white minds 第一部 ―邂逅到達―

第八章「薄黒い病」9

 薄ぼんやりとした視界に映ったのは、鈍い色の雲だった。一体何が起こったのかわからず、シンは呆然と瞬きをする。背中の下には硬い物があるらしく、少しでも身じろぎをするとさらに痛んだ。いや、痛みはそのせいだけではないだろう。自分が置かれている状況が把握できずに、彼は顔をしかめた。
「どうなってるんだ?」
 歯を食いしばって、どうにか体を起こそうとする。それだけのことでも筋肉が悲鳴を上げた。きつく目蓋を閉じ、開け、といった動作を繰り返しながら、シンは辺りへ視線を向ける。どうやら瓦礫の山の中に倒れているらしい。掲げた左腕の袖はぼろぼろになっていて、その破れ目から血が滲んでいた。切り裂かれたというよりは擦り傷のようだ。そう認識した途端焼けるような痛みが襲ってくるのだから、人体というのは不思議だ。
「やられたのか?」
 何があったのか思い出せないが、吹っ飛ばされて瓦礫に突っ込んだのではないかと推測する。どうにか右手を地面について体勢を立て直すと、遠くで誰かが悲鳴を上げる声がした。それが仲間のものであることを認識し、背筋が冷たくなる。
「今の声は、北斗?」
 頭を押さえたシンは、それからはっとして周囲を見回した。手放すまいとしていたあの長剣がなくなっていた。
「あった!」
 けれども幸いなことに、それは傍の瓦礫の中に転がっていた。元々薄汚れていた刀身が、土でますます光を濁らせている。シンは顔を歪めながらよろよろと立ち上がった。足に力が入りにくくてすぐに体勢が崩れそうになる。めまいとまではいかないが、重心も不安定だ。頭に輪がはまったような重さがあるのも気になる。
「くそっ」
 それでも剣を手放している不安から、シンはふらふらと歩き出した。一歩踏み出すだけで頭痛がするし、視界が歪む。ひどく出血しているわけでもなさそうだが、それに近い感覚だった。シンはゆっくり剣へと向かう。精神を集中させようとしてもうまくいかない。気も朧気にしか感じ取れず、そのことが無性に焦燥感を煽った。
「あっ」
 剣へ手を伸ばしたところで、その症状に覚えがあることを思い出した。バインで流行っているという奇病だ。技が使いにくくなる、気が感じにくくなるあの奇妙な病。
 そこまで考えたところで急速に記憶が蘇る。刺されたレーナ。切り刻まれそうになったラウジング。飛び出したリンに突き付けられた小瓶。駆けつけてきた滝たち。青い髪の男――アースたちの加勢。
「まずい」
 その後叩き伏せられたシンを襲ったのは、小さな瓶から降り注ぐ粉だった。光の粒子にも見えるその怪しい粉を頭から被り――そこで、アースたちに突き飛ばされたのだ。そのまま気を失っていたということか。
「あいつらはどこだ?」
 傍にミスカーテや魔獣弾の姿が見えないということは、戦場の中心が移動したということなのか。ドクドクと脈打つ鼓動が鬱陶しい。シンは奥歯を強く噛んだ。よろめきつつも伸ばした手が震え、また目眩に襲われる。思わず目を瞑り深呼吸すると、不意に誰かの足音が鼓膜を震わせた。
「……え?」
 先ほどまでは確かになかったはずの気配。いくら気を感じるのが鈍くなっているとはいえ、この距離でならさすがにわかるはず。焦って目を開けて顔を上げれば、すぐ隣に見知らぬ男がいた。明るい海のような青い髪を、緩く後ろで束ねた青年だった。服装はどことなくラウジングと似通っているが、受ける印象は違う。落ち着いたたたずまいの奥に、確固たる意志と自信が垣間見えていた。シンはぽかんとその横顔を見つめた。
 一体誰なのか? 髪色を見る限り人間ではない。しかし敵意も感じ取れなかった。青年が訝しげに見下ろしているのは、シンが拾おうとした長剣だ。何と声を掛けていいのかわからず立ち尽くしていると、青年はおもむろに剣を拾い上げる。
「あ、あの……」
「懐かしい物を持ち出しているな」
「その……」
「しかし、貸すならもう少しましな物を選べばいいものを。もったいぶるのはケイルの悪い癖だな」
 青年は手にした長剣をしげしげと見つめた。悪態を吐きながら肩をすくめる仕草は、想像していたよりもずいぶんと人間らしい。戸惑ったシンが声を失っていると、青年はわずかに苦笑を漏らす。
「相変わらず人間への理解がない」
 緩やかな風が吹いた。頬へと落ちている青年の髪の一部が、ふわりと揺れた。そこでようやくその顔立ちがはっきり見えるようになる。やや下がり気味の目元の涼しさが印象的な、端的に言えば美青年だ。それが今は明らかに鬱陶しそうな表情を浮かべている。
「あ、の……」
「こんな物ですまなかったな」
 訳知り顔で頷いた青年は、そのままシンへと剣を差し出してくる。驚いたシンは「ありがとうございます」とだけ答え、おずおずと剣を受け取った。それ以上の言葉が浮かんでこなかった。「あなたは誰ですか」だとか、「どこから来たんですか」だとか、口にすべき疑問はいくらでも浮かぶのに。それら全てが声にならない。
「しかし、あの性格捻くれた変態科学者に侵入されるなど、いくら何でも油断しすぎだろう。あいつだけでも面倒だというのに」
 ぐちぐちとこぼす青年に、シンはただ相槌を打つしかない。慌てて問いかけなくとも、変態科学者というのがミスカーテを指しているのはすぐに予想できた。あのぞっとする笑顔を思い出せば、その呼称は妙にしっくりと来る。
「あちこち片付けていたら遅れたな。しかし、あの状況どこから手を付けたものか」
 独りごちる青年にどう反応するのが正解なのか、シンにはわからなかった。だが一つ気づくことがあった。――この青年は気を隠している。だから目を瞑っていたシンは気づけなかったのだ。それでも気配を感じたというのも不可思議だし、突然足音が聞こえた理由はやはりわからないが。
 シンが呆然としていると、青年はゆくりなく歩き出した。当たり前のようにシンを置いていこうとする後ろ姿に、思わず手を伸ばしたくなる。
「あのっ」
 すんでのところで思いとどまったのは、そうする理由が不確かだったからだ。この青年を追いかけて何になるのか。そもそも味方とも断定できないのに、何故縋ろうとしたのか。それでもシンの中にある何かが揺さぶられたのは確かだった。不思議と警戒心は湧き起こらない。
「ああ、そうだ」
 数歩進んだところで青年は立ち止まった。瓦礫の山に片足をかけて振り返った顔からは、何の感情も読み取れない。淡々と任務をこなす宮殿の者たちも連想するし、あの時ミスカーテを見据えていたレーナの横顔をも彷彿とさせた。確かなのは、敵意を向けられていないことだけ。
「その剣は本来技を乗せて使うものだ。そうしてみるといい」
「――え?」
「無調整でも、普通に使うよりは威力が出るはずだ。お前の得意な技をその剣に込めてみろ。それくらいしないと意味がない」
 唐突な助言に、シンは気の抜けた声を漏らすしかなかった。眼を見開いて口を何度も開閉させていると、それで気が済んだとばかりに青年はまた足を踏み出す。彼が瓦礫の向こうへ飛び降りると、結われた青い髪が緩やかに揺れた。
「あ、あのっ!」
 呼びかける声が届いたかどうかは、定かではなかった。シンはもう一度、剣の柄を強く握った。

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