white minds 第二部 ―疑念機密―

第三章「誰かのための苦い口実」6

「勝手な勘違いだな。口を割る労力の方が惜しいだけだ。大体ジーリュたちのあれは疑っているんじゃない。とにかく安心する材料が欲しいんだ。自分で自分に言い聞かせるための理由でしかない」
 と、シリウスの苦々しい声が廊下に響いた。視線を戻せば、彼の横顔にふいと得も言われぬ感情が宿ったように見える。ミケルダは固唾を呑んだ。
「そんなものを求めてもどうにもならないのにな。なのに、あいつらは足下すら見えていない。人間たちを巻き込んでいるのだから、注視すべきはそちらだ。敵を増やさぬことをまず考えなければならない」
 そう語るシリウスの眼差しが遠かった。さすがは宇宙でたった一人、大勢の魔族を相手に立ち回ってきた者だ。割り切りと思い切りがなければ、どんな実力者であってもやっていけないだろう。
 人間たちの間にいると、彼らの雑多な気が一気に押し寄せてくるような錯覚に陥る。それが憎悪に染まる日のことを想像すると、ミケルダはいつも背筋が凍るような心地に至った。敵にすべきではない者たちから恨まれ、疎まれるのは辛い。
「ジーリュたちは味方を増やそうとしているから、もっともっとと欲しがるんだ。まずは敵を作らない方が大事だ。わざわざ恨まれそうなことをするなど、馬鹿のやることだ。相手は生きる時間も、必要なものも異なる生き物だというのに」
 シリウスの言葉は、じくじくとミケルダの胸に染みていく。ともすれば時の流れから切り離されてしまう彼らとは違い、人間は変化の真っ只中で生きている。そう実感すればするだけ、危うさが理解できるようになった。
「シーさんは達観してるなぁ。でも、シーさんのそういうところ、オレは好きですよ。周囲の見方も。人間の見方も」
 呆れ顔をするシリウスに、ミケルダは笑ってそう言ってみせた。その気になれば何でもできるように見えるシリウスも、実のところ多くを望んでいないことが垣間見える。おそらくたくさんのものを失ってきたからなのだろう。今までその手のひらからこぼれ落ちたものは、一体どれくらいなのか。
「言うな。お前のそういうこだわりのなさは私も好ましく思う。このところでまたずいぶん変わったな」
「わー、シーさんに褒められると嬉しいな。でもカールたちにばれないようにしないと」
 思わぬ言葉が返ってきて、ミケルダはわざとおどけた。実際は、心底驚いた。誰かと面と向かった状態でシリウスが好意を示すようなことはまずない。アルティード相手でもだ。
 それは皮肉屋だからというよりも、相手や周囲への影響が大きいからだとミケルダは思っている。それこそレーナとの関係のように、ちょっとした違いを周囲はやたらとはやし立てる。それはシリウスが現時点で最も闇歴に近い者だからという理由だけではないだろう。転生神のいない今、彼はただ一人の生きた英雄だ。
「変わったって、自分では思ってなかったんですけど。もしそうなら、やっぱり人間との距離が近くなったからかなぁ」
 ミケルダが首の後ろを掻くと、柔らかい髪が指先に触れた。彼が宮殿で仕事を任されやすいのはこの容姿のせいでもある。狐色の髪や茶の瞳は人々の間にいても浮くことがない。
 それでも彼は一時期、人間とあまり深く関わらないようにしていた。技使いの子どもたちの面倒を見ていることが多かったから、どうしたって縁は切れなかったが、しかし個人的には交流しないようにしていた。
 人間たちの変化は早い。めまぐるしい時の流れの中にいる。自分たちが暢気に構えている間に、彼らはいつも決断し、前を向いて必死に生きていく。あっと言う間に成長して消えていく者たちを間近で見ることが、いつしか辛くなっていた。
「シーさん。オレね、本当に個人的なことなんですけど、梅花ちゃんたちには死んで欲しくないんですよ」
 苦い記憶と共に、つい本音がこぼれ落ちた。声や気に、わずかな寂しさが滲んだのは隠しようがなかった。シリウスの前ではどうしても気が緩みやすい。幼かった頃のことが染みついてしまっているせいだろうか。
「親友って、言ってくれた人間がいたんです。その人に、梅花ちゃんのことを頼まれたんです。だから不幸にはしたくない。それなのにこんなことになっちゃって、どうしたらいいんだか」
 ミケルダをミケルダとして受け入れてくれた強い人間は、既にこの世にはいない。彼女は精一杯、最後まで全てに抗いながら生きた。そんな彼女が最期に悲しそうな顔で託していったのが梅花だ。
 まさかあの親友がこの現状まで予期していたのかはわからないが、もしかしたらという思いはミケルダの胸に残っていた。ならば、できる限り応えたい。
「――最善を尽くさないと難しいぞ。尽くしても、難しいかもしれない」
「はい、わかってます」
 やおら目を伏せたミケルダに、シリウスの硬い声が染みる。ここで顔を上げれば、つい縋り付いてしまいそうだった。瞳をすがめると、目映く輝く床に情けない彼の姿が映り込んでいるのが見える。その様を凝視しつつ、ミケルダは口の端を持ち上げた。せめて表面だけでも取り繕わなければ。
 戦禍に巻き込まれ、天寿を全うせず亡くなる人間を見るのは嫌だ。それを避けるためにどうすればいいのか。答えを探せども、いまだ見つかりはしなかった。


 中央制御室は朝から久方ぶりに賑やかだった。椅子に腰掛け「説明書」を睨み付けながら、滝は珈琲をすする。この基地とやらの取り扱いについて記したもので、レーナは丁寧にもそんな冊子まで用意してきた。ただし簡単に覚えられる内容ではない。いざという時に使えるようにするのにも時間が掛かりそうだった。
 ため息を飲み込んだ彼は、ちらとだけ視線を上げる。
「ところで、メユリちゃんが来るのはいつ?」
 同時に、右手で声が上がった。リンだ。その場を一気に華やがせる彼女の力はどこでも発揮される。それは中央制御室でも例外ではない。
「準備があるのでもう少し先です。家は一応残すことになるので。結果的にリンさんのところにご迷惑をおかけすることになっちゃって……すみません」
「それはいいのよ。やることがある方がお母さんも元気になるし。それにメユリちゃんのことはずっと気にしてたからね」
 リンの隣にいるのはジュリだ。二人が昔からの知り合いであることは以前から耳にしていたが、どうやら幼馴染みで近所に住んでいたといった間柄らしい。それを知ったのはつい最近のことだった。滝にとってのシンと青葉だ。なるほど仲が良いし遠慮がないわけだと納得する。
 近くに自分と同じような技使いが住んでいることは幸運だ。もっとも、その幸運を親が手渡してくれる場合もある。子どもが技使いであると知った親の中には、適切な環境を求めて引っ越す者が稀にいた。シンがその一例だ。
「それより、よく滝先輩に許可もらえたわよねぇ。滝先輩も寛大というか」
 すると突然自分の名が飛び出してきて、滝は咳き込みそうになった。珈琲を飲み干した後でよかった。顔を上げれば、こちらを振り向いたリンとばっちり目が合う。何ら悪気がなさそうな、純粋に不思議そうな眼差しに、彼は苦笑をこぼした。
「リンも共犯じゃないのか? あんな風に言われて、オレだけが反対するなんてことは無理だろ」
「えー私は何も。そんな企んでないですよ。まあ、ジュリは身内のことになると強引ですけどね」
「ちょっとリンさん、人聞きが悪いです」
 滝は肘掛けに片肘をつきつつ、ついと瞳を細める。メユリというのがジュリの妹だというのは先日聞いた。ジュリの母は奇病から奇跡的に回復するも、体が弱っていたため妹を産んですぐに亡くなったらしい。
 その後父も追いかけるように落命したため、ジュリが一人で育てたようなものだという。リンたち近所の人間もずっと気に掛けていたのだろう。
 だが繰り広げられる軽妙な掛け合いからは、そんな薄暗い世界は感じられない。部屋をどうするのだとか、服を用意したいだとか、自分たちがどこに住んでいてどういう状況に置かれているのか忘れそうになる会話が、朝から続いていた。
 実に現実的だ。いつ訪れるのかわからぬ来襲に備えて常に張り詰めていろというのは無理なのだから、これが正しいのかもしれない。
 彼は頬を掻く。リンの腕を引っ張ろうとするジュリの横顔を見ていると、一人で抱え込まずにいられるのがいかに幸せかを実感する。頼る手は多い方がいい。彼は二人の会話に耳を傾けつつ扉の方を見遣った。
「滝先輩に勘違いされてしまいます」
「勘違いじゃないわ。事実だもの」
「言いますね。そんなこと言ったらリンさんは――」
 そこで不意にジュリの声が途切れた。と同時に、部屋の扉が開いた。梅花だ。近づいてきているのは気でわかったが、ぱたぱたと小走りで寄ってくる姿はどこか浮き足だって見える。
「何かあったのか?」
「ついさっきミケルダさんに会ったので。ちょっと反則技ですけど、ゲットの名簿をもらってきました」
 空色のスカートを揺らしながら近づいてきた梅花は、そのまま数枚の紙を手渡してきた。滝は眉根を寄せる。
「ゲットってのは、新しい神技隊の名前だったよな?」
「はい、そうです」
 抑揚の乏しい梅花の声が、室内に静寂を生んだ。一瞬だけ、誰もが動きを止める。だがすぐに弾かれたように、リンとジュリがこちらへ詰め寄ってきた。
「名簿見たいです!」
「駄目ですか!?」
「あ、ああ、いいんじゃないか……」
 滝は思わず渡された紙をリンたちの方へと向けた。二人の気迫に圧倒された形だが、拒む理由もなかった。何も言わぬ梅花をちらと見上げれば、困惑した様子もなくその場にたたずんでいる。彼女はもう確認済みなのだろう。
「あ、やっぱり!」
「サホさんですね」
 リンとジュリの声が重なった。まるで背中を押すように、梅花はゆっくり首を縦に振る。ただ一人事態が飲み込めぬ滝は、その場で首を捻った。
「サホ?」
「ウィンの技使いで、リン先輩やジュリと同じ技使いグループの一人です」
 滝の困惑を受けて説明してくれたのは梅花だ。彼女が即座に情報を引き出せたということは、過去にも神技隊候補に入ったことがある者なのだろう。無論、名前と出身だけですぐに思い出せるのはすごいことだが。
「はい、そうなんです。サホさんはリンさんの一番弟子ですよ」
 すると顔を上げたジュリが何故か胸を張って付言した。そういえば、彼女は以前にも自分のことをリンの右腕だと称していたことがあった。それだけ彼女たちにとってリンという存在は大きいらしい。
「先日行ったら、宮殿に呼び出されたみたいな話を聞いたので。もしかしてとは思ったんですが」
 続いてリンが困ったように微笑む。顔見知りがいるというのは、二人にとってはどんな心境だろうか。頼もしいのは確かだが、巻き込む人間が増えるのは複雑かもしれない。リンの双眸にもそんな色が見え隠れしている。
「そうだったのか。でもそれを聞いてちょっとほっとしたな。知り合いがいるというのはいい。人数が増えると、収集がつかなくなるからな」
 それでも滝としては安心材料だ。レーナたちとの確執というだけでも大きいのに、そこに新たな技使いが加わるとますます統率が難しくなる。純粋にただ数がいればいいというわけではなかった。共同生活の上に戦闘への準備だ。頭が痛い。
「ああ、既に大変なことになってますもんね。昨日もフライング先輩が……」
 そこで言いづらそうにリンが視線を逸らした。その指摘には、滝も苦笑いするしかない。
「先輩は自由人の集まりだからな。仕方ない」
 昨夜の様子を思い出し、滝は半眼になった。フライングについては、滝たちが一番知っているといっても過言ではない。彼らの自由さに救われたこともあるが、規律を作っていくような段階では厄介な存在でもある。
「あの状況をカエリ先輩一人で率いていたというのが信じれません」
 リンと同じような顔をして、ジュリも深々と頷いた。滝もその通りだと思う。だからこそその手腕を見込んで買い出し班を任せたのだ。相手がどんな人間であれ、悪態を吐きながらもまとめ上げてくれるのがカエリという人間だった。
「ああ、カエリ先輩はすごい。それは間違いない」
「ええ。それはもちろんそうですけど。でも滝先輩もすごいんですからね。そこ、忘れないでくださいね?」
 そこでこちらへと向き直ったリンに釘を刺され、滝は喫驚した。一体急に何を言い出すのか。
 彼としては何か特別なことをしているつもりなどなかった。振り返ってみても、心当たりはない。勝手に色々任されているというのは自覚しているが。

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