white minds 第二部 ―疑念機密―

第一章「戦線調整」3

 うららかな朝の日差しの中、ゴミ捨てを終えた青葉は特別車へと戻ってきた。秋だ秋だとテレビは騒ぎ立てているが、天気がよければまだまだ汗ばむ陽気。気まぐれに吹く風に心地よさを覚えるくらいだった。
 しかし特別車の前でたたずむ梅花の横顔からは憂いが見て取れた。帳簿を手にしながらため息を堪えるような気配をたたえて、唇を引き結んでいる。青葉は眉をひそめつつ歩調を速めた。
「何だよ梅花、そんな顔して」
「ああ、青葉。おかえりなさい」
 すると、彼女はまるで今気がついたとばかりに顔を上げた。それは気を探っていなかった証拠だ。無世界で敵に襲われる可能性は今のところないという話だから、そうしていたとしても不思議ではないが。だが彼女は普段から周囲に注意を払っていた。そうしないだけの何かがあるに違いない。
「もしかして、またお金の悩みか? 例の旅行代なら、フライング先輩がもってくれることになったんだろ?」
 彼女の手にある帳簿へと一瞥をくれ、彼は首を捻った。リンからのお誘いの温泉旅行に関しては、全額をフライングが負担するという予想外の事態に落ち着いた。それだけフライングの懐が裕福だったということだ。つまり、使い切れそうになかったと。青葉たちにとっては信じがたい話である。
「あーうん、その問題は解決したんだけど」
 それでも梅花は歯切れ悪く答え、ついと目を逸らした。青葉は首を捻った。彼女の気には躊躇の色が滲んでいる。まだ何か問題があっただろうか? 上からの呼び出しは今のところないようだし、無世界を発つ準備は終わったも同然だ。金銭以外に心当たりがない。
「……そうね、青葉も無関係ではないものね」
 しばし考え込んだ後、彼女はゆっくり面を上げた。迷いを振り切ったというよりもどこか諦めたような眼差しを向けられ、彼は閉口する。公園の向こう側で、散歩中の犬の鳴く声が響き渡った。
「無世界を離れるなら、お父様たちに挨拶しなきゃいけないなぁと思って」
 意を決して告げられた言葉に、彼は瞠目した。その問題があった。すっかり忘れかけていたが、この世界を本格的に離れるとなれば、何も言わないままというのはまずいだろう。思わず彼は周囲へ視線を巡らせる。まだ早朝のためか、仲間たちが起きてくる気配はない。
「戦闘用着衣のお礼も言いたいしね。あれがあったから、助かったようなものだもの」
 わずかに居心地悪そうに目を伏せた彼女は、慣れた者が気づく程度に苦笑した。なるほどそれも必要だ。戦闘用着衣のおかげで、怪我が軽くすんだ場面は彼にも何度かあった。ならば一度きちんと感謝を述べた方がいいに違いない。
 無論、梅花にとっては再び家族と顔を合わせるのはそれなりの負担には違いなかった。戦闘用着衣を借りる時も、言葉を交わす空気はぎこちなかった。それがもし今後二度と会うこともないかもしれないと告げれば、どうなるか。きっと乱雲たちも反応するだろう。後悔のない別れ方がどういうものなのか、青葉にもわからない。
「まあ、そうだな。礼は言っておかないとな」
 この重い悩みは先延ばしにすればするほど辛いだろう。それにしても、いつ、どこで、どんな風に話をすればいいのか。青葉にも何が正解とは言えなかった。梅花が憂鬱な顔をするのも頷けることだ。
「……まさかこんなことになるとは思わなかったもの」
 しみじみとした彼女の囁きが朝の空気を揺らした。目蓋を伏せた横顔から匂い立つ憂いに、彼の胸の奥が疼く。手を伸ばしたくなる。
 まさか無世界を発つことになるとは、誰も予想していなかった。これからどうなるのか想像することも不可能だ。確かなことは何一つなく、不安要素は数え上げればきりがない。この現状を、何も知らぬ者たちに伝えるのは骨が折れそうだった。
「挨拶に行くなら、オレも行くからな。勝手に一人で行くなよ」
 とりあえず彼は釘を刺すことにした。いつものように一人で決断して動かれるのだけは困る。命を狙われる危険が減ったとはいえ、不測の事態はゼロにはならない。
 すると彼女はちらと視線を寄越し、複雑そうに眉根を寄せた。
「わかったわ」
 渋々と放たれたのは同意だが、何か言いたげな様子だった。そこで飲み込むのではなく口にしてくれればいいのにと、彼はつい恨めしく思ってしまう。しかし今回は事情が事情なだけに追及はしないことにした。家族に関する話は最も神経質にならなければいけない事柄だ。気安く触れ、掻き乱せば、見えない傷は深くなる。
 ――それでも、いつか彼女から話をしてくれるようになればいい。そんな淡い希望を抱きながら、彼はそっと彼女の肩を叩いた。彼女は一瞬身じろぎをしたが、すぐに諦めたように目蓋を伏せた。



 真珠色の回廊へと踏み出したアルティードは、やおら瞳を細めた。靴音がいつになく甲高く響いたのは、不必要な力が入っていたからか。治療室の中では何事もないような顔をしていたが、やはり気を張り詰めていたらしい。どっと肩から力が抜ける思いがした。
 それでもため息を吐くのだけは堪えて、彼は歩き出す。部下に心配をかけてはいけない。揺れているところを見せてはいけない。呪文のように繰り返した言葉を、彼は今日も胸中で唱えた。翻った上着の裾がかすかな音を立てる。
 ラウジングが動けるようになった。その知らせを聞いて治療室へと飛んできたのだが、まだまだ技を使わせるのは危険な状態に変わりはなかった。破壊系による核の傷は厄介だ。完全な治癒を目指すのなら、慎重すぎるくらいでなければいけない。
 そうなると現時点での戦力はさらに深刻なものとなる。いくらシリウスがいるとはいえ、全てを彼に押しつけるわけにもいかない。ミケルダには既に十分すぎる仕事を請け負ってもらっているので、彼を戦場に出すのは最終手段だ。つまり、自由に動き、かつ戦える者というのはほぼ皆無ということになる。
「転生神の再来を、か」
 回廊に反響する靴音に、アルティードの苦笑が混じった。絶望的な状況にある時、皆が口にする祈りの言葉。救いをもたらす存在を望む文言が、彼にはまるで虚しい呪詛のように聞こえる。転生神がそう簡単に現れるのなら苦労はしない。希望を失わないのは大事だが、それに縋って現実的な対応をおろそかにするのだけは避けなければ。
 そこまで考えたところで、前方から近づく気配に気がついた。この硬く熱く研ぎ澄まされた気はケイルのものだ。おそらく、アルティードが治療室を訪れたことに気がついたのだろう。どうしたものかとアルティードは足を止めた。ここでケイルと口論するつもりはないが、穏便な話が出てくるとは思えない。
「アルティード」
 しばらくもしないうちに、白い回廊の向こうにケイルの姿が見えた。象徴ともなっている鼻眼鏡の位置を正しつつ、彼は鷹揚と近づいてくる。
「ケイルか。何かあったのか?」
 首を傾けケイルを待ち受けながら、アルティードは念のため声をかけた。何もなければこんなところまでケイルが来るはずがない。だが、歩調を緩めたケイルは首を横に振った。つまり緊急事態ではないのか。
「いや、特別なことはない。が、下でなにやらレーナが動いていると聞いた。ジーリュたちも騒いでいる。いいのか、このまま野放しにしても?」
 アルティードの前で立ち止まったケイルは、しかめ面のままそう問いかけてきた。いつも以上に眉間の皺が深くなっている。やはり、彼が警戒しているのはレーナのことか。
 頷いたアルティードは、ちらと右手を見遣った。回廊の横に広がる小さな庭には、目映い陽光が降り注いでいる。直視するのは眩しい程の輝きだ。かつてそこにたたずんでいた女神のことを思いながら、アルティードは口を開いた。
「野放しではない。シリウスがついている。そのための見張りだろう?」
「だが、シリウスは彼女の好きにさせているようではないか。それでいいのか?」
 事実を告げても、ケイルの声には不満の色がありありと滲んでいた。ケイルが訝しんでいるのは、アルティードの判断についてではなく、シリウスの態度についてだろう。その気持ちはアルティードにも理解できるものだった。
 シリウスの言動は半分はそれらしいが、半分はそれらしくない。部下には甘いところがあるが、アルティードたちには厳しく、そしてそれ以上に魔族には容赦がなかった。目的のために淡々と物事を処理する彼の姿勢は恐れられ、『直属殺し』とも噂されていた。その彼があの得体の知れないレーナを放置しているというのが腑に落ちないのはわかる。
「面倒事を含め、シリウスに一任している。その方がいいと現時点であいつが判断したのならば、私は何も言うつもりはない」
 けれども、シリウスに判断を委ねたのはアルティードだ。そんな思いを込めて、彼は頭を振った。もちろん、彼の中にも疑問はある。シリウスが一体何を根拠に彼女の行動から危険性を判断しているのか、推し量ることもできない。ただ、彼が何を優先しているのかは朧気にでも掴んでいるつもりだった。無駄な戦闘で無意味に誰かが傷つくことを、彼はよしとしていない。宇宙で彼が毅然と魔族を葬ることができるのは、周囲に誰もいないからだ。
「アルティード、正気か? 彼女が作ろうとしているのはただの住居ではないのだろう? 悪用されたらどうするんだ」
 しかしそんなアルティードの内心など伝わるはずもない。尋ねるケイルの声にはあからさまに棘があった。その心配は正当なものであろう。常に最悪の事態を想定しておくのは大事なことだ。ただし、その確率についても考えておかなければならない。
「悪用とは、つまりこちらを攻撃するとでも?」
 横目にケイルを見遣れば、睥睨が返ってきた。その気は「馬鹿にしているのか?」と言っている。つまり、ケイル自身もわかっているに違いなかった。
 レーナに何ができるのか、冷静に考えればよいだけの話だ。神魔世界から神界に直接打撃を与えるのは不可能だ。まさか『鍵』を狙うとでもいうのか? それならば今までだって何度も彼女にはその機会があった。宮殿に手紙を置いていったこともあるし、神界に乗り込んできたこともある。本当に『鍵』に刺激を与えるつもりなら、既に実行しているはずだ。
 瞳をすがめ、アルティードは再び庭へと一瞥をくれた。夜のないこの世界で、そこはいつも光り輝いている。
「神技隊の住居が必要なことには変わりないが、それを宮殿の内側に置くわけにはいかないだろう。アユリの結界からは離す必要がある。ならば作るしかない……というのがシリウスから聞いた話だ」
 見張りのために下へ降りているシリウスも、時々は報告に来る。情報提供という名の愚痴にも近い。その時の表情、声音、気を思い出しながら、アルティードは苦笑を飲み込んだ。文句を言いながらも楽しそうなシリウスの横顔というのは、滅多に見られるものではない。
「先日の戦闘でミリカの町は壊滅だ。普通の建造物では駄目なのだろう。魔族に目をつけられることがあれば、あっと言う間に粉々だ」
「しかし、技を食らって無傷でいられる建物など存在するのか? 結界がなければ無理だろう。あの化け物は一体何を作るつもりなんだ」
 半分は納得の色を示しながらも、ケイルは眉をひそめつつ疑問を口にした。そこはアルティードも気に掛かっていた。魔族が本気で攻撃を仕掛けてくれば、どんな建物であれ無事ではすまない。それではレーナは一体何を作るつもりなのか? わからないからこその不安はあった。
「結界を維持し続けるなど至難の業だぞ、アルティード。そういった建造物もないわけではないが……入念な準備が必要になる。本気なのか?」
「さあ、それは私にはなんとも。しかし人間を巻き込むことを決意したのだ、それくらいは必要かもしれないな」
 アルティードは唇を引き結んだ。人間がいかに脆い存在であるかは理解しているつもりだ。そんな彼らを利用するのなら、こちらもある程度は譲歩しなければ。そうでなければ彼らは見る見る間に命を落とすだろう。精神系や破壊系の技が使える人間が少ないのも痛手だ。
「……達観しているな」
「我々が、彼らを巻き込んだのだ。選択肢を与えなかったのだ。当然、いざという時に彼らが逃げ出す可能性すら考慮しなければならない。ならば彼らの生存確率を上げてやるのも、戦略のうちではないか?」
 首を捻るケイルへと、アルティードは諭すように告げた。これも全てシリウスの受け売りだ。彼は人間の思考に慣れている。追い込まれた人間たちの行動がある程度予測できる。だからこそレーナの提案を受け入れているのだろう。彼女が何をどこまで考えているのかは定かではないが、少なくともシリウスの思惑とは一致しているらしい。
「戦略か」
 と、ケイルが苦々しい声を漏らす。それは重く張り詰めた空気をわずかに揺らした。言わんとすることは伝わってくる。確かに、ある程度の危険性を内包した決断には違いない。それはアルティードも自覚している。
「ああ。残念ながら、我らには戦力が足りない。圧倒的にな」
 ちりりと胸に走る痛みを堪えて、アルティードは声を絞り出した。全てはそこに集約される。つい自嘲気味な気を放ちそうになり、彼は目を伏せた。消え失せた命、力のことを思うと暗澹たる気持ちになる。あらゆるものが失われたからこそ、彼のような者が分相応とは言えぬ地位にいるのだ。
「これ以上、戦力を失わないよう配慮することも、必要だろう」
 彼らはいつも窮地に立たされている。本来なら、不足を補うために人間を使うというのは、最終手段のようなものだ。しかし今はその選択をするしかなかった。ならばその人間が戦いやすいよう、無駄死にせぬよう取り計らうのも一つの方法だろう。
「……無様な足掻きだな」
 苦しげにそう吐き出したケイルは、鼻眼鏡を指で押さえた。この状況を情けなく思うのは当然だと、アルティードは頷く。徒労のごとき見苦しい戦いを続けていることは誰もが承知している。それでも諦めることは許されないから、こうして必死に手足を振り回していた。限界のある中、できうる限りの手段を講じるのが、残された者の勤めだ。
「ああ。それでも我々は、全力を尽くさねばならない」
 だから罪悪感を覚えている暇などない。あらゆる可能性を考慮しながら、ただひたすら最善を目指すしかなかった。

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