white minds

第二章 標的-1

 今日何度目かのため息を、梅花は無意識に吐き出した。そしてそのことを自覚し口元に自嘲的な笑みを浮かべる。
 彼女は、いや、彼女たちは五日前からずっと公園に陣地を構えていた。それなりの許可は無理矢理取っているが、そこで商売をしているのである。それは特別任務を受けるため移動を余儀なくされる彼らの、限られた生活手段だった。定住できればもっと楽なのだろうがと、皆はいつもこぼしている。
 あの事件から三日が過ぎた。
 違法者たちにも目立った動きはなく、平穏な日々が過ぎていた。だが実際彼女に平穏な時間はなかったのだが、それは他の神技隊には内緒である。
 彼女が神魔世界から戻ってきたのは、今朝のことだった。日が昇ると同時に無世界へ辿り着いた時は、思わず苦い笑みが浮かんだものだ。
 任務失敗を告げるだけならもっと早かったんだけどね。
 心の中でそっと彼女はそうつぶやく。
『上』――神魔世界の実権を握る者たち――がしつこいということは、彼女自身がよく知っていた。このままではストロングはまともに活動できない。だから彼女は無謀にも、上に命令取り消しを申し出たのである。
『ストロング先輩を捕まえても、彼らは協力しませんよ。怪しんでますからね。気の放出をしない技使いが囮になると思いますか?』
 そう言ってやった時のあの驚いた表情は今でも鮮明だった。まさかそう来るとは思っていなかったのだろう。言葉を失っていた。
 私が反抗するのと、彼らが反抗するのでは重みが違うもの。
 彼女は心中で苦笑した。
 命令無視は彼女にとって日常茶飯事だったが、それでも上が彼女を手放さないのには訳がある。
 彼女が彼らの事情に通じているからだ。そしてその利害にぎりぎり反しない際を歩いているからでもある。
 ストロング先輩を囮にしようという考えは、いわば切羽詰まって適当に出した単なる逃げ道。だから彼らはそこに固執しない。
 それを彼女はわかっていたからこそ提案したのだ。もっともその代償があることも理解していたが。
「人使い荒いのよねえ」
 ぼそりと彼女はそうこぼした。
 丸二日働き通しにも近かった。彼らとて何も言わずに条件を飲み込むわけではない。条件として雑務処理を押しつけてきたのだ。そのどれもが面倒なものだった。面倒だからこそ押しつけられたわけではあるが。
「溜め込まなきゃいいのに」
 彼女はもう一度ため息をついた。視界に入る公園の木々がやけに明るく見える。それは神魔世界とは違う景色を作り出していた。のどかなのに、どこか華やか。
 次の命令はまだきていなかった。おそらくどう動くか話し合っている最中なのだろう。対応が遅いのはいつものことだから仕方ない。
 仕事を受けるのはかまわないんだけど、あの建物に入るのがね……。
 彼女はそう独りごちた。あの建物というのは『上』が住んでいる場所のことである。宮殿のような建物で、『ジナル族』と呼ばれる人々もまたそこには住んでいた。
 彼女は、そのジナル族の一人だった。
 つまりそこは彼女にとっては故郷でもあるわけだ。しかし戻りたいと思うことも懐かしく思うこともなかった。
 あの空気はどうしても馴染めない。
 彼女は微苦笑しながら、やや離れたところにいる仲間たちを見やった。彼らは白いテーブルを前にして、おかずが少ないだとか、ウーロン茶がいいだとかわめいている。いつも通り賑やかな様子だ。
 私ももっと気楽になれたらいいんだけど。
 無論、それができないことなど彼女が一番よく知っていた。だからこそ上に重宝されるのだ。現状に理解があると。
 どうなってるのかしらね、上は。
 彼女は宮殿の様子を思い描いた。神技隊ならば誰もが不思議に思っているところである。絶対的な力を持ちつつもそれを濫用しない、けれども何か思惑があって動いていることは確かで、しかしそれは本当の上位以外は誰も知らない。
 おそらくストロングの話を前から知っていたのは自分だけだろう、そう彼女は思った。混乱を招くから話すのは避けていたのだが、補足してもよかったかもしれない。
 誰がどこまでの情報を知っているか、見極めるのは難しい。そしてその情報がどんな効果を生み出すか、推し量るのはさらに難しい。
「こんなとこで何考え事してるんだよ」
 すると足音が近づいてきて、彼女は顔を上げた。目の前には心配げな顔の青葉が、袋を持って立っている。
「ううん、別に」
「昼の時間。お前来ないとようが食べないから」
「わかったわ」
 簡潔に答えた彼女はそのまま彼の横を擦り抜けた。慌てた彼が走り寄ってくるが、決して振り返りはしない。
「相変わらずつれない奴」
「そんなこと前からわかってるでしょう?」
「だから諦めろってか。あのなあ、少しはコミュニケーションしようとか思わない? オレら仲間だろ?」
 しかしその言葉に、彼女は前触れもなく立ち止まった。ぶつかりそうになった彼が、それを避けようとしてバランスを崩す。
「一時的な、ね。だから青葉も気を遣わなくていいのよ。私のことなんて放っておいていいんだから」
「あのなあ」
「リーダーだからってそんな心配は無用なの。後四年、仕事は滞りなく進ませるから」
 彼女は彼を一瞥すると、また歩き出した。やや離れたところでは二人が来たことに気づいたようが、嬉しそうに手を振っている。
「それじゃあオレが嫌なんだよ」
 そう彼がつぶやくのを、彼女の耳が捉えることはなかった。彼女は無表情のまま足を進めた。




 昼食の片づけをしながら、梅花は何気なく左手に目をやった。それはほとんど無意識の行動で、無世界に来てからは癖のようになっていた。
「あっ……」  腕時計に見せかけている物、その脇に付いている赤いランプが光っていた。
 命令だ。
 見なければよかったと心の隅で思いながら、彼女は小さく息をこぼす。どうやら上の相談も終わったようだ。次の指令が無茶でないことを祈り、彼女は白いテーブルに布巾を置く。そしてすぐに出かけようとして、しかし思い直して振り返った。その黒く長い髪が緩やかに揺れて視界の端に映る。
「青葉」
 彼女は声を低くしてその名を呼んだ。
 この前は勝手に任務に出かけて後で散々文句を言われたのだ。今回もとなったら何言われるかわからない。不機嫌になられるとアサキたちも困るのだ。
「ん?」
 空になった弁当箱を手にしながら青葉が顔を上げた。呼ばれたことが不思議なのか、手を止めて目を丸くしている。
「どうした? 梅花」
「また命令がきたみたい。あの後だからどんな内容かわからないけれど、とにかく行ってみるわ。だから後よろしく」
 用件を告げると彼の顔がさっと曇った。わかりやすいくらいに曇った。だがこれは彼女にもどうしようもないことだった。あそこへ行けるのはジナル族の、それもゲートを開くことを許可された者でなくてはいけない。それは今のところ彼女だけだった。
 目を細めた彼が、おもむろに口を開く。
「大丈夫か?」
 一瞬、その言葉の意味が彼女はわからなかった。けれども帰ってきたのが今朝なのだと思い出し、ようやく合点がいく。
「ええ、大丈夫。今回はそんなに時間かからないとは思うわ」
「……そうか」
 だがそう答えても彼は一瞬苦い顔をして黙り込んでしまった。何を考えているのか、気に聡い彼女にもさっぱりわからない。
「気をつけて行って来いよ」
 一旦間をおいてから、声を絞り出すように彼は言った。素直にうなずいて彼女はくるりと踵を返し、もう一度左手に目をやる。
「ああそうそう、店の方よろしくね」
 だが途中で振り返り、彼女は軽く笑った。『店』という単語が生み出す魔力だと何となく思う。営業スマイルというものらしいが、うまくいかなければ死活問題である彼らにとっては必須なものだった。ここ無世界に来て会得したものだ。そうでなければ彼女が笑うことなど滅多にない。
「ああ」
 彼は苦笑しながら、言葉少なにそう答えた。
 彼女はそのまま足早に、ゲートへと向かった。

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