white minds 第二部 ―疑念機密―

第五章「遠回りな求愛」1

 この世界は大概灰色に覆われている。少なくともイーストがよく目にする部分はそうだ。特にこの塔の部屋は、窓から差し込むわずかな明かりのみが光源であるため、いつも薄暗い。少しでも俯けば表情が隠れる。
 彼らには気が感じ取れるからそのこと自体に決定的な意味はないが、それでも時折ありがたいと感じることはあった。表情を取り繕うことを忘れると、なおさらそう思う。
「私たちは身体性を忘れがちだからね」
 石壁に触れながらぽつりと呟いた声が、静寂を揺らした。待つだけの時間は長い。ともすれば自身という体がこの世界に存在することを失念してしまうので、こういう時はより気をつけなければならない。
「そろそろだろうしね」
 イーストは息を吐いた。形ある生き物としての動きを模倣しているうちに、得られるものもある。時に姿を変えてみるのもそのためだ。
 けれども技を使うなら、気を制御するなら、相性のよい容姿を選んだ方がよい。故に普段のイーストはこの姿を選択していた。部下がいつ訪れてくるのか全く予測はつかない
 と、不意に空気の温度が変わった。振り返ったイーストの視界に、見慣れた姿が映る。ただし部下ではない。
 心底嫌そうな、気怠げな面持ちで足を進めてきたのはレシガだ。深々と嘆息した彼女が肩をすくめた拍子に、深い赤の髪が揺れる。
 その優雅な様は何度同胞の目を奪ってきたことだろう。彼女は気だけでなくその容姿もたたずまいも圧倒的だ。イーストは口角を上げた。
「すまないね、レシガ」
「私を呼びつけるのだから、それ相応の情報があるんでしょうね?」
「ああ、もちろん。だからこその作戦会議さ」
 イーストは首肯した。いつだってレシガは無駄な話し合いを嫌う。答えの出ない議論は彼女を苛立たせるだけだ。
 もっとも、彼女の好奇心を満たす物があれば、有意義な会合でなくともよいらしかった。たとえば彼女の憂さ晴らしになるものであったり。――それは彼女にとっては意味があるから無駄ではないのだという。
「ずいぶんとやる気ね」
「そんなこともないさ。でもそうだね、そろそろ私たちも動き出さないと、焦れた者たちが勝手に地球へ向かってしまう。それは避けたいところかな」
 苦笑したイーストに、レシガはうろんげな目を向けてきた。だが異を唱えるつもりはないようだ。部下たちを統制する難しさについては、彼女も理解しているからだろう。
 五腹心復活に活気づいた猛者たちの中には、今か今かと出番を待ちわびている者もいる。彼らを待たせておける時間は、さほど長くはない。そもそもイーストの部下でない者が多いのだからなおのことだった。
「気が早いのね」
「ああ。先ほどフェウスも、限界が近いと報告してきた」
「本当に? フェウスはいつも焦りすぎだから、真に受けると前のめりになるわよ」
 レシガのかすかな笑い声が、生ぬるい空気を揺らした。イーストは頷きながらゆっくりと廊下の方を見る。すると、そこにわずかな空間の違和感が生じた。
「噂をすればだね」
 薄暗い廊下に生まれた変化は、すぐにその主の姿を露わにする。まず現れたのはフェウスだ。精悍な顔立ちに苦いものを滲ませながら、彼はすぐに片膝をつく。すると間髪を入れず、彼の横にまた別の気配が現れた。
「イースト様、連れて参りました」
 慣れ親しんだフェウスの気の隣に、べっとり張り付くような冷たい気が生まれる。それはミスカーテのものだった。恭しく頭を下げたミスカーテへと、レシガも一瞥をくれる。その柳眉がわずかにひそめられたのが、イーストの視界に入った。
「見ない顔ね」
「ミスカーテと申します」
 レシガの冷たい声に、顔を上げたミスカーテは微笑んで答えた。青白い肌はこの塔ではますます生を感じさせないが、貪欲にぎらついた双眸は目立つ。
 彼は危険な男だ。それでいて今後の動きの一端を担う、重要な者の一人でもあった。ここでレシガに紹介しないわけにはいかない。
「彼は元々プレイン直属だ」
 ミスカーテが何か言い出す前に、イーストはそう説明した。レシガなら、これだけでこちらの意図は伝わるはずだった。案の定、つまらなさそうな声で相槌を打ったレシガは、肩に掛けている布の位置を正す。
「そうなの。プレインは部下を連れ歩かなかったものね。知らないわけだわ」
 五腹心とひとくくりにされているが、直属の部下の扱いはそれぞれ違う。イーストの傍には大概フェウスがいる。少なくとも一人で外へ出ることはない。
 賑やかなのを好むラグナは、いつも誰か彼か適当な部下を連れて歩いていた。自由を愛するブラストはオルフェという部下――実際はブラストのお守り役だが――を連れている。
 が、プレインは常に一人で行動していた。その点はレシガも似ている。しかし彼女は単に自分の『巣』を離れるのを嫌い、その外に出るのは大抵五腹心の誰かと一緒だったからというのが理由だ。
「プレイン様は、気を抑えるのがお嫌いなので」
 にたりと笑ったミスカーテを一目し、イーストは気のない声を漏らした。
 そう、プレインは部下への配慮に必要な労力を惜しむ者でもあった。その分戦闘に集中したいというのが彼の言い分だ。
 彼の方針は徹底している。その下にいる部下も、それについていくくらいだからなかなかだ。故に、他の五腹心のやり方とはぶつかることも多い。
「プレイン直属がわざわざこちらに来るなんて珍しいわね」
「彼が地球に何度か降り立ったというので、情報をもらっているんだ」
 だからレシガが首を捻るのも当然だった。フェウスが複雑な気を漂わせるのも仕方ないのだが、これはもう少し隠して欲しいところだ。イーストは相槌を打つ。
「何度も? あら、プレイン配下にしてはずいぶんと慎重な行動ね。あなたほどの者なら、そんな密やかに行動する必要もないでしょう」
「レシガ様、ご冗談を」
 楽しげに金の瞳を細めたレシガへと、ミスカーテは緩やかに首を振ってみせた。やや芝居がかった仕草だが、それをここで指摘しても詮がない。
 レシガが挑発的なのもいつものことだが、さすがに彼女に向かって不快だと示す者は稀だ。ミスカーテでさえそうらしい。
「あの星には今、申し子らがいますので。そこに直属殺しまで加わっています。油断すれば手痛い反撃を食らいます。慎重にもなりますよ」
 頭を傾けたミスカーテは、赤い髪の一房を指へと巻き付けた。蛇のようなと称されるそのねっとりとした眼差しも、レシガ相手では効果はない。
 この二人はとにかく相容れない性質を持っているのに、異なるものをそれはそれとして受け流すという態度だけは同じだ。面白い点だった。
「申し子? ああ、あの偏屈のところの。そう、あの子たちも生きているのね。まあ、私たちがいなかったのだから当然かしら」
 レシガが口にした『偏屈』という呼び名に、フェウスが失笑する気配があった。
 彼女は時折そのような呼び方をする。特にアスファルトに対しては顕著だ。イーストに向かっては「あなたのお気に入り」と表現することも多い。
 何らかの決まりがあるわけではないが、相手を名で呼ぶというのはある種の大きな意味を持つように感じられるせいだろう。だからレシガは、あえてアスファルトの名を口には出さない。
「あのお嬢さんの力は未知数だしね。あれを私たち抜きで排するのは難しいでしょう」
 ついで深々と頷いたレシガの口調に、苦いものは混じっていなかった。
 あの件を知る者であれば、きっと誰もが同じ心境だろう。恨むことはもちろん、不甲斐ないと口にすることもあたわない。ただただ「どうしてなのか」と自問自答を繰り返すだけだ。
 けれどもそんなレシガの言動は、ミスカーテの目には奇妙に映ったのかもしれない。きょとりと目を丸くする様は、見慣れないものだった。
 もちろん「あのお嬢さん」が誰なのかわからないはずもないだろう。ミスカーテは先日彼女と一戦交えているはずだ。
「未知数、というのは?」
「……そのままの意味よ。目覚め立てであれなら、どこまで強くなるかわからないでしょう。伸びしろが大きすぎるわ」
 レシガはそう付け加えたが、やはりミスカーテはぴんときていない顔をしていた。まさかミスカーテはあの件を知らないのか? その可能性に行き着いたイーストははっとする。
 あり得る話だった。あの後すぐに周囲は混乱し、そして五腹心は全員封印された。プレインの指示で、多くの魔族には真実は伝えられていなかった。
 直属のミスカーテなら知っていると思い込んでいたが、あのプレインなら伝えていなかった可能性がある。
「もしかしてミスカーテ、私たちが封印された経緯を知らないのかい?」
 イーストがそう口を挟んでみれば、背後でフェウスが喫驚の気を漂わせた。フェウスは知っている。イーストが教えたからだ。ただし、その他の部下には秘しておくようにと念を押した。それだけ取り扱いには注意が必要な案件だった。
「経緯? 結界準備を終えた転生神シレンとアユリが、ついに表に出てきたからでは?」
 怪訝そうなミスカーテの言葉が、イーストの内に確信を生んだ。やはりミスカーテは何も聞かされていない。イーストは悠然と頭を振った。
 いつか転生神シレンとアユリが顔を出すことは、イーストたちも予想済みであった。そのための対策も講じていた。
 転生神ツルギとレイスが消えてから、神々は巨大結界を生み出す決意をしたようだった。その準備にアユリは時間を取られたため、表だって戦うのは転生神ヤマトとリシヤに限られていた。
 それでも徐々に力をつけていった二人を相手に、イーストたち五腹心は攻めあぐねていた。だから巨大結界が完成するその直前に狙いを定め、計画を実行する予定だった。
「それだけなら、ラグナが封印されることはなかった」
 イーストは穏やかに微笑む。計画のためにアスファルトの動きを封じておこうと画策したのが、そもそもの間違いだったのか。今となっては何を悔いたところで意味はない。
 何をも恐れぬ血気盛んな男として皆の心のより所となっていたラグナが、真っ先に封印された。計画の前に。その影響は計り知れなかった。うっかりブラストが封印されるのとは話が違う。あれは決定的な転機となってしまった。
「あの子がラグナを斬ったからよ」
 イーストに次いで淡々と言い切ったのはレシガだ。何ら感情の滲まぬ、抑揚の乏しい声だった。まるで時が止まったようにミスカーテは硬直する。さすがにそれは彼の予想を大きく上回っていたようだ。
「あの偏屈の研究所を飛び出したお嬢さんを、ラグナが追った。でも追いついたラグナを斬り捨てて、あの子は逃げたのよ。まあ、その後ラグナが少しばかり大人しくしていてくれたら、封印なんてされずにすんだんだけどね」
 続くレシガの説明は、簡素だが嘘偽りないものだ。仕方のない子だと言わんばかりなのは、ラグナの説得を失敗したという負い目が拭い去れないせいだろう。それでもミスカーテは口をぽかんと開けていた。
 ラグナを斬る、という意味は大きい。ラグナは戦場における皆の救世主であり、勝利の象徴だ。ラグナが参戦すれば負けることはない。それだけの力を持っているし、部下たちがそう信じることで、実力以上のものが発揮されるという側面もある。
 ラグナを斬ることができたのは、彼女以外には転生神ヤマトしかいなかった。
「もちろん、まさかお嬢さんが刃向かってくるとは、ラグナも思ってなかったんでしょうね。混乱して逃げた子猫をとっ捕まえるようなつもりだったんでしょう」
「し、しかし、だからといって……」
「ええ、攻撃されたらラグナはすぐに反応するわよね。いくら油断していても体が勝手に。だからあの子の実力は未知数なのよ」
 誰だって言い訳をしたくなる。けれども隙を突かれただけで、あのラグナが簡単に斬られるわけがない。それはミスカーテにもわかるはずだ。強ばった彼の声が、灰色の室内に染み入っていく。
 あの日予想外にも負傷したラグナは、傷が癒えるのを待つことができなかった。その憤りをぶつけるために、時をおかずに単身で転生神に挑んだ。
 そして、封印された。
 おそらく、ラグナが自覚していたよりも傷は深かったのだろう。イーストはそう見ている。
 ラグナの封印は下級魔族にも動揺を広げ、そして神々を活気づかせた。その隙を転生神ヤマトたちは見逃さなかった。――その結果が今だ。

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