white minds

プロローグ

 夕刻の居間には、茜色の光が差し込んでいた。どことなく寂しげな空気を纏った太陽を横目に、ソファに腰掛けた少女は小さく息をこぼす。その白い肌も今は茜色に染められていた。彼女は足をぶらぶらとさせながらも、ちらちらと台所の方をうかがう。そして口を開きかけ、それでもためらってまた閉じ、かといって落ち着いてはいられずに、ひたすらその動作を繰り返していた。
「どうかしたの?」
 するとその気配だけで気づいたのか、台所にいた母親が不思議そうに振り返った。少女と同じ黒い髪に黒い瞳。だが子どもがいるとは思えない若さだと近所でも評判だった。少女はそれをひそかに嬉しく思っている。
「どうかしたの?」
 そう繰り返す母親を少女は見上げた。そしてぶらつかせていた足を床につけ、深く呼吸をすると決心を固める。
「ねえお母さん、ずっと聞きたかったんだけど。お母さんのいた世界のことを教えてくれる? お母さんたちのこともっと知りたいの。私、何も知らなかったから」
 少女の懇願に、母親は細い眉をかすかにひそめた。それでも半ば予想していたのか困ったように嘆息して、傍にかけてあったタオルを手に取る。
「長い話になるわよ?」
「いいよ。だって何にも知らないままだと、私嫌だもの。黙って聞いてるから教えてよ」
「そうね、あなたももう小さな子どもじゃないものね。わかったわ、じゃあちょっと待ってね」
 宥めるのは諦めたのか、タオルで手を拭きながら母親は歩いてきた。どう説明しようか考えあぐねているらしく、綺麗な眉がほんの少し歪められている。
「早く早く」
「はいはい」
 母親は少女の隣に座った。言葉を選んでいるのか視線をさまよわせてから、ゆっくりとその唇が動き出す。
「もしいま私たちがいるこの世界を、無世界むせかいと呼ぶなら」
「むせかい?」
「そう、無世界。私が生まれた世界は神魔世界しんませかいと呼ばれる世界だったわ」
 静かに話しだす母親に、少女は真剣な眼差しを向けた。居間に不思議な空気が漂っていく。時を刻む時計の音が、妙に耳に強く響いた。
「そこには科学じゃあ説明することのできない不可思議な力が存在するの。『技』と呼ばれる力。使い手は技使いと呼ばれたわ」
「お母さんもそうだよね?」
 間髪入れず放たれた少女の問いかけに、母親はうなずいた。肩程ある黒髪が緩やかに揺れ、口角が上がる。少女はその様をじっと見つめ、さらなる言葉を待った。それは異世界の話。少女の知らない、けれども密接に関わっている世界の話。
「移動の手段にも、あかりの代わりにも、その力は使われたわ。機械が社会に浸透しているのと同じくらい『技』は使われていた」
「使える人は限られてるのに?」
「ええ。それだけ便利で、強い力だったから」
 そう説明する母親は、もう戻れない世界を思い出してるかのようだった。揺れる瞳の奥がかすかに光っている。悲しみと、懐かしさと、愛しさの込められた瞳。
「何故力が使えるのか、使えないのか、それはわからないの。親からの遺伝でもないし、ましてや努力で得られるものじゃあないから。技使いの中でも能力の差が激しいしね。でも技なしでは成り立たない程浸透していた」 
 少女は母親を見つめた。俯き気味のその横顔からでは感情も読みとれない。だから彼女はただ黙って続きを待った。時計の音が耳に残り、静寂を強調していく。
「でも技使いが全て善人というわけでもなかった」
 母親は顔を上げた。やや寂しそうな瞳を間近から見据えて、少女は息を呑む。続きをどこかで聞いたことがあるような気がしてならなかった。心臓が高鳴り、不思議と喉が鳴ってしまう。
「駄目だと言われているのにこの無世界に入り込む人たちがいたの。自分たちの生活を向上させるためにね」
 そうだ、だから取り締まらなければいけないのだと言っていた。
 少女はそれを思い出した。その話をした時の母親の顔も、鮮明に思い出した。
「技のない世界で、技使いはいわば神にもなれる。やりたい放題なのよ。でも神魔世界側もそれを放っておくことはしなかったわ」
「だから派遣されたんだよね?」
「そう。そういった者たちを取り締まるために、私たちが派遣されたの。神技隊しんぎたいと呼ばれる部隊がね」
 母親はほんの少し笑みを浮かべた。つられて少女もにこりと微笑む。
「メンバーは五人、もちろん全員技使いよ。でも勝手に無世界に入り込む人たち――違法者は後を絶たなかった。だから毎年派遣されていった」
「毎年? すごいね」
 かすかに母親は相槌を打った。膝の上のタオルから手を離し、自らの頬へと持っていく。
「五年で任務は終了になるの。ずっと取り締まれというのもなかなか難しいからね」
 けれどもそう言ってため息をつく母親は、どこか呆れた顔をしていた。少女に向けられた感情ではない。目を丸くした少女は、小首を傾げて問いかけるように母親を見つめる。
「生活するためにはお金を稼がなきゃいけないでしょう? その一方で取り締まるのよ。両立させるのは至難の業なの。下手したら、餓死してしまうくらいにね」
 その言葉には、少女も笑うしかなかった。両立というのは何だろうと難しいらしい。親しみがわいてきて、彼女は何度か相槌を打った。
「子どもができたりなんかしたらもう無理だしね」
「お母さんみたいに?」
「そうね」
「でもお母さん、仕事終わった後どうして神魔世界に戻らなかったの?」
 少女はそれがずっと疑問だった。何故残ったのか、帰らなかったのか、不思議で仕方なかった。生まれたところに帰りたいと思うのは普通の感情のはずだ。問いかけられた母親は、寂しそうに微笑む。
「帰れなかったの。帰ってはいけなかったの」
 少女の動きが止まった。
「私たちは戻ることを許されなかったの。理由はわからないけどね、何度聞いても教えてくれなかったから」
「それってひどい!」
「仕方ないのよ、全ては世界のためだったから」
 泣きそうな顔の少女の頬に、母親は手を添えた。泣かないでと囁く声に、少女は小さくうなずく。納得したわけではないが、母親を困らせたくはなかった。母親自身だってきっとずっと悲しいはずなのだから、それなのに堪えているのだから。
「世界を不安定にしないための、仕組みなのよ」
 言い聞かせるような言葉に、少女は唇を噛みしめた。理不尽だと叫びたかった。だが母親の瞳を見つめていたら、何も言えなくなる。
「でもそれももう必要なくなるわ」
「え?」
「世界は変わる、より正しき姿へと。私たちのような犠牲者はいなくなるの。だから泣かないで、ね」
 母親の言わんとする意味を、少女は理解することができなかった。だがまだしなくてもいいと思った。それはとてつもなく大きな何かだと感じ取ることができたから。
「じゃあ今日はここまでね」
「えっ!?」
「続きは今度。もうすぐテストでしょう? お勉強の邪魔しちゃわるいもの」
 悪戯っぽい母親の笑みに、少女は閉口した。驚きで涙はもう奥へ引っ込んでしまったようだった。ただしてやられた感があり、立ち上がる母親を少女は不満そうに見上げる。それでも何も言わずに母親は台所へと戻っていった。茜色に染められた背中がほんの少しだけ寂しげだ。


 世界はより正しき姿へと変わる。
 だが変化は痛み無しにはなされなかった。
 巻き込まれた者たちが何を思い、何を目指したか知るものは多くない。全ては歴史の、神話の彼方に。


 その始まりを知る者は、まだ『存在』していない。

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