white minds

第五章 心-9

 気を求めて視線をさまよわせた青葉は、目的の人物が小さな公園の中にいるのを見つけだした。ほっとした彼は安堵のため息をつき、それから意を決したように小走りに近づいていく。
「梅花」
 控えめに呼びかけたが返事はなかった。彼女は俯きながらぼんやりとベンチに腰掛けている。まだ早い時間のためか他に人影はなく、彼女の姿は一枚の絵のように周りの風景に溶け込んでいた。どうしようか迷いつつも、彼はおそるおそる隣に腰掛ける。それでも彼女は瞼を伏せたまま何も言わなかった。
 どうする?
 彼は心の中でつぶやいた。何か声をかけたいと思うし、かけなければならないと思う。けれどもうまく言葉が出てこなかった。何を言っても励ましにも慰めにもならないと、漠然とわかってはいるのだ。
「ねえ、青葉」
 だが彼の困惑は長くは続かなかった。顔を伏せたままの彼女は、かすかに聞こえる程度の声で呼びかけてくる。彼は驚きに目を瞬かせた。彼女から声をかけてくるなんて珍しい。
「何だ?」
 できるだけ平静にと努めながら彼は答えた。彼女は顔を上げることなく、ぼんやりと湿った地面を見つめている。所々草の生えた地面は、昨日の雨でかなり水を含んでいた。頼りない遊具の側には水たまりもできている。
「やっぱり、昨日、お母様に会ったのはまずかったのかしら? あの子を、傷つけちゃったみたい……」
 彼女の放った問いかけではあっても問いかけではない言葉に、青葉は唇を強く噛んだ。
 声が、言葉が、端々に滲み出る気配が痛々しかった。今すぐにでも抱きしめたいと思う程に儚かった。傷ついてるのだと確かめる必要のないくらいに頼りない横顔。風に揺れる長めの前髪が時折その頬にかかっても、彼女の沈んだ様子は手に取るようにわかった。
 おそらく、いつも通りの顔なのだろう。サイゾウが見れば無表情だと判断する顔なのだろう。しかし青葉には彼女の痛みが伝わってくるようだった。気だけではなく彼女の存在その物が、その希薄さを訴えている。
「本当は傷つけたくなかったし、動揺させたくもなかったんだけど……そううまくはいかなかったみたいね」
 彼女の指先が動いた。そっと持ち上げられたそれは頬へと伸び、風に揺れる髪を耳へとかける。その様をただ彼は見つめていた。華奢な手を握りたい衝動を堪えながら、それでも目が離せなくて凝視する。
 彼女が自分から話をするのはおそらくこれで二回目だ。
 彼はそんなことを思い返す。一度目はあの宮殿の中。珍しくも呼び出された彼がそこへ赴いた時、仕事を言いつけられていた彼女と偶然会ったのだ。
『相変わらずよね、上の人たちも。まあ私をかばう人なんていないとはいえ、従兄弟に聞くのはちょっと軽率だとは思うけど。あ、忘れてるのかもね、そんなこと』
 何気なく口にした彼女の言葉で、いとこ同士だということがわかった。彼女が宮殿でどのように扱われているのかも理解した。あれ以来彼女のことが気になるようになったのは事実だろう。
「傷つけるつもりなんてなかったのに」
 また彼女がぽつりとつぶやいた。彼は思考を現実へと戻して彼女の横顔を見つめる。細い手はいつの間にかベンチへと戻り、瞳はぼんやりと地面を眺めていた。
「どうしてるのか確かめるだけで良かったのに。なのに会おうだなんて、おかしいわよね、私」
 すると自嘲気味に囁くよう言って、彼女はほんの少し顔を上げた。かすかに口元に浮かんだ笑みは、やはり痛々しく目に映る。
 何か言わなければ。そんな顔するなと、しなくていいと言わなければ。言って抱きしめなければ。
 彼は口を開こうとしたが、しかし喉から声がもれるより早く彼女は立ち上がった。伸ばしかけた手が所在なくベンチへと落ちる。
「ごめんなさい、別に、こんなこと話したいわけじゃなかったんだけど。そろそろ行かないと遅れちゃうわね。アサキが心配するわ」
 彼女はほんの少し微笑んで彼の方を振り返った。緩やかに揺れた黒い髪が艶やかに輝く。仕方なく彼もうなずいて立ち上がった。確かにアサキたちだけでは店が心配だ。昨日の分も取り返さなければならないというのに。
 歩き出す彼女の後を彼は追った。その儚い背中を見つめながら、思わずため息がこぼれた。



 路地裏に一人の男性がたたずんでいた。短い黒い髪に黒い瞳、整った顔立ちの彼は気怠げに塀にもたれかかっている。年は二十代半ばだろうか。彼の他に通る人はなく、湿ったような静けさが辺りを包んでいた。そんな中彼は自嘲気味な笑みを浮かべて、空を仰いでは大きくため息をつく。
「これはつけかな、兄さん」
 彼――乱雲らんうんはつぶやいた。彼の心にあるのは梅花とあすずのことだった。それぞれに傷ついてしまった娘たちのこと。彼らのせいで『平凡』から遠ざかってしまった娘たちのこと。
 朝からあすずの様子がおかしかったことに彼は気づいていた。それでも何も聞き出すことができず、だから意を決して後をつけてみた。そして聞いてしまったのだ、娘たちのやりとりを。彼は黙ったまま一部始終を見守っていた。
「やっぱりオレって愚か者かな」
 立ち去る娘たちの足音を背にその場を離れても、やはり仕事に戻る気にはなれなかった。結局彼は路地裏にたたずむことしかできなかった。口からもれるつぶやきは全て兄に向けてのものだ。今も神魔世界に残っているだろう兄――積雲せきうんに向けての言葉。
 彼は強く唇を噛んだ。後悔が胸を満たして息苦しくなる。それでも逃げてはいけないのだと自らに言い聞かせた。言い聞かせて堪えようとした。もう二度と逃げてはいけないのだと。
 あの時側にいたのは、おそらく青葉だ。
 自分とよく似た青年の声が確かに聞こえた。ちらりと見えた横顔も確かによく自分と似ていた。
 青葉は積雲の息子。幼い頃よく面倒を見た甥。その当時から積雲よりも乱雲に似ていると近所の人に度々言われていた。言われるたびに積雲が気難しそうに眉根を寄せていたのを、乱雲はよく覚えている。
 だから兄さんはオレを疑ったんだっけ。
 思い出せば苦笑がもれる。そんなわけがないのに。単に積雲と乱雲がよく似ていた、ただそれだけの理由だったのに。それなのに積雲は乱雲のことをどこかで恐れていた。妻を――紅を取られるのではないかと。
 よく似た兄弟として育った二人は、しかし成長するにつれ似ていない兄弟となった。二人の顔つきが変わっていった。痛みを抱えながらも笑い続ける弟と、心を閉ざして冷たい表情しか見せない兄になった。
 だからよく笑う赤ん坊だった青葉が乱雲と似ていると言われたのも、別に不思議ではないのだ。誰も積雲を裏切ってなどいない。誰も嘘は言ってない。
「確かに、オレは紅さんが好きだったけど」
 過去に思いを馳せながら乱雲はつぶやいた。だが彼は知っていた、彼女が積雲を愛していることを。彼女が兄を大切に思っていたことを。知っていたから諦め、二人の幸せを見守ろうと思ったのだ。
「でも逃げた」
 しかし彼は逃げた。自分が兄を恨むようになるのではと恐れて、逃げた。逃げ出して一人宮殿へと向かった。きっとそのせいでさらに積雲は怒りをつのらせただろう。理由もなく裏切られたと思っただろう。
 彼は宮殿でありかと出会った。彼女のおかげで何かが変わるのではと期待した。確かに宮殿へ赴いてからの数年は楽しかったし、過去を忘れることができた。
 だが、彼はそこでも罪を犯したのだ。
 彼の決断がありかを、梅花を、あすずを苦しめる結果となった。彼が初代神技隊として選ばれたばかりに、子どもがいると知らずに了承したがために傷が増えた。
「馬鹿だよな」
 彼は独りごちる。そして知らぬ間に握っていた拳へと視線を落とした。爪の先が白くなっている。思わず苦笑がもれ、彼はその手をひらひらと掲げた。
 会いに行こう、梅花に。
 もう逃げてはいけないと言い聞かせて、彼はゆっくりと顔を上げた。



「いらっしゃいませー!」
 気の抜けたようなサイゾウの声を耳にしながら、青葉はグラスを拭いていた。
 今日の彼は裏方だ。梅花のことが気にかかって集中できないので、接客はサイゾウとアサキに任せている。半ば強制的だったがアサキは快く了承してくれた。今アサキはようと一緒に仲良くテーブルを拭いている。もっともサイゾウはどことなく不満顔だったが。
「あの、こちらに梅花はいませんか?」
 だが続けて客が放った言葉が、彼の思考を遮った。おかしな注文だ。いや、注文ですらない。怪訝に思った彼は車の中からそっと外の方をうかがう。サイゾウの背中越しに見えたのは、笑顔でたたずむ男性の姿だった。
「は?」
 しかしその顔に見覚えがあり彼は瞬きを繰り返した。いや、見覚えがあるのではない、自分とよく似ているのだ。彼自身よりは二、三年上くらいの穏やかな笑顔の男性。その男が梅花を名指ししている。
 まさか。
 青葉の中で糸が一つに繋がった。
 梅花の父親だ。
 間違いない。神技隊としてこの無世界にやってきているのならば、年を取っていないのもうなずける。そう彼が結論づけるのと同時に、奥から梅花が顔を出した。自分の名前が出てきたのが聞こえたようだ。訝しげに首を傾げている。
「あ、梅花。お前呼ばれてるけど」
 すると彼女が来たことに気づいたサイゾウが、ほっとしたように振り返った。彼女はサイゾウの斜め後ろに立つと、微笑みながら立つ男――乱雲を見据える。彼女が何を言うのか、乱雲が何を言うのか、はらはらしながら青葉は見守った。
「何か私に用事でしょうか?」
 だが予想に反していつも通りの冷静な声で、彼女は短く問いかけた。そんな彼女をサイゾウは怪訝な顔で見る。知り合いにかける言葉としてはおかしいし、かといって赤の他人ではない何かを感じ取っているのだろう。
「少し、話がしたいんだけれど」
 すると問われた乱雲は、笑顔のままやや頭を傾けてそう言った。穏やかなのに人懐っこく、親しみを感じさせる表情だ。梅花は思案しているのか答えにつまり、一瞬だけ青葉の方を振り返る。そしてまた乱雲真っ向から見据えた。
「わかりました。サイゾウ、少し留守にするから店の方をよろしく」
「ありがとう」
「あ? あ、ああ」
 乱雲とサイゾウはほぼ同時に答えを返した。サイゾウは状況を飲み込めていないようで、特別車の中から出ていく彼女と乱雲とを交互に見比べている。理解できないのも仕方ない。梅花の両親がこの無世界にいることを彼は全く知らないのだ。
 追わなければ。
 青葉は咄嗟にそう思った。一瞬だけ振り返った時の彼女の瞳が、脳裏に焼き付いてしまって離れない。二人がどんな話をするのかはわからないが、確かめなければ。
 隙をうかがうとこっそり車を抜け出し、彼は彼女の後を追った。

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