white minds

第五章 心-2

 見上げた空には厚い雲があって、梅花はかすかに顔をしかめた。風からも雨の気配がする。この調子では午後からは降り出すだろう。そう考えると憂鬱だった。
「困ったわね」
 小さくつぶやいて、彼女は白い簡素なテーブルを拭き始めた。雨が降れば売り上げはまずないと思っていい。最近は本業がなくて楽だが、副業がお休みとなればそれは問題だった。
「やっばい天気だなあ」
「本当でぇーす。これじゃあお客がいなくなるでぇーす」
 そこへ昼の買い出しに出かけていたサイゾウとアサキの声がした。そちらを一瞥すれば、顔を曇らせた二人が空を見上げている。
 不安定な収入をやりくりするのは梅花の仕事だが、雨が大敵なことは誰だって知っている。それが長いこと続けば食費にも困る。違法者よりもよっぽどたちの悪い敵だった。
「あ、梅花」
 それでもテーブルを吹き続けていると、背中にサイゾウの声がかかった。彼女は顔上げて首を傾げる。サイゾウに呼ばれるなど珍しくて、自然と訝しげな目になった。普段愛想のかけらもないせいか、彼は彼女を苦手としているらしい。仕事以外で声をかけてくることは滅多にないのだ。
「何?」
「あのさ、お前、ずっとここに居たよな?」
 それは唐突な質問だった。梅花は眉をひそめながらも首を縦に振る。本業でもなければ買いだし以外で出かけることなどない。
「ええ。私はどこにも出かけてないわよ」
「そうか……」
 簡潔に答えれば、サイゾウは困惑した顔で押し黙った。悩むというより思案している様子だ。これまたサイゾウとしては珍しい。予感を覚えながら、彼女は言葉の続きを待った。
「気のせいかもしれないけど……さっき店でお前によく似た人を見かけたんだ。まさか、レーナじゃないよな?」
 彼はおそるおそる口を開いた。そんなことはあり得ないと瞳が語っている。だが彼にとってはそれ以外の可能性がなかったのだろう。語尾が上がっているのもそのために違いない。
 確かに、彼らビート軍団はこちらの世界を出入りしていた。しかし現れる場所が店とは考えにくい。戦闘をけしかけてきても買い物をする姿なんて想像できそうにない。
 けれども彼女には、もう一つ心当たりがあった。
「そう。違うとは思うけど、一応は気を付けておくべきかもね。何が起こるかわからないし」
 彼女は適当にはぐらかして、また次のテーブルを拭き始めた。サイゾウのため息が聞こえて、それから足音が遠ざかっていく。問い質すのを諦めたのか、それとも単に興味を失ったのか。
 やっぱり、この近くにいるのかしら?
 手を動かしながら彼女は独りごちた。
 そんなときがいつか来るとは、考えてはいた。記憶にはひとかけらも残っていない両親、だが彼らも神技隊としてこの世界にやってきているはずだった。任務から解放されたとしても、遙か遠くに住むことはまずないだろう。ならば、いつか出会う可能性がある。
 梅花はゆっくりと手を止めた。
 突然会って動揺するよりは、こちらから動き出した方がいいのかもしれない。
 ちらりと見上げた空は、やはりどんよりとした灰色だった。先ほどよりもさらに暗くたれこめている。
「どうして、動揺なんてするのかしら」
 思わずもれたのは自嘲気味なつぶやきだった。口元に苦い笑みが浮かぶ。
 覚悟なんて、ずっとしてきたはずなのに。それなのに話を聞くだけで気持ちが曇る。
 小さい頃は、ただ一心に親に会いたいと願っていた。今どうしているのか、元気でいるのか、確かめたいと思っていた。だから神技隊になりたいと願ったのだ。ジナル族が神技隊に選ばれる可能性は、今ではかなり低い。だがそれでもそのほんの少しの可能性にかけたいと思ったのだ。
 しかし、いつからだろうか。そんなことどうでもよくなったのは。
 ジナル族を、上を、神魔世界を知るにつれて、他人の関係に水を差すことが嫌いになった。それはたとえ親だとしても、同じだった。
 彼らは無世界で生きている。別の世界で、別の家族として、生きているはずだ。
 これ以上誰かの幸せを壊すことは、彼女は嫌だった。
 そうだ、だからこそもし本当に顔を合わせたとしても、冷静でいなくてはならない。冷静でいるためには、覚悟を決めなければならない。悩んでいてはいけない。
 彼女は唇を噛みしめて、顔を上げた。心を落ち着かせようと深く息をして、一度目を閉じる。
 すると突然肩をぎゅっと掴まれ、彼女は身を固くした。それでも声がもれそうになるのは、何とか堪える。この感触には覚えがあった。
「う・め・か! 何ぼーっとしてんだよ。やっぱり具合でも悪いのか?」
 背後にいたのは、やはり青葉だった。この気安い態度と陽気な声に間違いはない。彼女は頭だけで後方を見上げた。心配しているのかからかっているのかわからない顔で、彼は瞳を瞬かせている。
「別に。天気のこと気にしてただけ」
 彼の手を振り払って、彼女は眉根を寄せた。馴れ馴れしさがこう言う時はうっとうしい。軽くにらみつけながら、彼女は布巾を再び手取った。
「あ、天気? そうだな、こりゃあまずいよな」
「ええ。だから中もすぐ片づけられるようにしておいてね」
 彼の顔を見ずに彼女はそう言い放った。背中から小さなため息が聞こえる。サイゾウの時と同じだ。諦めたらしい。
「わかったわかった。だからあんま考え込むなよ? 体に悪いぞ、程々にしなきゃ」
 けれどもそう付け加えながら、彼は去っていった。気配が遠ざかるのを確認して、彼女はその方を一瞥する。車の中にある厨房へと戻っていったのだろう。既に姿は見えない。
「考え込むなって……」
 つぶやきながら彼女もため息をついた。それはお互い様だろうと言いたくなる。表には出さなくても彼がいつも何か考えているのは、よく知っている。 それが何かまではわからないが。
「余計なのよね」
 私のことなんて気にしなければいいのに。
 その一言を彼女は飲み込んだ。リーダーだからって気負わなければ、彼だってもっと楽になれるはずだ。
「結局は私のせいなのか」
 彼女はまた空を見上げた。動く気配のない雲は、先ほどと変わらず辺りを隙間なく覆っていた。



 この異様な光景をどうしたらよいのか、ネオンは困惑していた。
 洞窟の中は涼しい風で満ちていて、時折海の匂いを運んでくる。
 だがそんな爽やかな環境でさえ、レーナの鼻歌の前では無意味だった。異様だ、とてつもなく異様だ。ちょっと嬉しいというレベルではない、おそらくご機嫌なのだろう。
 誰か理由を聞いてくれと、ネオンは祈る。
 隣には同じく気味悪そうにするカイキと、怪訝そうなアースが座り込んでいた。イレイは不思議そうに目をきょろきょろとさせている。誰もがきっと異様だと思っているに違いない。このときばかりは、四人の心は一つだった。何かがおかしいとしか思えない。
 お願いだ。
 誰か理由を聞いてくれ、そして安心させてくれ。
 ネオンはもう一度祈った。このままでは何も話せないし何もできない。退屈だし肩身が狭い。
 するとその願いが通じたのか、岩壁にもたれかかっていたイレイが体を起こした。剣をいじるレーナを真っ直ぐ見つめて、彼は口を開く。
「ねえ、レーナ。何かいいことでもあるの? 何かあるなら独り占めしてないで僕にも教えてよー」
 まるで子どもが何かをねだるように、イレイは尋ねた。すると視線を彼へと向け、レーナは小首を傾げる。そして春に花が咲くように微笑を浮かべた。
 自然と、喉が鳴った。よくわからないが手に汗がにじんで、ネオンはこっそりアースを一瞥した。予想通り固まったアースは息さえしてないようだ。それだけの威力が彼女の微笑にはあった。
 少なくとも、彼らの見てきた彼女はそんな風には笑わない。まるで普通の少女のようには笑わなかった。
「いいこと? うん、まあいいことかな。会いたかった人にちゃんと会おうと思って」
 本当に嬉しそうに告げる彼女に、それが誰だかは聞き返す者はいなかった。アースの気配が研ぎ澄まされる。ネオンは固唾を呑んだ。
 こりゃあ機嫌が悪くなるぞ。絶対近づかないでおこう。
 心でこっそり誓って、ネオンはレーナを見た。気づかれないようじりじりとアースから遠ざかり、少しずつ距離を稼ぐ。できるだけ危険は避けたい。
「じゃあわれはそろそろ出かけてくるから、あとよろしく。ああ、大丈夫、危ないことなんてしないからな。心配しないでくれ」
 そう言って彼女は立ち上がった。後半の言葉はおそらくアースに向けたものだろう。笑顔を振りまくと表現するのが適した様子で、彼女は洞窟を足取り軽く出ていく。
 これは、誰かに犠牲になってもらわないとまずいな。やっぱり今回もカイキに頼もう。
 一人で勝手に押しつけることを決めて、ネオンは首を縦に振った。既にレーナの姿は見えなくなっていて、止められなかったアースの機嫌が悪化する一方なのは明白だ。それなのにカイキは全く気づいていないようだった。
「結局、レーナが来ても変わらないんだよなあ」
 誰にも聞かれないよう小さくつぶやいて、ネオンは嘆息した。 諦めでもなく呆れでもなく、ただ安堵の色をにじませながら。

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