white minds 第一部 ―邂逅到達―

第五章「打ち崩された平穏」5

 何故青葉たちには気の集まりが感じ取れなかったのか。それは森の中を進んでいくにつれわかった。あるところを境に、急激に結界の気配が濃厚になった。『晴れ渡っていた』のが嘘のようにどんよりと曇り、妙な気配が辺りに満ちる。この先に誰かがいたとしても、明瞭に把握できるわけがなかった。
「こっちの方はひどいねぇ」
 先ほどまで陽気に鼻歌を奏でていたようでさえ、沈んだ声を出し始める。アサキとサイゾウに至っては先ほどからずっと無言だった。漂う気配と空間の歪みから来る圧迫感のせいだろう。青葉もどことなく体が重くなったような錯覚に襲われている。
 ようまで口を開かなくなると、痛々しい沈黙が辺りを覆った。単調な靴音に、時折葉擦れの音が混じるくらいだ。ますます息が詰まりそうになり、青葉は片眉を跳ね上げた。この息苦しさは何なのだろう。気持ちの問題か、はたまた歪みのせいなのか。
 と、不意に梅花が足を止めた。よそ見をしていた青葉は、その背にぶつかりそうになり慌てて立ち止まる。だが文句をつける気にはなれなかった。彼女から張り詰めた緊張感が如実に伝わってくる。彼は固唾を呑んだ。
「……梅花?」
「気配が、あるんだけど。妙ね。何かおかしいの」
 辺りをうかがう梅花の言葉が、途切れ途切れにしか聞こえない。説明するというよりもほぼ独り言だ。いつも以上に精神を集中させているに違いなかった。青葉もそれに倣い、意識を研ぎ澄ませる。
 いや、そうしようとしたところで忽然と異変に襲われた。ぐんと体を引き延ばされるような錯覚に陥り、目眩に襲われる。
「まずいわっ」
 しかしふらついている場合ではなかった。弾かれたように走り出そうとする梅花の手を、青葉は咄嗟に掴む。ほとんど反射的な行動だった。反動で腕の中に倒れ込む形になった彼女を抱き留め、彼は瞳をすがめる。
「おい――」
「見てあそこ!」
 それでも不平も言わず、梅花は右手を指さした。青葉が視線を向けると、深い緑に覆われた世界でちらとだけ白く瞬くものが見える。布のようだった。それが何者かの後ろ姿であることに思い至ると、急に血の気が引いていく。神技隊の誰かではない。ラウジングたちでもなさそうだ。
「危ないわ。あっちにはスピリット先輩たちが」
 どうも音の聞こえが変だ。耳に水が入った時とも微妙に違う、妙なこもり方をしている。それでも梅花の言葉はどうにか聞き取れた。青葉は奥歯に力を入れると、背後にいるアサキたちの様子をうかがう。倒れそうになったようを、アサキとサイゾウが支えているところだった。動揺はしているが、まだすぐに動き出せる体勢だ。青葉は意を決して息を吸い込み、声を張り上げる。
「走るぞっ!」
 叫びは三人にも届いたと信じる。走りにくさには目をつぶり、青葉は梅花の手を引いて駆け出した。風や音の響き方は妙だが、幸いにも踏みしめた土の感触は今まで通りだった。これなら転ばずにすみそうだ。青葉は草を掻き分けつつ、前へ前へ進んでいく。だが白い後ろ姿は見当たらなかった。
「青葉、手離して」
「え?」
 梅花が口にした言葉が頭に入るより早く、彼女はあいている方の手を前方へ伸ばした。同時に、細い指先から技が放たれる。それは空気の流れを制御するものだったらしい。前方から吹き付ける風が弱まり、伸び放題の下生えが自然と左右へ分かれた。何が起こったのか理解するのは簡単だが、やってのけるのは難しい類の技だ。
「リン先輩の真似よ」
 青葉が何か言いたげなことに気づいたのか、梅花はそう独りごちて前を見据えた。そこでようやく彼女の手を解放した彼は、頷きながら速度を上げる。道ができたおかげでかなり走りやすくなった。それでも先ほど見た怪しい白い姿は見当たらないが。
 視界が開けたのは、まもなくのことだった。見覚えがある――いや、それよりも大きいか――泉の前に、スピリットとピークスの姿が見えた。ここまで来れば青葉でも彼らの気が感じられる。
 それはあちらも同じであるはずなのに、青葉たちの方を振り向くことはなかった。呆然とした顔で左方を見上げたまま硬直している。速度を落とした青葉は、皆の視線を追うように左へ双眸を向けた。
「……え?」
 また視覚がおかしくなったのかと、青葉は瞬きをした。それでも目に映るものは変わらない。隣に立った梅花が息を呑むのがわかり、それでようやく自分が目にしているのが現実の光景だと確信できた。
 巨木がひび割れていた。そうとしか彼には表現できなかった。自然にできたものとしてはあり得ない大きさ、角度に幹がざっくりと切られている。いや、刃物で切ったのならこんな風にガタガタにはならないだろう。幼い子どもが紙をくり貫こうとして鋏を用いたときの、失敗作を連想させた。
「青葉、どうしたんでぇーす――」
 追いついてきたアサキの、疑問の声も不自然に途切れる。揃わぬ足音が止むと、揺れる木々の葉の悲鳴だけが周囲を埋め尽くした。
「空間が、裂けてる」
 現状を最も端的に告げたのは梅花だ。その声でようやくスピリットやピークスも、青葉たちの存在に気づいたようだった。ぎこちない動きで振り返ったリンと目が合う。
「誰かの後ろ姿が見えたと思ったら、急に」
 どうやら視線で問いかけていたらしい。説明しようとするリンの声に、異音が重なった。まるで硝子がひび割れた時のような、耳障りな音だった。薄い氷を踏んだ時の音にも似ている。高音で軽く、それなのに不安定な気持ちにさせる音。青葉は固唾を呑みながら眼を見開いた。幹の亀裂はどんどんと広がっている。その向こう側は重く暗く、濁った色をしていた。
「――来る」
 梅花が構えた。と同時に、轟音が鼓膜をつんざいた。幹から吹き付けてきた風は、全てのものをなぎ倒そうとした。かろうじてその場に留まった青葉は、腕を掲げて顔を庇う。片目を開けているのが精一杯だ。涙で歪んだ視界の中、ひしゃげた木の向こうに何者かの姿を認める。
 初めはただの黒い影に見えた。しかし次第にそれは人らしい姿をなしていく。濁った闇の中からぬらりと輪郭が露わになり、そこから気が膨らんでいった。青葉は瞳を瞬かせて、生理的に滲んだ涙を目尻へ追いやる。
 ひび割れた幹をまたぐようにして近づいてきたのは、若い男だった。緩く波打つ漆黒の髪は肩ほどまであり、それが深緑の上衣と相まって黒く見えていたらしい。瞳も黒いが、肌は白い。中肉中背の青年のように見えた。無論、そんなところから現れるのだからただの人間ではないだろう。
 風は緩やかに収まっていく。腕を下ろした青葉は、周囲へざっと視線を走らせた。片手を上げた状態で膝をついていた梅花は、どうも結界を張っていたらしい。その痕跡が感じられる。スピリットとピークスの方も、誰かが結界を張ったおかげで難を逃れたようだ。梅花の警告が効いたのかもしれない。
「ほう、これはこれは」
 木の中から出てきた青年は、物珍しげな様子で辺りを見回した。半分壊れた防具のような物を身につけている点は奇異だが、それ以外は普通の人間のように見受けられる。――気を除いては。
「妙な輩ばかりですね。……人間ですか」
 風の止んだ森の中で、落ち着いた男の声が反響する。青葉たちを「人間」と呼ぶのだから、やはりこの青年は人ではないのだろう。きっとラウジングたちのような存在だ。人間とよく似ているが、そうではない存在。
「それに、神も潜んでいるようですね」
 青年はふふっと笑った。彼の纏う気に、背筋をぞくりとさせる冷たい感情が滲んだ。青葉たちに向けられたものではないはずなのに、突き刺さるような憎悪を感じる。彼は以前梅花から聞いた話を咄嗟に思い浮かべる。この男はおそらく――魔族だ。
「お出迎えご苦労様です、人間たち。私は魔獣弾まじゅうだんと言います。お見知りおきを」
 涼しげな笑顔で会釈した青年は、上機嫌なようだった。放つ気はひたすら冷たいというのに、そこに喜びが含まれているのは明らかだ。青葉は不意にラビュエダのことを思い出した。どことなくこの気の雰囲気が似ている。うまく言葉では説明できないが、共通点を感じる。
「ま、じゅう、だん?」
 誰もが黙り込む中、リンが何やらぎこちない口調でその名を繰り返す。引っかかるところがあるらしい。青年――魔獣弾は興味深そうな眼差しでリンの方へ一瞥をくれた。
「そこの人間、何か?」
「……似たような響きの名前を、聞いたことがあって」
 率直に尋ねる魔獣弾へと、リンは躊躇いながらもそう口にした。得体の知れない相手でも言葉を交わしてしまう度胸はさすがと言うべきか。青葉は息を呑みつつ様子を見守った。少なくとも現時点では、魔獣弾には攻撃してくる素振りがない。「ほう」と好奇心をのぞかせた声を漏らすのみだ。
「似たような、ですか」
「挫漸弾って」
「ああ、挫漸弾! 彼は私の……言うならば兄弟みたいなものです。いや、先輩ですかね? 彼は残念ながら半魔族としては失敗例ですが」
 戸惑いつつもリンが出した名前に、魔獣弾は反応した。青葉には聞き覚えのない名だったが、今はそんなことを気にしている場合でもないか。それよりも今の発言で確定したことの方が重大だ。やはりこの青年は魔族だ。
「しかし挫漸弾にも会っているとは、ただの人間ではないようですね。興味深い」
 魔獣弾は自身の言葉を噛み砕くように、神技隊の顔を一人ずつ見つめてくる。早鐘のように打つ鼓動を意識しながら、青葉は密かに拳を握った。誰もが動くことができない。まるで金縛りにでもあったように、身じろぎもできなかった。もし魔獣弾が攻撃してくるようなら結界を張ろうと、かろうじてその心積もりをするくらいだ。
「なるほど、人間の技使いですか」
 相槌を打った魔獣弾は、何事かひらめいたのか瞳をすがめた。悪巧みをする子どものような輝きがその双眸に宿る。無論、思いついたのはそんな可愛らしいものではないだろう。
「これは好都合ですね。あれを試してみたかったんです。……しかし、その前に、片付けないといけない方たちがいます」
 笑みを深めた魔獣弾の、眼光の鋭さが増した。だがそれが向けられたのは、青葉たちの方ではなかった。誰もいない背後の茂みへと、首を捻った魔獣弾は視線を転じる。
「そんなところに隠れてないで、出てきなさい! 神よ!」
 嫌悪の滲む叫びについで、魔獣弾の手が動く。その指先から生み出された黒い光弾が、深い緑の茂みへと放たれた。向こう側から響いたのは悲鳴だ。本当に誰かが潜んでいたらしい。
「それで気を隠しているつもりですか、小賢しい。あなたたちの気配に我々がどれだけ過敏か、まさか忘れたとは言いませんよね?」
 魔獣弾の口角が嫌みたらしく持ち上がる。ちらと青葉が横目で見遣れば、緑の向こうから男たちが転がるように飛び出してきたところだった。そのうち一人は右腕を抱え込んでいる。先ほどの光弾が直撃したのは彼だろう。皆が皆、上下揃いの白い服だ。青葉たちが先ほど見かけたのは彼らのうちの一人に違いない。魔獣弾の言葉を借りれば、神ということになるか。
 白い男たちは何も言わなかった。ただ、彼らの纏う気には怒りが混じっていた。魔獣弾が再び技を放とうとする気配を察知したのか、男たちも動き出す。広がるように駆け出した男たちは、どうやら魔獣弾を囲もうとしているようだった。彼らの手から次々と水色の矢が生み出される。
 はっとした青葉が手を掲げるより早く、隣にいた梅花が先に結界を張った。男たちが放った無数とも思える矢は、予想外な動きで四方八方へ散った。空間の歪みのせいか? それともでたらめに放ったのか? 真意はわからないが、このまま黙って突っ立っていたら巻き込まれる。薄い膜に弾かれて霧散する光を凝視しながら、青葉は息を詰めた。攻撃の余波から逃れたいところだが、後ろにはアサキたちもいる。迂闊には動けない。
「単純な攻撃ですね」
 消えていく矢の向こうで、魔獣弾が笑ったのがわかる。ついで彼の手から鞭のような黒い筋が伸びて、のたうち回るがごとく地の上で跳ねた。規則性の感じ取れない動きだ。その一部は青葉たちにも迫ったが、梅花の結界によって阻まれる。薄い膜越しに細かい空気の揺れが伝わって来た。
「何だよ、あの黒い技はっ」
 サイゾウの悪態に返す言葉はない。青葉だって聞きたい。だが全く見覚えがないわけでもなかった。亜空間でラビュエダが使っていたものに似ているような気がする。効果に関しては不明だが、当たりたいとは思わない。
 結界越しだというのに、魔獣弾の気は鮮明に感じられる。白い男たちの気配が一つ、また一つと減っていくのもわかった。あの鞭にやられたのか。こちらは梅花の結界が強固なので突き破られていないが、他の神技隊は大丈夫だろうか? 嫌な汗が額に滲んだ。跳ね回る黒い筋、白い男たちの放つ光弾の余波のせいで、状況がはっきりしない。
「梅花は大丈夫でぇーすか?」
 アサキの案じる声に、梅花は無言で頷いただけ。さほど余裕はなさそうだと青葉は判断する。ずっとこのままというわけにもいくまい。だが今ここで突然結界が消滅したら、完全に巻き添えだった。どうすればいいのか。
「まずいだろ、このままじゃ」
 サイゾウの焦った声がかすれた。不意に、別の衝撃が青葉たちを襲った。重量のある何かが結界にぶつかり、落ちる。それが白い男の一人だと気づくのと同時に、黒い鞭の先端が目の前に飛び込んできた。パリンと硝子の割れるような音がする。
 青葉は咄嗟に身を捻った。左腕のすぐ横を、鋭い何かが擦り抜けていく感覚がある。いや、少しはかすったのだろう。服が焦げ付くような嫌な臭いがした。だがそんなことよりも、ついで鼓膜を揺らした悲鳴の方が彼にとっては重大だった。
 これはようの声だ。そこにアサキの悲痛な叫びが混じっている。しかし振り返って確認している暇はなかった。結界が突き破られたことを悟った青葉は、地面を転がり距離を取る。密集していたらあの鞭の餌食だ。視界の隅で、黒い筋が跳ねたのがわかった。
「青葉!」
 梅花の警告が響く。立ち上がりざまに地を蹴った青葉の目の前を、水色の光弾が擦り抜けていった。まさか白い男たちの技か。注意しなければいけないのは魔獣弾だけではないのか。青葉は思わず舌打ちした。これはかなりまずい。
 素早く視線を巡らせる。跳ね回る黒い鞭は、梅花の生み出した薄青の刃に弾き返されて引っ込んだ。その足下では、倒れたようをアサキが揺さぶっている。サイゾウはさらに後方へと下がったようだった。なるほど、隙間ができたので梅花は刃を生み出したのか。
 魔獣弾は、幸いにも青葉たちの方は見ていない。残り二人となった白い男たちを見据え、意地悪く口角を上げていた。問題なのは、白い男の後方で倒れている神技隊がいることだ。誰かまではわからないが、巻き添えを食らったらしい。
「準備運動にもなりませんね」
 余裕の態度を見せる魔獣弾を、白い男たちはねめつけている。一番近くで倒れている白い男を、青葉はちらと見た。目立った傷はなさそうだし出血している様子もないが、顔色はひどく悪い。顔を歪めたまま固く目を瞑っている様は、不穏な今後を予感させた。
「この程度の者だけで動くとは、馬鹿にしているのでしょうか」
 魔獣弾は鼻で笑った。そこに挑発の色があることは、青葉にも読み取れた。それくらいわかりやすいのだからぐっと堪えるべきところだろうと思うのに、白い男二人は一斉に動き出す。いや、動き出そうとしたところで、魔獣弾の黒い鞭がそれを阻んだ。まるでからかうような動きだ。近づくことさえできない男たちの顔に、焦燥感が滲む。力の差は圧倒的だった。
「本当に馬鹿にしている」
 そう魔獣弾が吐き捨てた、次の瞬間だった。強烈な気配が、青葉の背後で生まれた。空から降りてきたわけでも、駆け寄ってきたわけでもない。唐突に出現したその気はまさに「生まれた」としか表現できなかった。彼が振り向く前に、白い男たちの向こう側から声が上がる。

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