白いスカートが揺れるのが目の端に映り、つと立ち止まる。昼間の会話が、不意に脳裏をよぎった。久しぶりに宮殿で旧知の『青年』と顔を合わせた時のことだ。よほど意外に思ったのか、彼は目を丸くしていた。
「スカートなんて、珍しくなかったと思うんだけど」
 ぽつりと漏れた声が夜風に流されていく。膝丈の白いワンピースにボレロという、特段変わったところのない服装だ。しかしスカートの裾がどうだのシルエットや色合いがどうだのと言いながら、全身を観察された。挙げ句の果てには恋人ができたのかと問われた。そんなことがあるはずないのに。
 思い返せば、リューも当初は驚いていたものだ。無世界で何があったのかと幾度となく尋ねられたこともあった。最近でこそ慣れたらしく何も言ってこないが、長いことやたらと気にしていた。「持ち腐れがついに……」などと、今でも時折口走っている。
「確かに無世界の服は凝ってるけど」
 ボレロの裾を摘み、梅花は独りごちた。喫驚する原因がそこではないことはわかっている。リューたちは単に、服装から梅花の何らかの変化を読み取ろうとしただけだ。実際はたぶん、さほど変わってはいない。着飾ることに気恥ずかしさを覚えることはあっても、楽しいとは思えない。むしろ、内面との差に気が重くなるだけだ。
 大きく息を吐いた彼女は、ゆるりと顔を上げた。と、前方に気を感じた。普通の人間程度の気を装っているが、違和感がある。どこかしら覚えがあった。しかしこの世界に梅花の知り合いはいない。
 神技隊は気を隠しているはずだから、それ以外の人間には間違いない。梅花は眉根を寄せながら歩き出した。できる限り靴音を殺しながら前へ進む。気を隠した状態で姿を見られたら、こちらが技使いであると名乗っているようなものだ。だからといって今から急に気を少しだけ出すというのも怪しい。
 しばらく進むと、気の持ち主らしい人物を見つけた。小さなスーパーの前でたたずんでいる女性だ。買い物袋の中を睨みつけて、何か思案している様子だった。肩ほどある髪が風に揺られているせいで、顔立ちははっきりとは見えない。二十代くらいだろうか。これ以上近づくと気づかれる可能性があるため、梅花は脇にある駐輪場側へと回った。姿は見えなくなるが気は追える。
 一体どこで感じたのだろうか? しばらく考え込んでいると、女性が動き出そうとする気配を感じた。悩んだ梅花は意を決すると、もう一度女性が見える位置まで移動する。彼女はまだ買い物袋を見つめていたが、何かを諦めたらしく、小さく首をすくめた。そしてこちら側へ向き直った。
 咄嗟に梅花は姿を隠した。気づかれてはいないと信じたい。靴音が徐々に近づいてくるのを、彼女は息を潜めながら待った。すると幸いなことに、女性はそのまま道なりに歩いて行ってしまった。遠ざかる後ろ姿を少しばかり見送ってから、梅花は胸を撫で下ろす。どうやら見つからずにすんだようだ。
「まさか、ね」
 梅花はそろそろと元の道へ戻り、小さくなった女性の背中へ一瞥をくれた。くるぶしまである長いスカートを揺らして去っていく女。その顔を、一瞬だけ梅花は見た。自分とどこか似ていたが、レーナではなかった。そもそも、レーナだったらもっと鮮烈で透明な気を放っているはずだ。さすがに気の特徴を偽ることは無理だろう。
「でも神技隊がこの辺にいるのは、きっと昔からよね。いてもおかしくはないのよね」
 囁くような声は、おそらく誰にも聞こえなかったはずだった。梅花がその場にたたずんでいると、スーパーから出てきた親子の賑やかな声が鼓膜を揺らす。いつの間にか握りしめていた拳を、彼女はゆっくり解いた。この瞬間を予想していなかったわけではないが、いざその時になると動揺するものらしい。
『お母様』
 唇を動かすだけで、音にはならなかった。自分とよく似ていて、かつレーナではないとなると、そう考えるのが自然だ。赤の他人の可能性も皆無ではないが、母であれば気に覚えがあると思った理由にも納得がいく。
 母――ありかは、第二隊クラッチーズの一員だ。派遣されたのは梅花がまだ赤ん坊の頃だった。母に関する記憶は周囲から伝え聞くばかりで、よくわからないことの方が多い。ただ梅花が成長するにつれて「似ている」と言われることが増えたから、それは間違いないだろう。
 第一隊として派遣された父については、ほとんど情報が残っていないといっても過言ではない。父がヤマトを出て宮殿に住んでいたのは、ほんの数年のことだ。関わっていた人も限られている。
 神技隊としての活動の記録は、多世界戦局専門部に残されている。しかしその後のことはわからない。父と母は今も一緒にいるのかどうかさえ、はっきりとしなかった。リューは調べようかと何度か尋ねてくれたが、その度に梅花は拒否をしてきた。調べるということは、接触するということだ。宮殿側からの干渉を喜ぶような人間はいない。
「どうしよう」
 呟いた言葉は、賑やかな親子の会話に掻き消された。自分でも何に戸惑っているのかよくわからない。会いたいと思っていたわけではないし、会ったところで何を話していいのかもわからない。ただ、万が一ばったり顔を合わせてしまった時のことを考えると悩ましかった。母がこの辺りに住んでいるのだとしたら、その確立は決して低くはない。
 しばし逡巡した後、梅花は帰路につくことを決めた。動揺したままでは話にならないし、レーナたちにも注意を払わなければならない時期に、自分を揺るがすような行動は自殺行為に近い。
「もしばったり会ってしまったら、その時はその時よ」
 自分に言い聞かせるような言葉には、苦笑が滲む。近くにいたのは今までだって同じだ。それでも遭遇せずにすんでいたのだから、これからもそうかもしれない。仲間たちのいる公園に向かって、梅花は少しずつ歩調を速めた。



 世界は朝を迎えようとしていた。風は緩やかだが時折洞窟へと吹き込み、適度な気温を保っている。一睡もすることなくひたすら岩壁にもたれかかっていたアースは、待ちわびた気配が近づいたことに気がついた。気は隠されているためあの鮮烈な空気は感じ取れないが、砂を踏む足音が聞こえる。
 海沿いには驚くほど多くの洞窟が存在しているが、ここらには人も生き物も見あたらない。そのうちの一つを彼らは使用していた。人気がないのは、空間の歪みのせいらしい。技使いならともかく、普通の人間が足を踏み入れられる様な場所ではないという話だ。
 似たような洞窟が並んでいるはずだが、足音は真っ直ぐこちらへ近づいてくる。まだ眠りの中にいるカイキたちが目を覚ます気配はない。アースは岩壁から背を離し、洞窟入り口の方を見やった。
「遅い」
 音が止まるやいなや、アースは一言だけ口にした。朝日を背に洞窟内を覗き込んだレーナは、彼の顔を見て微苦笑を浮かべる。尾のような髪がたおやかに揺れて、その影も踊った。
「アース、起きてたのか」
「いいからこっちに来い」
 長いこと座り込んでいたせいで、体も凝り固まってしまったようだ。少し首を巡らせただけで音が鳴る。アースは眠っている仲間たちへ一瞥をくれてから、自分の横を指さした。彼女は少しだけ躊躇った後、おずおずと近づいてくる。
「ええっと」
 何か言いづらそうに視線を逸らしながらやってきた彼女の腕を、彼は無言で引っ張った。強制的に座らせられた彼女は、恐る恐るといった様子で彼を見上げてくる。怒られるようなことをしているという自覚はあるらしい。ならば控えればいいのにと、何度思ったことか。彼は内心で嘆息しつつ、彼女の手を離した。
「寝ていろと言ったはずだが」
「……そうだな」
 出かける直前のことを、アースは思い出す。夕刻のことだ。無世界に行くから休んで待っていろと言い残して、彼はカイキたちと一緒にこの洞窟を出た。彼女が頷いたのも確認した。それなのに彼らが帰ってきた時、彼女はいなかった。苛立ちと共に待てども待てども戻ってこない。結局、こうして朝を迎えてしまった。
「休んでいろと言ったよな?」
「うん、寝ていた。休んでた。そして起きただけだ」
 やや凄味をきかせすぎたと思うような声音にも、彼女は動じなかった。気安い相槌と共にそんな言葉が返ってくる。彼は思わず脱力しそうになった。自分の膝を指で叩きながらため息を吐く。
「じゃあどこへ行ってたんだ?」
 問いかけても、彼女は微苦笑を浮かべたまま黙っている。視線が合わないようにとわずかに逸らし、どう言い逃れするか考えているように見えた。彼女が嘘を吐かない限り、無駄な抵抗なのだ。逃げ場がないとわかっているのに諦めが悪い。それとも、彼女が逃れたいのは別の何かからなのだろうか?
「神技隊のところか?」
 仕方がないので彼が代わりに答えをくれてやる。彼女はわずかに眉尻を下げると、ちらりとだけ彼を見た。怒られるのに怯えている子どものような反応だが、彼女はそんな可愛らしい存在ではない。結果がわからず行動しているわけがなかった。全てわかった上で選択しているのだから厄介だ。心配されることも、怒られることも予測していて、それでも止めない。
「……そうだ」
「お前はどうしてそんな無茶をするんだ?」
 肯定が返ってきたところで、彼は語調を強めた。片膝を立ててずいと詰め寄ると、彼女は右手を後ろについて少しだけ距離をとる。彼は瞳をすがめて彼女の左手を取った。白くて細い指先は、強く握れば折れてしまいそうに見える。この手があんな武器を、技を生み出すのかと思うと、いつも不思議な心地になった。
「この手も治ったばかりだろうが」
「あ、いや、戦ってないし。その、心配してくれるのはありがたいけど、大丈夫だから。平気だから、その……」
 彼は握った左手を引き寄せて、間近から顔を覗き込む。普段は鷹揚とした態度を崩さない彼女も、こういう時ばかりはたじろぐから不思議だ。それでも結果には結びつかないから困る。全く響かない。相変わらずの微苦笑を続ける彼女に、どんな言葉を投げかけたらいいのか。
 何度注意しても彼女は無理をしようとする。おそらく彼女にとってそれらは無理の範疇に入っていないのだろう。出会った当初の言動を振り返れば、頷けることだった。死の可能性が低い範囲の行動は全て「大丈夫」で済まされる。それでも同じことを続けていいとは、彼には思えなかった。
「一体どの辺りが大丈夫なのか説明しろ。少しでも精神を回復させなければならないんだろう?」
「そうだけど、でも一人じゃ寝てられないし」
「お前は子どもか」
 疲れを覚えた彼は、彼女の手をそっと離した。握られていた左手をさすりながら、彼女は困ったように小首を傾げる。仕草一つ一つが可愛らしいだけにたちが悪かった。これだからイレイたちも甘い言葉を掛けてしまうのだ。彼女のためにはならないのに。
「――戦っていないのなら、こんな朝方まで何をやってたんだ?」
 仕方なく質問の方向性を変えた。大きな目を瞬かせた彼女は、ふわりと花が咲くように微笑む。心臓を掴まれたような心地になる笑顔から、彼は慌てて目を逸らした。すると穏やかな彼女の声が空気を震わせる。
「オリジナルたちの様子を見ていた」
 彼女は梅花たちのことを語る時、いつもこんな顔をする。普段から微笑んでいることは微笑んでいるのだが、別のほころばせ方をする。その表情を直視するのは非常に困難なことだった。幸か不幸か、彼女にはそんな顔をしている自覚がないらしい。
「まさか、夜の間ずっとか?」
「うん。見ていたというか感じていたというか。オリジナルの気が不安定だったからな。気になって」
 何気ない彼女の言葉に違和感を覚え、彼は顔をしかめた。そして首を捻りながら彼女を横目に見る。真正面からでなければ耐えられそうだ。
「神技隊らは、全員気を隠しているはずだろう?」
 彼は立てた膝の上に肘を置き、昨夜のことを思い返す。アースたちの突然の襲撃を恐れ、神技隊らは気を隠して生活しているはずだった。だから感じ取れるはずがないのだ。
「うん、隠しているな。でもオリジナルのはわかる」
「はぁ?」
「どんなに隠していても、存在そのものの波長は変えられない。同じ空間にいればわかるよ」
「……はあ?」
 彼女の説明は理解しがたいものだった。たまに彼女はこんな言葉の使い方をするから困る。この手の話になると、どんなに噛み砕いて説明してもらっても、納得するには到らない。そもそもの感覚が違うのだろう。彼女が何者なのかわからなくなる瞬間だった。――いや、わからないのは彼自身についても言えることか。
「それはつまり、あちらにもお前の波長が伝わる可能性があるってことじゃないのか?」
 かろうじて理解できた話を、彼は問いかけてみる。すると彼女は何故だか楽しそうに頷いた。頬に振れた髪の先を払ってから、胸元で両手を合わせる。
「そうだな、それだけは避けられまい。ただ、まだオリジナルはこれがわれの波長だと気づいてはいないだろう。感じ取れるようになるにはもう少し時間がかかると思う」
 彼女は気を隠しているから、そこから感情は伝わってこない。それでも心底嬉しそうだというのは見ていればわかる。幸せで仕方ない者の顔だ。彼は段々怒っているのも馬鹿らしくなり、片足を投げ出して岩壁にもたれかかった。待ち疲れて体が重い。
「……アース?」
「もういい。だが今日はどこにも行くなよ。出歩いた分しっかりと休め。いいな」
 顔を背けたままうんざりとした声を出し、彼は再度彼女の手を掴んだ。彼女は首肯したようだった。逃げ出さないよう腕を引き寄せると、怖々と寄り添ってくる。こういう時どうにか離れようと静かに抵抗していた過去を思えば、ずいぶんと軟化したものだ。いや、それは彼も同じか。
 結局は彼もこうして許してしまうのだから、イレイたちのことは言えないかもしれない。息を吐きながら目を瞑ると、「ありがとう」という囁きが鼓膜を揺らした。彼は何も答えず、ただ瞼の裏で朝日を感じた。

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