white minds 第一部 ―邂逅到達―

第十章「不信交渉」6

 肩に袋を担いで帰ってきてみれば、行く前とは違う状況が生じていた。何か食べたいと騒ぎ続けていたイレイは洞窟の奥で丸まって眠っていたし、その横でカイキは死んだような顔をしている。ネオンだけは先ほどと変わらず、足の動きを確認しながら両手を握ったり開いたりを繰り返していた。そして一番懸念していたレーナの姿は、すぐには見当たらなかった。
「……われがいない間に何があった?」
 洞窟入り口の岩壁に手をつきながら、アースは顔をしかめる。地面に置かれた袋が傾き、名も知らぬ実が一つ転がり落ちた。空腹を訴えて騒ぎ続けるイレイに耐えかねて食料を探しに行っただけなのに、こうも様子が変わっていると当惑するしかない。念のためレーナの気を探ってみたが、やはり感じられなかった。気を隠しているせいだ。
「いや、特別なことはないんだけど」
 すると一番手前にいたネオンが顔を上げた。手を止めて膝を抱えるようにした彼は、後方のカイキたちへ一瞥をくれる。そしてどこか言いづらそうに口を開いた。
「腹減ったイレイが耐えられなくなってふて寝。その腹減った攻撃に耐えられなくてカイキはあんな感じ。レーナは……たぶんこの洞窟の上にいる」
 ネオンは苦笑しながら天井を指さした。彼らが寝床としているこの洞窟は、海岸沿いにあるものの一つだ。辺りには人影どころか建物もない。白い砂浜と岩以外のものがほとんど存在しないのは、この周囲の空間が歪んでいるせいらしかった。だから出歩く時は注意が必要だとレーナは話していたが、いつも自分は例外と思っているらしい。アースは嘆息しながらまた洞窟の外へと足を向けた。砂を踏む感触が、先ほどよりも鬱陶しく感じられる。
「あいつはどれだけ心配させれば気がすむんだ」
 愚痴る声にも徐々に怒りが混じった。レーナはいつもこうだ。こちらが心配するとわかっていてその行動を選択するのだから始末に負えない。苛立ちから砂を蹴り上げて眉間に皺を寄せると、アースはため息を吐いた。しかしいくら怒鳴っても意味がないのだから、憤るだけ無駄なのか。
 おもむろに頭上を見上げれば、岩壁の上に人影が見えた。さらに前方へ足を進めると、ようやく彼の目でも彼女の姿が捉えられるようになる。かろうじて生えている歪んだ木に手を添え、空を見上げているようだった。
「レーナ」
 声を掛けつつ、彼は砂を蹴り上げた。体に纏わせる空気の流れを調整し、そのまま一気に飛び上がる。この程度の高さならわざわざ空を飛ぶほどでもない。途中の岩壁に手をついてさらに反動をつければ、彼女はもう目の前だった。
「おい」
 ようやく彼女はこちらへと視線を向けた。彼の動きに伴って生まれた強い風に、その長い髪が煽られる。彼女は頬の横の髪を手で軽く押さえつつ、わずかに顔をほころばせた。
「アース、お帰り」
「お帰りじゃない。こんなところで何をやっている?」
 彼女の隣に着地すると同時に、今度は海からの風が吹き荒れた。首に巻き付けた布がばさばさと音を立て耳障りだ。彼は舌打ちを堪え、小首を傾げる彼女を凝視する。また悩み事だろうか? 何か思案することがある時、彼女はここへ来ることが多い気がする。
「ちょっと考え事、かな」
「またか」
「うーん、今度はかなり悩ましくて。どうもわれを呼んでいるらしい」
 逆側へと頭を傾けて苦笑した彼女は、ちらと後方を見遣った。その先に広がっているのはとにかく深い緑。リシヤの森と呼ばれている場所だ。その視線を追いかけながら彼は首を捻る。彼女の言わんとすることが飲み込めない。
「呼んでいる? 誰が?」
「シリウスが」
 仕方がなく単刀直入に問いかけると、そんな即答が返ってきた。シリウスというとあの青髪の神のことか。涼しい顔をしたいけ好かない男という印象しかないが、しかし何故神が彼女を呼んでいるのか。それを一体どのように感じ取ったのか?
「どういうことだ?」
「わからん。が、オリジナルたちを連れて森までやってきたってことは、話があるってことだろう。あれで引っ掛かるのはわれくらいだ」
 淡々とそう述べる彼女の横顔を、アースはまじまじと見つめた。なるほど、オリジナルを引っ張り出してきたか。しかし悩んでいるということは、まさかレーナは行くつもりなのか? 先日の戦いの傷も癒えていない状況なのにと思うと絶句する。どれだけ無謀な行動が得意だとしても、それは愚かすぎる。何故そんな呼び出しに応じなければならないのか。
「お前、まさか行くだなんて言わないだろうな」
「まあ、普通は危ない橋は渡らないよな」
「行くのか?」
「……神があいつしかいないってことは、いいから来いって言ってるようなものだからなぁ。オリジナルを出されると弱い」
 予想通り、もう彼女の心は決まっているようなものだ。では何を悩んでいるのかと言えば、おそらく一人で行くかどうかなのだろう。微苦笑を浮かべる彼女に向かって、彼は大仰に嘆息してみせた。本当にどうして彼女はこうなのか。怒られることがわかっているのに待っているのが解せない。無論、勝手に一人で行かれても困るのだが。
「それに、猶予がないんだ」
 そこで不意に彼女の声音が変わった。その双眸が再び真っ直ぐ空へと向けられる。違和感を覚えた彼は、彼女に倣って視線を上げた。腹立たしいくらいの青空には白雲が筋状に漂っているばかり。特段何かが見えるわけでもなかった。――だとすると、彼女が見ようとしているのはその先の何かなのか?
「イーストが復活してしまった以上は、こちらも悠長にはしていられないんだ」
 ぽつりとこぼれた言葉の意味はわからなかった。ただその響きの重さが、声に含まれた得体の知れない感情が、彼の胸にも波紋を生んだ。



「ところでラウジングは大丈夫か?」
 静まりかえった室内に、アルティードの気遣わしげな問いかけが染みた。ようやく肩から力が抜けたカルマラは、ゆくりなく顔を上げてそちらを見遣る。
 先ほどまでこの部屋を満たしていた緊張感は、ジーリュたちがいなくなることで消失した。それでも体の奥にぴりぴりとした感覚が残っている。何度体験してもこれだけはいっこうに慣れない。
「た、たぶん大丈夫だと思います」
 答えたカルマラの脳裏を、眠るラウジングの顔がよぎった。避難の主導に当たっていたカルマラは、戦闘がどの程度の規模だったのか把握していない。ただしラウジングの傷が浅くないことははっきりしていた。ただ致命的ではないだけだ。
「核の傷はありますが治癒可能なくらいって聞いてます」
 このところラウジングは負傷続きだ。回復が遅いのはその影響もあるだろう。こうしたことを繰り返した結果「戦えない者」たちが増えたことを思うと、カルマラもいささか不安になる。一つ一つの怪我はさほどでなくとも、積み重なっていくと取り返しのつかない傷となる。それは実に恐ろしい。ただでさえ少ない戦力が失われることも、仲間が失われることも。
「そうか」
 アルティードの瑠璃色の瞳がそっと伏せられた。白く艶やかな床を見下ろす横顔には確かな憂いが見て取れる。アルティードが案じているのも同様のことだろう。このまま行けば、その「戦えない者」たちもどんどん駆り出さなければならなくなる。
「あいつも難儀な性格だしな。……そうだな、久しぶりにカシュリーダを呼んだらどうだ?」
 しばし何か考え込んだ後、顔を上げたアルティードはそう提案した。思いも寄らぬ名前にカルマラは眼を見開く。ミケルダの妹であるカシュリーダとは昔からの知り合いだ。「戦えない者」となった彼女は神界で仕事をしていることが大半だが、それでも『下』が落ち着かない現状では彼女も忙しいはずだった。
「リーダも、たぶん多忙だと思いますけど……」
「だが彼女はラウジングと気の相性がいいだろう? 忙しいことは忙しいだろうが、しかしシリウスの名を出せば来るだろうしな」
 戸惑いつつそう返答すると、アルティードはどうとでも受け取れる笑みを浮かべた。シリウスの名を出されると、カルマラも閉口せざるを得ない。シリウスと会えるなら、どんなに忙しくともカシュリーダは絶対に来る。それは間違いなかった。
「そこまでしますか?」
 アルティードはラウジングの怪我をそれほど重く捉えているのか? カルマラたちの間では、シリウスの名を使うことは禁忌に近い。自分本位の場面では絶対に口に出せない。そういう存在だった。
 シリウスは英雄だ。特にカルマラたちのようないわゆる第二世代と呼ばれる神にとって、彼は命の恩人であり救世主であり憧れだった。伝説的な存在となっている転生神の姿を見ることはなかったが、救世主であるシリウスは幾度となく彼らを守ってくれた。カシュリーダの命があるのも彼のおかげだ。
「勝手に名前出したら、シリウス様怒りますよ?」
 だからこそこれ以上シリウスに迷惑をかけたくないという思いが誰の内にもある。彼の力を頼る者は多い。また必要とされているのはこの星だけではない。根がお人好しな彼が頼まれ事を断るのが苦手なのは、カルマラもよく知っていた。
「あちらも無理を言ってきたのだからな、強くは出てこないだろう」
 それはアルティードも同じだと思っていたのだが、違うのだろうか。カルマラは顔をしかめつつ、口の端を上げるアルティードを見上げた。だがすぐに「無理」の意味を思い出し、半分ほどは納得した。なるほど、半分は当てつけなのか。ジーリュに話を通すという難題を押しつけられたアルティードの、ささやかな反撃だ。そんな場面に遭遇してしまったため、カルマラは憔悴したのだが。
「……シリウス様は本気なんでしょうか」
 ジーリュの苦い顔を思い出し、カルマラは思わずそうこぼす。
「本気で、レーナたちを仲間にできると思ってるんでしょうか」
 その話を聞いた時、カルマラとて耳を疑った。シリウスが冗談を言うとは思えなかったが、そうではないかと考えたくもなった。レーナを仲間にするなど無謀すぎる。
 確かにレーナたちは、こちらが手を出さない限り攻撃してくることはない。はじめこそ神技隊を襲っていたが、それもどうやら命を奪うのが理由ではなく、危機感を煽るためだったらしい。そう考えるとむやみにこちらが敵視しなければ大きな問題とはならないのかもしれない。ただそれでもこちらに引き入れるとなると警戒せざるを得ない。その出自に魔族が関わっていることは確かなのだ。
「仲間にする、とはあいつは思ってないんだろうな」
 長い銀の前髪を掻き上げつつ、アルティードは苦笑した。それは先ほどの話し合いの最中でも口にしていた。もっとも、その微妙な違いがカルマラにはわからない。きっとジーリュたちにも伝わっていないだろう。だから話が行き違う。
「シリウス様ってそういうところありますよね。というか、シリウス様って誰のことも仲間とは思ってなさそう」
「それは仕方ないだろ。あいつは過去を失っているんだからな」
 天井を見上げるアルティードから、カルマラは目を逸らした。それを寂しいと感じることは間違っているのだろうか。たとえ間違っていたとしても感情は消えないから、どうにか消化しなければならないのだが。どんなに距離を縮めたつもりでも、シリウスはどこかで一枚壁を作っている。彼にとって自分たちはどこまでも加護すべき存在なのだ。
「だがあいつの言うことももっともだ。我々は何を利用してでも、ここを守らなければならない」
「……それがレーナたちでもですか?」
「ああ」
「人間たちでも?」
「――ああ」
 重々しく吐き出された言葉にカルマラは瞠目した。もう一度アルティードの方へと向き直れば、彼はじっとどこか遠くを見つめるような顔をしていた。決して天井を見ているわけではない。
「カルマラはミリカの町を見たのだろう? どんなに巻き込むまいとしても、一度魔族が暴れたら終わりだ。この星に住んでいる限り避けられないことだ。ならば、彼らにも自らの居場所を守ってもらうしかない」
 自己嫌悪も罪悪感も全て押し殺したようなアルティードの声音。カルマラは口にしかけた言葉を飲み込んで小さく頷いた。いくら理想論を述べてもそれに見合う力がなければ無意味だった。人間に頼らずにすむだけの戦力があればと嘆いていても仕方がない。巻き込むための準備もできている。そもそも、レーナたちがいる限り避けては通れない道なのかもしれない。
「……そうですね」
 カルマラは声を絞り出した。ならばシリウスの名を出すことくらい飲み込まなければ。全てがよい方向へと転がることを願いつつ、そっと彼女は拳を握った。

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