white minds

第五章 心-4

 ふうと大きく息を吐きながら、梅花は空を見上げた。相変わらず天気は悪い。空は分厚い灰色の雲に覆われていて、今にも雨が降り出しそうだ。
 妹か……。
 彼女は心の中でつぶやいた。その可能性を全く考えていなかったわけではないが、いざ現実のものとなるとやはり戸惑いはは隠しきれない。だが安堵もあった。少なくとも『置き去りにした娘』を気にかけるあまり、新たな家族さえ作れない状況ではなかったのだ。
 よかった、元気そうで。
 とりあえず長年の目的は果たされた。今どうしているのか、幸せに暮らしているのか、ちゃんとやっていけているのか、それを知るだけで十分だった。
 だがそれだけで十分だったはずなのに、なのに気持ちは晴れない。
 私って、実は未練がましいのかもね。
 自嘲気味な笑みを浮かべながら彼女は公園のベンチに座り込んだ。先ほど子どもを助けた公園だ。今は皆昼ご飯でも食べに戻ってるるのだろう、人の姿は見えなかった。こんな小さな公園で昼食を取る物好きもいないだろうし、この天気ではそんな気も起きないだろう。
 梅花は重たい雲をぼんやりと見上げた。思い出すのは昔のことで、それもみな同じようなことの繰り返しだった。ぎすぎすした空気の中で人の合間を縫って走る。陰口をたたかれながら黙々と仕事をする。上の怪しい態度に疑念を持つ。そんな単調でそれでいて息苦しい毎日がずっと、ずっと繰り返されてきた。
 よく考えてみると神技隊として無世界にやってくるまでの十六年間よりも、ここ一年ちょっとの方が色々なことがあったような気がする。宮殿の外は人はやはりずいぶん違うのだなと実感することも多かった。あそこが特殊なのだと、思い知らされることばかりだった。
 そんなことはわかっていたのに。気づいていたのに。どうしようもない矛盾を一番よく知っているのは彼女自身だったのに。あの世界がどのようにして動いているのか、何を犠牲にして成り立っているのか、嫌になるくらい理解しているのは彼女だ。宮殿の外にいる者たちではなく、内にいる者たち。
 やめよう。
 梅花はゆるゆると首を横に振った。無駄な考え事はよくない。気分の高揚は精神量――技を使うためのエネルギー源――の増加に繋がる。だが反対に落ち込むことは精神量を減少させるまずい事態だった。何があるのかわからないのだから、精神は温存しておかなければならない。
 梅花は俯いた。さらりと前髪が頬にかかり、その感触が微妙に湿っぽいことに気がつく。
 ポツリ、ポツリと耳元で音がした。目を右へと移せばベンチに当たった雫が跳ね返っていた。大粒の雨だ。まだ地面はまだらに黒く染まっているだけだが、それもすぐに塗りつぶされるだろう。
「雨か」
 梅花はつぶやいた。彼女は傘は持っていなかったし、その代わりになるような物も身につけていなかった。どうしようかと思うがどうする気もなくて、彼女はただそこに座り続けていた。
 次第に雨足は強くなり、服が重たくなってくる。手足に張り付く安っぽい布に顔をしかめつつも、彼女は動こうとはしなかった。濡れるのはかまわない、どうせ服などいつでも乾かせるのだ。ただ徐々に体温が奪われていくことだけは防ぎようがなかった。
 青葉たち、テーブルとかちゃんと片づけてるかしら?
 こんな時でも気にかかるのはそのことぐらいだった。この雨で今日の売り上げの見込みはほぼゼロとなった。午前中だってほとんど客足はなかったのだ。困ったな、と彼女はぼんやり思う。
「え?」
 だが唐突に現れた何者かの気配に、彼女は顔を上げた。いつの間にか気がすぐ後ろにあった。慌てて振り向こうとした瞬間、澄んだ声が鼓膜を震わせる。
「こんな所にいたら風邪ひくぞ、オリジナル」
 それは聞き覚えのある声で、いや、空気や骨を通して聞き続けている自分の声と同じで、梅花は目を丸くした。ベンチの後ろに微笑んで立っていたのはレーナだった。何故こんなところに彼女がいるのかと混乱するが、口を開くより早くレーナの手が動く。
「ほら、濡れてるだろ。これでも被ってろ」
 ばさりとと何か布のような物を頭に被せられて、梅花は瞳を瞬かせた。驚きに声を失えば、身軽な動きでレーナはベンチを飛び越えてくる。彼女は音も立てずに隣に並んで座った。
「これって……」
 よく見ると、それは彼女がいつも着ていたよくわからない上着だった。隣を見ればレーナはいつもの格好ではなく、この世界ではよく見られる普通の服を着ている。いつもと同じなのは黒い髪を彩る金色の髪飾りだけだ。あとは頭の上で一本に結わえてあることか。
「まったく。健康管理ぐらいはしっかりしろよ。病気は何よりの大敵なのだから」
 ベンチに腰掛けたレーナは掲げた人差し指を軽快に振った。悪戯っぽい笑顔を見ていると本当に自分と同じ顔なのかと首を傾げたくなる。
「どうして、ここに?」
 小さく梅花はそう尋ねた。か細い声で、けれどもはっきりと。レーナはうーんとひとしきりうなると頬に手を当てた。困っていると言うよりは言葉を選んでいるようで、その黒い瞳は灰色の雲を見上げている。
「それはだな、オリジナルに会うためだ。ちょっと様子が気になって、と言うかわれがただ会いたくなっただけだな」
 視線を上げたままでレーナははっきりそう言いきった。かなり恥ずかしいことを言っていると思うのだが、当人は意に介した様子もない。
「会いたくなった? 私に?」
 梅花は彼女を凝視した。他人にそんなことを言われるなど思ってもみなかったし、それがレーナとはさらに予想外だった。何が狙いかわからない謎の人物。同じ顔の、けれども浮かべる表情の全く違う者。何故彼女が自分に会いたがるのか梅花には理解できない。
 しかしレーナは当たり前のように微笑んで、ベンチに置かれた梅花の手に自分のものをそっと重ねた。温かさが冷たい雨の中でじんわりと染み込んでくる。
「ああ。この星に来た理由の一つも、お前に会いたかったからだ。ずっと、会いたいと思ってた」
 澄んだレーナの瞳が、真っ直ぐ梅花へと向けられた。梅花はただ見返すことしかできず、それでも信じがたくて動揺に瞳を揺らす。
「われがここにいるのはお前のおかげだ。オリジナルがいなければ、われはいなかったのだから」
 優しく、けれども少し寂しそうな顔をして、レーナは彼女の手を離した。温かみが消えた手に目を落とし、梅花は胸中で自問する。
 どういうことだろう? レーナと自分に関わりがあるのだろうか? 何故彼女はこんなことを言うのだろうか?
 しかしそれ以上レーナが口を開くことはなく、ただ微笑んだまま梅花を見つめていた。その視線を感じながら梅花は俯いていた。
 雨は降り続き、レーナの髪も次第に重たくなっていく。けれども梅花の方は彼女の上着のおかげでそれ以上濡れることはなかった。その上着が湿って重たくなることもない。普通の布地ではないようだ。
「さて、そろそろ行くか」
 しばしの沈黙の後、おもむろにレーナは立ち上がった。濡れた服が動きにくそうだがそんな様子もなく、彼女は大きくのびをする。重たげな黒い髪が背中で揺れた。
「ではな、オリジナル。あまり悩みすぎると体によくないぞ。まあ、そう言われて気楽に生きていけるなら、そんなに苦労もしてないだろうが」
 そしてさも事情を知っているような口振りで、梅花の方を振り帰った。顔に浮かんでいるのはやはり微笑みで、温かくて穏やかでそれなのに咲き誇る花のように華やかでもあった。
 彼女は軽く手を振ると、またベンチを飛び越えて駆けだしていく。
「レーナ」
 慌てて振り返っても、彼女の姿はどこにもなかった。どの方向へ行ったのかすらわからない。彼女の気は既に感じられなくて、近くにはいないようだった。
「この上着」
 どうしようか、とつぶやいて梅花はその裾をつまんだ。貸してくれるということだろうか? 頭にかぶったままで歩くのは憚れるので、仕方なくそれを肩にかける。
「そろそろ帰らなきゃ」
 お昼の時間ということは、ようが騒ぎ出す時間だ。そのことを思い出して梅花は立ち上がった。お腹が空いたとわめかれてはアサキたちが困るだろう。早く戻らなくては。
 水たまりを器用に避けながら、それでも足早に彼女は歩き出した。

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