white minds

第五章 心-3

「お、お客様。ご注文は?」
 ひきつる顔を何とか笑顔でごまかそうとしながら、サイゾウは目の前の客に尋ねた。やってきたのはこんな昼間としては珍しい二十歳前後の青年。肩ぐらいまで伸びた髪が今は湿気を帯びて肩口で跳ねている。
「そうだなあ。ええっと、メニューってどれだ?」
 サイゾウの方をちらちらと見ながら、青年はニタニタと笑っていた。わざとらしい仕草で辺りを見回す様は、胃のそこからふつふつと怒りを生じさせる。
 あまりにもわざとらしい。わざとらしさを通り越して嫌がらせとしか思えない。これが普通の客ならば我慢するところだが、相手は彼らの仲間であった。だからこそサイゾウのこめかみはひきつるばかりだ。
「ダ、ダン先輩。冷やかしなら後にしてください。今、忙しい時間帯ですから」
 それでも一応怒りを押し殺した声で、サイゾウはそう言った。目の前にいるのはストロングのダンだった。謎の多いストロングの中で最も口が軽く、最もひょうひょうとした存在だ。そんな彼が突然現れて注文し出すのだ。何か用事かと気を張りつめていたのが馬鹿らしくなってくる。
「へえー、忙しいのか。客はいなくても忙しいなんて、大変だなあ、お前たち」
 だが何とか試みた反撃は、あっさりと弾き返された。雨が降り出す直前の天気。そんな状況ではダン以外に客はいない。
「ははは……そうですねえ、忙しいですねえ」
 ついにサイゾウは笑うことしかできなくなった。堅い笑みを浮かべたまま声だけを響かせる。手を出さなかった自分を、彼は褒めてやりたい気分だった。先輩でなかったら抑えきれなかっただろう。
 しかしそこへ幸運にも、背後から見知った気配が近づいてきた。助け船だと嬉しくなったサイゾウは嬉々として振り返る。そこには先ほどまで材料の整理をしていたアサキが立っていた。輝かんばかりの笑顔だ。
「ハーイ、ダン先輩! 今日はどうしたんでぇーすか?」
 独特の口調でアサキはダンへと手を挙げた。爽やかな挨拶だ。サイゾウが同じことを言えば吹き出されるだろうが、何故かアサキが言うと様になる。整った顔立ちのせいか、それとも纏った雰囲気のせいかはよくわからないが。
「よう、アサキ! 元気そうだな。他の奴らはどうした? ちょっと聞きに来たんだけど」
 するとダンも同じくらい元気よく挨拶を返した。先ほどのニタニタ笑いの影すら感じさせない、爽快とした笑顔だ。
 あれ?
 サイゾウは首を傾げた。何故アサキが相手だとこうも反応が違うのか、と。
 まさか自分がからかわれやすい対象だとは彼は思ってもみなかった。またこのときダンの趣味が『からかい』であることも、彼は全く知らない。
「梅花は珍しくどこか出かけて、青葉はそれを追いかけて行っちゃったでぇーす。まあ、今日はこんな天気ですから仕事にもなりませぇーんけど」
 眉を寄せてため息をつく振りをして、アサキは説明した。ダンはふーんと意味ありげにうなずいてからオレンジジュース一つ、と注文する。軽やかに振られる指先が彼らしい。
「わぁーかりました。サイゾウ、お願いしまぁーす」
「え? お、おうっ」
 アサキに頼まれ仕方なく、サイゾウは奥の方へ足を延ばした。すると背後では何やらアサキとダンが小声で話している気配がする。ぼそぼそと聞き取れない音が鼓膜を震わせた。何故だか仲間はずれにでもされた気分だ。
「嫌な予感というか、変な予感があるって。何か梅花にあるっぽいってレンカが言ってた」
 ジュースを注ぎながら耳をそばだてだが、聞こえたのはそう告げるダンの声だけだった。
 嫌な予感? 梅花に何かある?
 サイゾウは再び首を傾げた。確かにごまかすような用を言って出ていく梅花というのは珍しい。けれども梅花にだけ何かある、というのが腑に落ちなかった。
 しかし考えていても仕方ないので、サイゾウはコップを持ってダンの方へと急ぐ。話の続きは聞けないだろうけれど、これ以上ダンにいられるのも不愉快だった。
「へい。オレンジジュース」
 素っ気もなくサイゾウはコップを手渡した。揺れるオレンジ色の液面はそれでもコップからはみ出ず、内心で彼はほっとする。
 客へのサービスがなってないねー、と言いながらそれを受け取り、ダンは一気に飲み干した。その場でとは早い。やはり注文はついでだったのだろうか。
「はい、お代。んじゃ、オレもう帰るから」
 ダンはコップとお金をを無理矢理サイゾウに押しつけ、そのまま有無を言わさず踵を返した。そして足取り軽く公園の脇道を駆けていく。
「あ! ちょっとダン先ぱ――」
 慌ててサイゾウは叫ぶが、その声は彼には届かなかった。小さくなった背中は細い木々の向こうに隠れてしまう。追いかけるのは無理だろう。
「……お金、足りないんすけど」
 ボソッとつぶやいてから、サイゾウは大きくため息をついた。背中を叩くアサキの手が、何だか切なく感じられた。



 ただ当てもなく人を捜すなど、無理なことに思えた。舗装された道を歩きながら、梅花は素早く視線を巡らす。無意識に気配を殺していたのか足音はしなかった。そのことに苦笑しながら彼女は口の端を上げる。
 実際は気を頼りにしているのだから、手がかりが全くないというわけではない。だがその気もほとんど知らないのだから同じようなものだった。一度感じた気なら彼女は判別できる。だが赤ん坊の頃ではそれもままならなかった。当時はまだ技使いとして目覚めていなかったから、感じていたとは思えない。
 道の傍にはマンションやアパートが建ち並んでいた。どちらがどちらとも梅花には正確に区別はできない。だが舗装具合、建物の壁を見る限り裕福な家が多いようだった。それなりの仕事に就き、それなりの生活をしている者が多いのだろう。
 恵まれた者たちの空間だ。
 空を見上げれば、マンションの隙間からかすかに太陽の光と思われるものが見えた。まだ午前だろうか? 雲に覆われているため光はにじんでよくわからない。空気は蒸していた。午後には降り出しそうだなと、梅花は小さく嘆息する。
「気って、親子で似てるのかしら?」
 ぽつりと彼女はつぶやいた。そんなことは誰にもわからなかった。親子で技使いという例は多いわけではないし、実際確かめた者などほとんどいないはずだ。遺伝と関係ないのだから、全く共通点がなくてもおかしくはない。
 では、自分は何を頼りに探しているのだろうか?
 問いかけながらも彼女はわかっていた。探しているのは強い気だ、技使いの気。知り合いの者ではなく違法者の者ではない強い気。それがこの近辺にはあるはずだ。
 他の元神技隊、っていう可能性もあるんだけどね。
 彼女は胸中でつぶやく。心は穏やかではなかったが頭は冷静だった。昔から同じ、どんな時でも頭の片隅にある冷静な自分が現状を把握している。
 けれども、さすがに範囲が広すぎだった。この近辺といっても確証がない。立て続けに見かけられたのだからそれほど離れてはいないだろうが、車で立ち寄っただけならば徒歩では探しきれない。この調子では今日中には見つからないかもしれなかった。今はよくともだんだん疲れてくるだろう。精神の集中はかなり疲労する。
 そろそろ休憩しなくては、集中力も持たないかもしれない。仕方なく梅花は一休みすることにした。幸いにもすぐ傍に小さな公園があった。彼女は目立たないよう、その隅のベンチに腰掛ける。
「馬鹿だわ」
 もれだした言葉は断定だった。馬鹿なことをしてるなと、それは自分でもわかっていた。でも決着を付けないことには気が済まないこともわかっている。けじめぐらいは付けなければ、前へ進めない。
 きゃー、とはしゃぐ子どもの声が耳に届いた。目を向ければ二、三歳ぐらいの子どもが砂場で遊んでいる。飛び跳ねたり砂をまき散らしたり駆け回ったり、ともかく賑やかだ。近くにいる親たちはお喋りに夢中のようで、時折楽しそうな声まで聞こえてくる。
 無邪気ね。
 自分の過去とちっとも重ならないその様子を、彼女は微笑ましく思った。平和な親子の姿というのは、宮殿ではまず目にしなかった。あそこはいつもぎすぎすとした雰囲気に包まれていたから。
「え?」
 だがその時不意に、滑り台の上でじゃれあっていた子どもの一人が手を滑らせた。その瞬間を彼女の瞳は捉えた。母親たちはきっと間に合わない。
 どうする?
 理性の問いかけと本能の飛び出しはほぼ同時だった。技使いとしてのスピードなら間に合う。きっと見ている者だっていないはずだと、すぐさま理性も承認した。
 すんでの所で地面と衝突する前に、その子どもを彼女らは抱きかかえた。何が起こったかわからない子どもは瞳を瞬かせている。どこにも怪我はない。
 ほっとすると同時に、梅花は目の前にいる人物を見た。
 飛び出してきたのは、彼女一人ではなかった。同じように飛び込んできた女性が一人、かろうじて子どもの下に手を添えていた。年は二十過ぎ、肩ぐらいに髪を伸ばした細身の女性だ。
 そこでようやく、怖かったのだと認識した子どもが泣き始めた。滑り台の上にいた他の子どもたちも駆け寄ってくる。母親も、気づいたようだった。
「晃!」
 駆け寄ってきた母親らしき女性は、事態を察知すると何度も頭を下げた。固まっていた子どもは母親にしがみついて離れようとはしない。すすり泣きだけがもれてきた。
「本当、どうもありがとうございます」
「いえ、怪我がなくて何よりです」
 梅花よりも早く、立ち上がった女性は軽く微笑んだ。同じく立ち上がって、梅花はそっと気づかれないようその場を離れる。母親の謝る言葉が何度も続いた。その手はしがみついた子どもの頭を撫で続けている。
 落ち着かなければと、梅花は自らに言い聞かせた。また違和感を抱かれてはいけないとも、言い聞かせる。
「ほら、晃。帰るわよ」
 ポケットからハンカチを取り出しながら、子どもを抱きかかえて母親は去っていった。それを契機に他の母親たちも子どもの手を引いて帰っていく。もうすぐ昼時なのだろう。この天気ではそれももっともな判断だった。あまり長居をしては風邪をひいてしまうかもしれない。
 どうしようか?
 去っていく子どもたちを見送って、梅花は口角を下げた。あまりに突然のことで言葉を用意していなかった。視線を感じる。残ったまま、立ちつくしたままの女性の視線を。この公園に残ったもう一人の女性が、立ち去る気配はなかった。
「あの――」
 最初に声をかけてきたのは、その女性の方だった。遠慮がちに、不安そうに。だから導かれるよう梅花はゆっくりと振り返った。
「うめ、か、でしょ?」
 そうであって欲しいと、願いの込められた声だった。梅花は少しの間返答に困ってから、小さく首を縦に振る。ごまかすのは無理だったし、そんなことしても意味はなかった。耳にかかっていた長い髪が揺れる。
「そうです」
 答えた言葉には、感情はこもってはいなかった。我ながらここまで冷たいかと思う程の、醒めた声音。
「……そう。久しぶりね、本当に、ものすごく」
 女性の声は次第に小さくなっていった。怯えているとも戸惑っているとも感じられるその様に、梅花は本当に申し訳なく思う。困らせたいわけではないのだ、苦しませたいわけではないのだ。ただ気持ちを落ち着かせようとすると感情が表に出なくなるだけで。
「捜してました」
「え?」
 だからせめて事実だけでも告げようと、梅花はそう言葉を続けた。声を途切れさせた女性は、瞬きを繰り返している。
「近くにいると聞いて。捜してました、お母様」
 梅花はじっと目の前にいる女性を、母を見つめた。今この場に鏡はないから正確なことは言えない。だが似ていると思った。他人が見ても血のつながりがあるだろうと即思う程に似ていた。ただ見た目の年齢があまりに近いから、姉妹と判断されるだろうけれど。
 黒く艶のある髪も、黒曜石のような瞳も、白い肌もそっくりだった。父親の影響を感じさせない程。
「そう、付いていらっしゃい」
 軽く微笑むと、女性――ありかは歩き出した。迷いのない足取りに、梅花は目を細める。やはりこの近くに家があるのだろう。
 それから二人はただ黙って歩いた。部屋に着くまでひたすら言葉を交わさず歩き続けた。部屋の前で、どうぞ、とありかが言っただけだ。十何年ぶりの再会は、予想したよりもずっと穏やかなものだった。内心で梅花はほっとする。
「そこに座って」
 ありかはソファを軽く指さすと、奥の台所へと姿を消した。梅花は目だけで部屋の中を見回す。小綺麗な印象のそこには余計な物がなく、すっきりとした印象だった。家具の質も良さそうだ。周りにあるマンションと違わず、恵まれた生活を思わせる。
「さっ、どうぞ。飲んでいいわよ」
 お盆を手にしてやってきたありかは、小さなテーブルにカップを置いた。内側に花が描かれている白いカップを、梅花はそっと手にする。唇を寄せるとほんのりと甘い香りが広がった。細かい種類はわからないが、紅茶の一種だろう。
「あなたも、来るなんてね。予想もしてなかったわ」
 テーブルの前に腰を下ろして、ありかはぎこちなく口を開いた。梅花はカップを起き、瞼を伏せてどう答える考える。あまり重荷になる返答はしたくなかった。
「ええ。今、いろいろ大変ですから」
 結局梅花はそう簡素に答えるに止めた。実際色々大変なのは事実で、そうでなければ『上の者たち』は彼女を手放そうとはしなかっただろう。真実ではないが嘘ではない。自然と自嘲気味な笑みが浮かぶ。
「そう、なの」
 けれども俯いていたありかには、その表情は見えなかったようだ。ぎこちない言葉が返り、会話が途切れる。
「妹、いるんですね」
 時計の音が響き渡る中、部屋へと視線を巡らせていた梅花はふと気がついた。つぶやきのような言葉だったが静かな部屋ではありかの耳にも届いたらしい。彼女は顔を上げて驚いたように目を丸くした。首を傾げると同時に、肩程の髪がさらりと揺れる。
「そ、そうよ。どうしてわかったの?」
「いえ、それらしい鞄がありますから」
 ソファの横には可愛らしい鞄が置かれていた。公園で見かける少女たちの物を思い出せば、おそらく中学生くらいの子だろうと予想できる。
「そうなの。あすずって言うのよ」
 しんみりとした口調でありかは言った。そうですか、と梅花は感慨のない声で答える。
 妹がいたとしても何ら不思議はなかった。彼女たちは今神技隊という枷をはずされて生活しているはずなのだから。見た目が若すぎることを除けば、何ら問題なくやっていける。
 だがそれでも不思議な気分だった。自分とは縁遠い世界のこと。その中に、梅花が入ることはない。
「お父様は?」
乱雲らんうんは元気よ。忙しいけれど」
 問いかければありかはやや声を高くして答えた。興味を持ってもらえたことが嬉しいと、如実に瞳が語っている。
 はっきり言ってその名は無世界では怪しすぎる。が、それでも何とかやってはいけるているようだ。公園で時折不思議な名前で呼ばれている子どもがいることを思い出し、梅花はこっそり安堵する。自分たちの名前はこの無世界では珍しいとずっと教えられていた。だがそれも、少しずつ変わってきているかもしれない。
「そうですか」
 しかしそんな内心も、表面には全く出なかった。余計なことを言うまいとすれば、返答はどうしても簡単なものになる。
 ありかの顔がわずかに曇った。けれども気からその感情が透けて見えてくる。
 きっと、彼女は自分が責められている気になっているのだろう。梅花にはそんなつもりはないというのに。
 ありかは梅花を、まだ一歳にも満たない娘を一人置いて乱雲の後を追った。神技隊に選ばれたのは彼女のせいではないが、了承したのは彼女だった。それに非を感じてもおかしくはないだろう。
 でもきっとお父様は驚いたでしょうね。
 梅花は心の中で小さくつぶやく。
 乱雲は子どもができたことを知らなかったという。ただありかを置いてきたことを悔やんでいたのに、そのありかが子どもを置いて追いかけてきたのだからきっと慌てたはずだ。
 本当は誰も悪くない。上の命令に抗えなかった二人に罪はなく、また子どもができたことを知らなかった上にも罪はない。しかも状況が状況だった。誰もが切羽詰まっていた。ただ梅花の運が悪かっただけなのだ。
「あの――」
 さらにありかは何か言おうとしたが、その前に気配に気づいて梅花は扉の方を見た。つられてありかも振り返ると、扉がおもむろに開く。
「お母さん! あのね、今日はちょっと早く帰れて――」
 ドアノブを手にしていたのは、十二、三才ぐらいの少女だった。黒い髪を二つに結んび、黒曜石のような瞳を輝かせている。
「え?」
 しかし少女はいるはずのない存在に気がつき、足を止めた。梅花と少女、二人の視線がぶつかり合う。ひきつった少女の口元は、続けるべき言葉を失っていた。手にしていた鞄がゆっくりと床に落ちる。
 似ているなと、梅花は思った。母親に、自分に。ただ快活そうな表情と血行の良い顔はありかにはないものだった。それは乱雲の特徴だ。青葉を見ている梅花だからこそそう断言できる。
「あすず、お帰り」
 何を言おうか迷ったらしいが、とりあえず月並みの言葉をありかは口にした。あすずの瞳は戸惑いに揺れている。
 この場にいない方がいい。
 梅花は咄嗟に判断して立ち上がった。軽くソファが音を立て、気づいたありかがはっとした様子で彼女を見上げる。
「もう、帰るの?」
 ありかは瞳を細めた。残念だと、そう明らかにわかる表情でそれでも微笑している。
「はい、そろそろ戻らないと。仲間が待っていますから」
 理由を仲間に押しつけて、無理矢理梅花は微笑みを浮かべた。こんな時笑うべきだと本能が告げていた。それでも昔は笑えなかっただろう。無世界に来て会得した営業スマイルのおかげだ。
「乱雲は、あなたのことを一目見たがっていたわよ」
 立ち止まるあすずの横を擦り抜けると、背後からありかのそんな声がかかった。それでも梅花は振り向かずに玄関へと向かう。軽く頭を下げるだけで、何も言わなかった。
 これでいいんだ。
 彼女は自分にそう言い聞かせた。彼女たちの幸せを壊すつもりはない。だから長居をしてはいけないのだと。
「あの人は、誰?」
 扉の閉まる瞬間、かすかに聞こえたあすずの声が耳に残った。

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