white minds 第二部 ―疑念機密―

第二章「茫漠たるよすが」7

「前触れもなく、巨大結界の穴が発見された。それはかろうじて保たれていた均衡の終わりを意味していた」
 レーナは軽くそう告げてくれたが、何を言わんとしているのかは理解できた。結界の穴とはおそらく、無世界に通じるゲートのことに違いない。人間の技使いが偶然見つけたという異世界へ通じる穴だ。
「その穴の存在を知った神がどう思ったかはわれの推測でしかないが……まあ、隠したくはなるよなぁ。どうかな?」
 再びレーナはシリウスたちの方へと双眸を向けた。悪戯っぽい言い回しではあるが、彼女の声に揶揄する響きはない。
「ああ。我々はまずこの事実が魔族に伝わるのを恐れた。故に、結果外に飛び出した人間がそこで技を使う前に連れ戻すことを考えた。それがうまくいかなかったことは、お前たちがよく知っているだろう」
 誰も答えないのではと思ったところ、口を開いたのはアルティードだった。理知的で静かな声が、苦々しい現実を伝えてくる。アルティードの瑠璃色の瞳に見据えられて、滝は固唾を呑んだ。
 無世界で技を使ってはいけない。無世界で騒ぎを起こしてはいけない。かつ、無世界で技を使って混乱を引き起こそうとする技使いを連れ戻すこと。それが神技隊の役目だ。それらが一体何のためであったのか、ようやく腑に落ちた。上が恐れていたのは、穴の存在が魔族に知れ渡ることだったのか。
「しかも問題はそれだけに留まらなかった。リシヤの封印結界が緩み始めていることを我々に忠告してきたのは、そこにいるレーナだ」
 さらにアルティードの重々しい言葉が続く。レーナが上の者に直接接触していたことを、この時滝は初めて知った。道理で彼らはレーナを警戒するわけだ。その事実を彼らは自分たちだけの極秘事項としたいのだから。
『この星はいずれ戦場になる』
 そのようなことをいつかレーナが言い残していたのを思い出す。巨大結界に穴が開き、封印結界が解け始めたのならば、確かにこの星は近いうちにまた戦場と化す。――まやかしの平穏は終わった。長く続いていた均衡の中にあったことを知らなかった滝たちも、今ならば理解できる。
「ああ、確かにわれが忠告した。そして実際に一部の封印は解けた。しかもその騒ぎにあのミスカーテが気づいてしまった。彼は五腹心直属の魔族だ。性格に難があって他の魔族にも恐れられているが、少なくとも転生神の生み出した結界が崩れ始めていることは知れ渡ったと考えていいだろう」
 アルティードの言葉を受けて、レーナが首を縦に振る。喉の奥がからからに乾いていくのを滝は自覚せざるを得なかった。結界の綻びに気づかれたとなれば、いずれ魔族はここを攻めてくるに違いない。それは皆も理解できたのか、辺りに漂う気に絶望的な色が混じり始めた。視界の端では、あのダンでさえ蒼い顔をしている。
「しかもまずいことに、ここにきて五腹心の一人であるイーストが復活した」
 不意にがたんと机が揺れた。音のした方へ目を向ければ、ケイルが拳を机に叩きつけたところだった。強ばった顔に浮かんでいるのは恐怖と怨嗟だ。ふるふると震える拳が白くなっている。
「そんな話は聞いていない」
「うん、今言った。情報共有だろう? だから伝えた」
「正気か。信じられん。その根拠はどこにある?」
 ずれた鼻眼鏡を正しつつ、ケイルはレーナをねめつけた。それでも動じる素振りは見せずにレーナは首肯する。アルティードが絶句している一方でシリウスが平然としているところを見ると、実は既に知っていたのではないかと滝は疑う。あれだけ会話を交わしているのだから、どこかで話に出ていてもおかしくはない。
「イーストの気を感じた。それだけでは不服だろうが、われにはそうとしか言えない。冗談だと笑い飛ばせたらいいのだが」
「その言葉、私は信じよう。もし君の勘違いだったとしても、その前提で動いておいて損はない。リシヤの封印結界が完璧でない以上、いずれは遭遇する事態だ」
 そこでアルティードが口を挟んだ。彼が頷くとさらりとした銀糸が揺れる。それでもケイルの気に含まれる疑念は消え去らなかったが、アルティードに肩をぽんと叩かれ、さらなる詰問は諦めたようだった。渋々ケイルが頷けば、また鼻眼鏡の位置がずれる。と、アルティードはわずかに相好を崩した。
「君の言葉が本当かどうかは、いずれわかる」
「そう判断してもらえるのはありがたいな。不幸中の幸いなのは、蘇ったのが慎重派なイーストだったことだ。彼は十中八九情報収集を優先する。その間に、こちらも戦力を整えて対応策を考えたいと思っている」
 レーナはこともなげにそう言ったが、対応策などあるのだろうか? それが滝の正直な気持ちだった。いまだ震えているケイルの拳を見てもそう疑問に思う。この状況で、五腹心に対抗する術などあるのか? あのミスカーテが五腹心直属ということは、五腹心はもっと強いと考えるべきだろう。
「まず、大雑把な現状の説明はこんなところだ。何か質問はないか?」
 再度レーナから確認の声が放たれたが、容易に口を開けるような心境ではなかった。レーナがあれだけ強固な建物を作った理由もわかった。大戦が始まれば、この地球にいる限り安全な場所などない。
「今の人間たちにそんな余裕があるわけないだろう。後にしてやれ。それよりもお前たちの話の方が、彼らにも興味深いんじゃないのか?」
 すると、誰もが押し黙っている中でシリウスが苦笑をこぼした。彼の示唆は間違ってもいないが、これ以上の情報をうまく受け取れる自信もなくて、滝は頭痛を覚えそうになる。思わず隣のレンカと目と目を見交わせた。彼女が小さく頷いたのを見ると、少しだけ気持ちが静まっていく。
「あー、我々の話な」
 レーナはそこでちらと右手を見た。アースたちの方だ。先ほどから黙してじっと息を潜めるようたたずんでいた彼らは、ここにきて何か言いたげな様子だった。それでも口を開いたりしないのは、皆には聞かれたくなかったからか。レーナは小さく嘆息すると、また滝たちの方へと向き直る。
「それじゃあ話を少し変えようか。我々を生み出したのは、一人の魔族だ。五腹心級の力を持っていたが、無理やりその直属にされた。その男の名をアスファルトという。先日ミスカーテの挑発に乗ってこっちまで来てしまったので、見かけた者もいたかもしれないな」
 一瞬だけ天井を見上げたレーナは、説明を再開した。先ほどよりも幾分か歯切れの悪い調子なのは意外だ。さしもの彼女も自分の出生について語るのは苦手なのか。
「アスファルトは魔族の中でも異端だった。五腹心の言う通りに動かないというのもあるが、彼は偶然出会った神と交友を持つに至った。そしてその知識を利用して、人工的に技使いを作るような真似をした」
 ただ事実のみを伝える口調でレーナは続ける。しかし幾つか引っ掛かるところを覚えて、滝は瞳を瞬かせた。神と交友を持つというのも耳を疑う部分だが、人工的に技使いを作るという表現が腑に落ちない。
「え、ちょっと待って。神と交友? それに人工的な技使いってどういうこと?」
 疑問を持ったのは梅花も同様だったらしく、すかさず問いを挟んでくれた。やはり彼女は頼りになる。するとレーナは心底不思議そうにきょとりと目を丸くし、首を捻った。
「神のことはこれから語るんだが……。えーっと、技使いについてもわからないか?」
「わ、わからないの。申し訳ないけど、私たちは技使いがどうやって生まれるのかも知らないのよね」
 まるで子どものように頭を傾けたレーナに、梅花は至極すまなさそうにそう告げた。彼女の言う通りだ。技使いについては長年の疑問だった。どうすれば技使いになるのか、どうすれば技使いが生まれるのか、誰も知らない。遺伝ではないし、訓練の結果でもない。一体どんな法則性があるのかわからず、皆が訝しんでいた。
「ああー、そうか。神や魔族の存在も隠されていたくらいだったな。ならば当然知らないのか。つまり、神や魔族の核についても知らないわけだな?」
 ぽんとレーナはペン先で手のひらを叩き、そう尋ね返してきた。すると後ろで幾人かがぶんぶんと首を縦に振る気配がする。そこにはこの機を逃してはなるまいという気迫が滲んでいた。
「では簡単に説明しよう。神や魔族の本体みたいなのが核。人間で言う遺伝情報みたいなのもそこにあると思っていい。転生神のような力のある神なら、核が無事なら転生したり自ら肉体を生み出すことさえ可能だと言われている」
 なるほどと滝は相槌を打った。転生神とさも当たり前のように言われたが、そういう理屈だったのか。具体的な姿は想像できないが、かつて絵本で見かけた魂みたいなものを想像したくなる。
「しかし大部分の神や魔族はそうではない。肉体を維持できなくなれば、そのまま核も消える。だがすぐ失われるわけではない。特に強い神や魔族であればあるほど、核の状態でしばらくは生きながらえていると言われている」
 続くレーナの話に、何だか嫌な予感がしてきた。滝は思わず固唾を呑み、拳を握る。じわりと滲んだ汗が背中を伝っていった。
「その核が人間に入り込んだ場合に、技使いが生まれる。どの程度の強さになるかは、元々の核の強さや、核と肉体との相性によるらしい」
 ついでふわりと微笑んだレーナは、人差し指を立てた。あっと誰かが声を漏らした。予感が的中したことを悟った滝は、細く長く息を吐き出す。長年の疑問がまさかこんなところで明かされるとは思ってもみなかった。
 神や魔族について何も知らないのだから、人間たちが不思議に思っているのも当然だろう。遺伝も訓練も関係ない理由もよくわかった。偶然入り込んでいたかどうかの違いだ。人間側ではどうにもならない。
「だから神や魔族が多く死んだこの星には技使いが多い。強い技使いの数も多いんだ。宇宙はもっと少ない」
 そこまで聞けば、先ほどレーナが何を言いたかったのかも朧気に見えてきた。滝は握りしめていた拳から力を抜く。すると梅花がぽつりと声を漏らした。
「つまり、人工的な技使いっていうのは……」
「そう、オリジナルたちの遺伝子を使って作り上げた肉体に、魔族や神が直接核の情報を注ぎ込んで生み出された存在ってことだ。ちなみに、核の情報を何かに注ぎ込むというのが、神が神を生み出す手法だ。故に、我々の存在を認めたくない魔族は、我々のことを生き物扱いしていない」
 相槌を打ったレーナは爽やかに断言した。ずいぶんあっけらかんとした口調だったので、内容が頭に入りきらなかったくらいだ。ようやく魔獣弾がレーナたちに対して取った態度の理由もわかった。魔族が生み出した存在には違いないが、その方法はあってはならないものだった。レーナたちの存在は、魔族にとっては禁忌に近い。
「その後、わけあって我々はアスファルトの元を飛び出したわけだが……」
「え、そこでいきなり詳細省いちゃう!?」
 と、そこで突然背後からリンの声が上がった。いつも以上に甲高い声だった。突然はぐらかされたような言い回しになったので、指摘したくなる気持ちはわかるが。しかしこの空気の中でも気後れせず突っ込むのは、相当剛胆でなければ不可能だ。
 レーナは一瞬だけ虚を突かれたように眼を見開いてから、くすりと笑い声を漏らした。彼女は顎先に指をそえどこか妖艶な微笑を浮かべると、小さく肩をすくめる。
「それはなあ、うん、家族の問題のようなものだし。まあ半分は、魔族間のごたごたに巻き込まれそうになっていたからなんだがな。……当時、五腹心の間でも我々の扱いをどうするかは意見が分かれていた。それは想像できるだろう?」
 曖昧な表現であったが、レーナの言わんとすることはわからないでもなかった。いや、むしろすぐに殺されていないのが不思議なくらいだ。魔獣弾たちの反応もそれを裏付けている。彼女たちが無事だったのは、それだけアスファルトという魔族に力があったためか。それとも五腹心側にも、レーナたちを利用する意図でもあったのか。滝にはあれこれ想像するしかない。
「それよりもお前たちが本当に聞きたいのは、われが何故お前たちを守ろうとしているかだろう?」
 だがついで放たれた一言の方が、滝の心にさくりと刺さった。図星だ。ざわりと動揺の波が広がったように感じられたのは、気のせいではないだろう。あのケイルの眉がぴくりと反応するのも視界の隅に映った。おそらく、それは誰もが知りたい点だ。
「それはユズの言葉があったからだ。ユズというのは先ほど言った、アスファルトが交友を持ったという神だ。彼女は別の世界から、未来を変えるために足掻きに来た、転生神キキョウの妹だ」
 よどみなく紡がれた言葉の先に見知らぬ名が登場し、滝は片眉を跳ね上げた。転生神は六人いるというから、その一人だろうか? 別の世界では、転生神が生きているのか?
「神魔世界の他に、神技隊らが赴いた無世界があるように、他にも無数の世界があると言われている。そのうちの一つ、ここよりもずっと時間が流れている世界に生まれたのが、転生神キキョウだ。彼女は転生神リシヤの生まれ変わりで、記憶を取り戻した者だった」
 けれども続く説明が滝の予想を覆した。封印結界を施したという、転生神リシヤの生まれ変わり。ざわりと自分の胸の奥底を撫でられたような心地になった。何故だか知らないが落ち着かない。脈打つ鼓動の音が強く感じられる。

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