white minds

第五章 心-8

 部屋に一人でこもってもあすずはずっと落ち着かなかった。ベッドに座り込んでうなり、立ち上がってはうろうろし。とにかくじっとしていることができなかった。
 知らなかった。
 胸を渦巻くのは得体の知れない感情で、彼女はそれを押し込めるよう唇を噛みしめた。かすかににじんだのは鉄の味で、それがさらに心を落ち着かなくさせる。
「お母さんもお父さんも、何でこんな重要なこと隠してたんだろう」
 思わず唇からもれたのは責めるような言葉だった。心の奥底ではその理由も推測はできている。幼い子どもに教えるには複雑すぎて、話すことができなかったのだろう。いや、今だって彼女はよく理解しているとは言えない。
 だって無理だよ、いきなり異世界が存在してるとか言われても。
 ベッドの端に腰を下ろして彼女は自分の髪をもてあそんだ。二つに結わえた黒い髪を指先で弾けば、それは生き物のごとく軽く跳ねる。
 母――ありかの話は常識を遙かに越えていた。最初は信じられなかった。いや、今だって半信半疑だ。それでも頭の片隅にある冷静な部分は、その説明が事実にひどく合致していることを訴えている。両親がほとんど年を取ってないように見える理由も、幼い頃の話を聞かない理由も、親戚や古くからの知り合いがいない理由も、全て説明がついた。
「あーあ」
 そのままベッドに体を横たえて、彼女はため息をついた。頭は理解しているのに心がついていかない。両親が異世界の住人だったと聞いても、全く実感がわかなかった。一体どんな世界なのだろう。近未来的な世界なのだろうか、それとも田舎のようなのどかな世界なのだろうか。様々な風景を思い描きながらも、彼女の心はある部分に捕らえられていた。昨日突然やってきた、姉の存在だ。
 自分に姉がいた。
 そのこと自体は喜ぶべきことかもしれない。前から姉や兄が欲しかったのだ。頼りになる兄弟のいる友だちを見るたびに羨ましかったことを思い出す。そう口にしていたこともあった。
 だが、昨日のは予想外だった。いや、想像していたのと何かが違っていた。
「お姉ちゃん」
 声に出してみても違和感だけしか残らない。浮かんでくるのは無表情な姉の顔で、それは胸の奥に何かナイフのような物を刺しているみたいだった。
 大好きで自慢だった両親の間に生まれた、もう一人の存在。彼女はありかによく似ていた。生き写しではないかと思うくらいによく似ていた。あすずも似ているとは言われていたが、あそこまでではない。性格はどちらかと言えば父親似で人懐っこいタイプだった。
「でもお姉ちゃんは」
 違う。たった三つか四つほどしか違わないはずの姉は、しかしまるで別の生き物のようだった。思い出すのは感情の見えない醒めた瞳。あすずよりもっと大人で、大人の世界を知っている瞳だ。
 そして、まるで才能を一人で受け継いだかのような存在。
 あすずはまた強く唇を噛んだ。電話越しに確認するありかの声が脳裏によみがえる。昨日、姉のことを少しでも知ろうとありかはつてを使って情報をかき集めた。わかったことは少なかったが、驚愕するには十分な内容だった。
「頭が良くて」
 四歳に満たないうちに古文書の文書整理をやってのけたとか、特殊な薬を作ったとか。とにかく出てくるのは噂にしろすごい話ばかりだった。
「それで強くて」
 こちらの世界に派遣されるということは、それなりに強いらしい。他にも信じられないエピソードというのがちらほらと出ていた。もっともあすずには意味がさっぱりわからなかったが。ありかは精神がどうのこうのと口にしていたがそれもよく理解できない。だが、とんでもなくすごい実力の持ち主であることだけは肌で感じられた。
「そして、綺麗」
 顔は、一瞬しか見られなかった。それでも目に焼き付くぐらい綺麗だった。ありかそっくりで、でもそれ以上に何か神秘的なものを纏っている。色白で艶やかな髪で、全てを見通すような澄んだ瞳に視線が奪われた。今まで見た誰よりも印象的な容姿だった。
「私よりもずっと綺麗で頭が良くて」
 何てずるいんだろう。それなのに、それだけのものを持っているのに幸せそうではないのだ。両親とずっと離れていたのだからそれも仕方ないとは思うのだが、それでも会っておいてあの顔はないんじゃないかと思う。
「お父さんはお姉ちゃんに会いたがってる」
 つぶやくと涙がにじんできた。もうすぐ学校へ行く時間なのに、体が重たくて起きあがることができない。
 突然やってきて全てをさらっていこうとでも言うのだろうか? あれほどに完璧な姉が、それ以上何を望むのだろうか?
「私にはここしかないのに」
 特別美人でもない、とびきり頭がいいわけでもない自分にはここが必要なのに。それなのに彼女は両親まで奪っていってしまうのだろうか?
 そんなことを考えれば頭の奥がさらに重くなった。ちゃんと呼吸をしているはずなのに息苦しい。あすずは硬く瞼を閉じて、溢れ出す涙を手で拭った。
 もうあの姉はこの家には来ないのだろうか?
 ぼんやりと時計を見上げながら、彼女は暗い気持ちを押し込めようとした。時を刻む音だけが、部屋の中を満たしていた。



「じゃあ買い出しをお願いしまぁーす!」
 無駄な程に元気なアサキに見送られて、青葉と梅花は渋々と歩き出した。朝の通勤通学時間が終わるという頃、シークレットの陣取った大きな公園でのことだ。
 いつもなら買い出しはようの仕事だった。それが何故今日に限って自分たちの役目となったのか、青葉には理解できない。
 いや、理解はできる。
 誰にも気づかれないよう彼はため息をついた。二人の間に何かあったと勘違いしたアサキが妙な気を遣ったのだ。実際は二人の間に、ではなく梅花に、なのだが。
 これが吉と出るか凶と出るか。
 彼はちらりと隣の梅花を盗み見た。彼女はいつもの無表情で――彼にしてみるとどこか思い悩んだ風で――黙々と歩いている。曇り空の下緩やかに吹く風がその長い髪を揺らしていた。こうして見るとやはり綺麗だと思う。白い肌は透けるようで、結ばれた口元でさえ触れたくなるくらい柔らかそうだ。
 しかしサイゾウはそんな彼女を人形のようだと言う。確かに実際感情を読みとることは難しかったが、その瞳に宿る光だけがかすかに違った。今はどことなく憂鬱そうに見える。
 この区別が付かないんだよな、サイゾウたちは。
 これ以上見つめていると怪訝な顔で視線を返されるので、青葉は公園の出口を眺めた。彼だって最初からその違いがわかったわけではない。わからないと嘆いて一人で腹を立てていた頃もあった。けれども普段からずっと見つめているうちに、その区別ができるようになったのだ。ほんの些細な変化にも気づけるようになった。
 二人は通りへと出た。それでも会話もなく静寂が辺りを覆っていた。雨上がりの道はまだ濡れていて、かすかに光を反射している。
 やっぱ気にしてるんだろうな。
 もう一度彼女の方を一瞥して彼は細く息を吐き出した。ずっと会っていなかった両親に会って、気にならないわけがない。ただ前に彼女が口にした言葉を思えば、憎んでいるわけではないようだった。だが、いやだからこそ苦しいのだろう。ただ恨むことは簡単だ。不幸な境遇を彼らのせいにできたら、彼女はどれだけ楽になれるだろうか。
 けれども、彼女はそう思ってはいなかった。それは彼らが取った選択肢の一つだったのだと、全ての事情を考慮して選び取った結果だと。そう彼女は以前に言っていた。だから恨みもしなければ非難もしないのだと。ただ、自分たちが選んだ道なのだから、後悔だけはしてほしくないのだと。
 どこまで優しいのだろう。
 考えるだけで胸が痛んで、青葉は唇を強く結んだ。一体いつからそんな風に考えていたのかと、問いかけたくなる。彼女は強くて優しい。残酷な程に優しい。その優しさを少しでも自分自身に向けたらいいのにと、何度思っただろうか。
 あれ?
 そんなことを考えていると、ふと隣に梅花の気配がないことに彼は気づいた。振り返ればいつの間に立ち止まっていたのだろう、彼女は数メートル程後ろで立ちつくしている。
「どうした? 梅花」
 尋ねながらも彼女の視線の先を追うように、青葉はもう一度前を向いた。そして気づいた。そこにはそれまでいなかったはずの十二、三才ぐらいの少女が、肩で息をしながら立っている。
 知り合いか?
 そう思うが無世界に知り合いなどいるはずがない。前の神技隊かそれとも違法者か、どちらにしろこんな少女というのは考えられなかった。
 いや、違う。
 けれどもたたずむ少女をじっと見つめて、彼ははっとした。制服に身を包んだ華奢な少女は、よく見れば梅花に似ていた。二つに結わえられた髪も表情も年相応だが顔立ちがそっくりなのだ。そんな二人の間に挟まれて、青葉はどうしたらよいかと考える。
「お姉ちゃん」
 だが彼が何かするより早く、少女の口が動いた。呼び方こそ親しげなものだったが、その口調と表情には張りつめた険しさがある。憎しみに近い負の感情を感じさせる険しさだ。
「……確か、あすずだったわね」
 しかし少女とは逆に、落ち着いた声音で梅花はそう返した。少女――あすずの言葉で二人の関係は何となくわかる。が、その間にある空気は普通姉妹の間に横たわるべきものではなかった。うなずくあすずを青葉は見つめる。仕草はともかく、鋭さを帯びた瞳がじっと梅花を見据えていた。
「何か用なの?」
 話が進まないとでも思ったのか、促すような言葉を梅花は発した。その響きが冷たく聞こえるのは単に感情が込められていないからだろう。しかしあすずが小さく震えたのが彼にもわかった。怯えているのだ。
「……それは、こっちの台詞よ」
 それでもあすずは言い返してきた。恐怖を振り払うように声を張り上げて、きつく梅花をにらみつけている。
「何で、昨日家に来たの? 何のために来たのっ!?」
 それはまるで泣いているような声だった。涙が溢れているわけでもないのに、泣きそうだと感じさせる声。慌てて青葉は梅花の方を振り返った。彼女もそれを感じ取っているのか、困ったように眉根を寄せている。傷つけたいわけではないのだと囁くようなそんな仕草で、彼女は指先を口元へともっていった。
「何でかって言われたら……そうね、ただ一度だけ見ておきたかったからよ。一度会っておきたかったから」
 それでも梅花はいつもの調子で答えた。さらりと何でもないことのように告げる言葉が、あすずにどう聞こえるのか青葉にはわからない。しかし彼女が動揺したことは確かだった。あすずを一瞥すれば、震える拳を押さえつけるようにもう一方の手で包み込んでいる。
「でも心配しないで」
 だが言葉にはさらに続きがあった。まるで言い聞かせるような響きの中に不思議な優しさを感じ取り、青葉は困惑しながら梅花をじっと見つめる。
「これ以上何もする気はないわ。もう私は彼らの娘ではないの。だからこれ以上あなた方に関わる気もないし、あなたたちの関係を壊したくもない。もう、会いには行かないわ。そうお母様たちにも伝えておいて」
 微笑んでいないのに微笑んでいるように見える、不思議な表情だった。梅花はそう告げるとまた歩き出し、青葉の横を通り抜けていく。そしてあすずの横をも擦り抜けて行ってしまった。
 彼はどうしようか迷いつつも、結局梅花の後を慌てて追う。呆然と立ちつくすあすずを背にするのはいたたまれないし辛かった。しかし彼にはかけるべき言葉がない。彼は部外者で、あすずとは直接関わりがないのだから。
「梅花っ」
 聞こえないだろうと思いつつも、彼はその名を呼んだ。背後では小さなすすり泣きが、聞こえたような気がした。

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