white minds

第五章 心-10

「すまないな。急に呼び出したりして」
 しばらく黙りきったまま歩き、見覚えのある――先ほど梅花と話をした公園まで来たところで、乱雲は立ち止まった。彼が自嘲気味な笑顔で振り返ると、それにつられてか梅花も立ち止まる。
 そんな二人を青葉は塀の陰からこっそりうかがっていた。気は隠してあるから大丈夫なはずだが、そうだと思いたいのだが、それでも相手が梅花なので心配になる。いや、彼女なら気づいていても無視してくれるかもしれない。それより問題なのは乱雲だろう。彼が気に疎いのか敏感なのか青葉は全く知らなかった。
「いえ、別に」
 しばらく何を言うべきか考えていたのか、梅花は俯き気味にそう答えた。だが青葉の位置からではその表情はよくわからない。声はいつも通り感情を読みとらせない醒めたものだったが、その瞳を見なければどう思っているのかはわからなかった。もどかしい気持ちを押し殺しながらも、青葉はぐっとため息を堪える。
「ところで青葉君、君も出てきていいよ」
 だがそんな苛立ちは長くは続かなかった。まるで何でもないことのように気楽にかけられた言葉に、彼は閉口する。
 敏感なタイプだったのか。
 心の中で舌打ちしながら彼はおそるおそる塀の陰から出た。何となく気恥ずかしいが、このままやり過ごすこともできない。ばれているのに隠れ続けるよりはましだろうと決心し、彼は二人へと近づいていった。やはり梅花は気づいていたのか驚きもせず、一瞥をくれるだけで何も言わなかったが。
「先ほどは失礼したね、あすずが」
 しかし続く乱雲の言葉に、梅花も青葉も一瞬息を呑んだ。それは予想外の話だった。おそらくあすずは何も言わずに飛び出してきたのだろうと思っていたのだ。けれどもそれをこの乱雲は知っていた。
「でも許してやってくれ。オレたちが、何も話していなかったのが悪いんだ」
 乱雲はそう言いながら歩き出し、公園の中へと入っていった。彼の歩調にあわせて湿気を含んだ土が粘着質な音を立てる。青葉も梅花も仕方なくその後をついていった。
「あの娘は普通の子なんだ、この無世界で普通に育った。だから神魔世界にいるよりも家族のつながりが深いんだ。わかるだろう?」
 乱雲は立ち止まると、ブランコ傍にある小さな塀に手を置いた。その黒い瞳は梅花を捉えている。梅花はわかったようなわからないような相槌を打ち、言葉の続きを待っているようだった。無論口を挟めない青葉は何も言わない。だからただ話の行く末を見守っているだけだ。彼女が傷つかないか、それだけを確かめたくてここにいるのだから。
「ありかはずっとお前のことを気にしていた。オレももちろんだけど、あいつはもっとお前を思ってた。自分を責めていたんだ。だから余計に、あすずには何も話さなかった。たぶん突然の話にあすずはすごく混乱してたと思う」
 そこで一旦乱雲は深く呼吸した。こうして見ると自分とはまるで別人のようだと、青葉は強く思う。よく似ていると言われていたし、実際確かに似ているとも感じていた。だが浮かべている表情が違った。乱雲にはどこか儚い影のようなものがあるのだ。今も乱雲は言いよどむがごとく視線をさまよわせており、口元には自嘲気味な笑みがある。
「お前には非はない。それは確かなことだ。お前が会いに来たことは問題じゃないし、ましてや罪になんかならない。確かにオレたちは動揺してるけど、だけどそれはオレたち自身の問題なんだ。有耶無耶にしていたそのつけが、今まわってきたんだ」
 そしてそう告げる様はどこか辛そうだった。きっとそれは過去への思い故なのだろう。そこに何があったのか青葉は知らない。派遣される辺りの詳しい話も知らなかった。だがそれでもわかることがある。乱雲が苦しみ続けてきた、ただそれだけは明らかだった。
「あすずは今すごく悩んでる。お前の、梅花の存在をどう受け入れようか迷ってる。でもそれは時間のかかることなんだ。だからその……こういう風に言うのはずるいのかもしれないが、待ってて欲しいんだ」
 待つ。その言葉の重みを青葉は考えた。
 それはつまりそれまで梅花に耐えろというのだろうか? 梅花はただ一度会いたかったと、それだけだったと言っていた。だが待つとなればまた話は違ってくる。
 梅花と彼らの今後の繋がりが、青葉には見えてこなかった。彼らの望むものと彼女の望むものが、わからなかった。するとそれまで黙りきっていた梅花が、苦笑しながらうなずく。
「そうですね、そう簡単に受け入れられるものじゃありませんよね」
 だが彼女の横顔は不思議と晴れ渡っているように見えた。声音もいつも通り醒めているのに、どこか吹っ切れた印象がある。
「私は元々、私はあなたたちの関係を壊したくないと思っていました。幸せに暮らしていることがわかればいいと、そう思ってました。だから私と会うことでひび割れてしまったのなら……困るなって」
 彼女はそう言うと一度空を見上げた。雲間からかすかに光が顔を覗かせた空を、そこに何か希望があるかのように見上げる。ただそんな些細な仕草が綺麗だなと青葉は思った。儚さの中に見え隠れするしなやかさが、そこには感じられるのだ。
「でも私は別に、恨んでるとか憎んでるとか、そういうのは感じてないんです。だから後悔はして欲しくないんです」
 そして彼女は微笑んだ。それは青葉が見たこともない微笑だった。ふわりと緩やかに風が吹くような穏やかで自然な微笑みを、彼女は乱雲へと向けている。
「本当、なのか?」
 乱雲は信じがたいと言わんげに、呆然とそうつぶやいた。そこにはかすかに願望が込められているようだった。そうだ、彼には願うことしかできないのだ。いや、願うことすら禁じていたのかもしれない。
「はい、本当です。恨むなんて、そんな馬鹿なことは思いませんよ」
 そんな父親に向かって彼女はほんの少し苦笑した。そんな心配をしていたのかと問いかけるように、仕方のない人だとでも言うように。
「お父様たちが元気ならそれでいいんです。私は私なりに生きてますし、これからも生きていきますから。もしたとえ私があなたたちを憎んだって、何も変わりません。それどころか私が苦しくなるだけですから。だからそんな無駄なことにはエネルギー使わないんです。無駄遣いは嫌いなんですよ」
 そう付け加えると彼女はもう一度軽く微笑んだ。珍しいこともあるものだと思う一方で、どこかで見た覚えがあると青葉は首を傾げる。
 そうだ、レーナだ。
 だが彼はすぐに心当たりを探り出した。彼女はよくそんな笑顔を梅花に向けている。優しくて穏やかで愛しさが込められた瞳で、よく梅花を見つめていた。
「だからこれで全て終わりにしましょう。いえ、始まりかもしれませんね。過去に目を向けるのはやめて、過去を悔いるのはもう終わりにして。だから私のこと受け入れるにしても忘れ去るにしても、それはお父様たちの自由です。私は今まで通り生きていきますから、自分からは関わりませんから」
 梅花はなおも続けた。冷たいような、しかしどことなく温かさを含んだ言葉に、青葉は言い様のない感情に囚われる。
 彼女は優しすぎるのだ。優しすぎて泣ける程に自分のことを考えていないのだ。まるで自分には感情などないような言葉が、いっそう青葉の胸を締め付ける。
「まあ、自立するのが少し早かったと思っててください。もちろん、お母様たちにもそう伝えて」
 すると梅花は小さく伸びをしてまた空を見上げた。その黒く長い髪が風に揺れてふわりと空を舞う。
「私仕事なので、そろそろ戻りますね。お母様たちによろしく」
 そしてそう告げると踵を返して歩き始めた。一方的な宣言に、乱雲も青葉も何も言うことができない。二人は黙って華奢な背中が小さくなっていくのを見送った。風が一陣、その間を擦り抜けていく。揺れるブランコが軽く音を立てた。
「強いな、梅花は」
 乱雲がぽつりとそうもらした。
「本当に。いつの間に、あんなに強くなったんだろう」
 青葉もうなずきながらそうもらした。
 だが強いだけではない、儚いのだ。彼は我知らず握っていた拳を解き、にじんでいた汗を服へとこすりつける。
「青葉君」
「はい……」
 突然呼びかけられて、青葉は硬い返事をした。二人の視線は梅花の消えた公園出口へと向けられたまま、互いの姿を捉えることはない。
「兄さんが、オレのこと何て言ってるかは知らないけど――決して兄さんを突き放さないでほしい」
 しかし続く言葉は青葉の予想していたものとは違った。その困惑に、否、そこに含まれるある条件に、彼は困って顔をしかめる。
 もう彼らは神魔世界へとは戻らないのだ。だから乱雲の兄であり青葉の父である積雲とは、もう顔を合わせることはない。会えないのだから突き放すも何もないのだ。けれどもそんな彼の心中など知らずにか、乱雲はまた口を開く。
「兄さんは少し臆病なんだ。いつも置いていかれるのを恐れてる。オレと兄さんの父親、君にとっての祖父がそうだったんだ。オレたちと母さんを置いて逃げた。それ以来兄さんはいつも恐れてるんだ。一人にされるのを。だからきっと、オレのことも恨んでるんだろうな。色々言ってたんだろうなとは思う」
 青葉は何も応えなかった。だが乱雲の視線だけは感じていた。父の過去については何も知らなかったから驚いたのは確かだ。が、何を言えばいいのかわからない。だからあえてその顔を見なかった。顔を見れば答えなければならない気がして、どうしても見られない。
「オレは兄さんを裏切りたくなかったんだ。今でも、兄さんは大好きだよ。でも昔はきっと頼りすぎてたんだろうな。だから、もし、兄さんに会うことがあったら――――」
 そこで乱雲は言葉を途切れさせた。そのため青葉は思わず彼の方へと双眸を向けて、まともに目を合わせてしまった。はっと息を呑むも遅く、一度直視してしまえばその瞳から視線をはずせなくなる。乱雲の瞳は予想していたよりずっと温かく、家族という単語を連想させる優しい色をたたえていた。
「今オレは幸せです。兄さんにも幸せな日々を、って言ってくれないかな?」
 青葉は絶句した。そう告げる乱雲の顔に浮かんでいたのは穏やかな微笑だった。先ほどの梅花を思わせる、温かい微笑み。
 彼は前を向こうとしている。
 そのことを青葉は感じ取った。過去を忘れるわけではなく、だが過去に固執しない。梅花の心に答えた言葉を乱雲は口にした。
「はい」
 だから青葉はそう返事していた。もし、万が一もう一度積雲と会うことができたら、ちゃんとこの言葉を伝えよう。そして叫ぶのだ。親父が言っていた裏切り者は素晴らしい人だった、と。
「それともう一つ」
 そう青葉が強く心に固く誓っていると、思い出したように乱雲は付け足してきた。怪訝に思って首を傾げれば、どことなく悪戯っぽい瞳で見返される。
「梅花のこと、よろしく。消えないように見守っていてくれ」
 その願いに青葉は大きくうなずいた。そんなことかと、心の隅で安堵した。それならば頼まれなくても申し出たいくらいだ。あの優しすぎる少女を、彼が放っておけるはずがないのに。
 そろそろ自分も戻らなくては。
 梅花と同じように空を見上げて、青葉は小さく伸びをした。今までとは違う不思議な思いが、確かにその胸には宿っていた。



 雨の止んだ次の日。それはちょうど神技隊の定期的な集まりの日だった。
 ビート軍団が現れて不穏を感じるようになった彼らは、それぞれの現状を報告して情報を共有しようと話し合って決めたのだ。ただし全員で集まるというわけにはいかないので、最低出席人数は二人、最高は三人となっている。今回フライングからはラフトとカエリ、ストロングからは滝とレンカ、スピリットはシンとリン、シークレットは青葉、アサキ、梅花、そしてピークスからはよつき、たく、ジュリが参加していた。とは言っても集合場所がピークスの住む屋敷のすぐ側なので、遠巻きにコブシ、コスミがのぞいているのだが。
「ええっとオレたちは……あ、そうそう、ハイスト先輩に頼んでいた情報収集のことだけど、どうやら空振りに終わったらしい。めぼしいことはなかったってさ」
 報告はいつも通りフライングから始まった。塀にもたれかかったラフトが気楽な口調でそう告げると、皆はそれぞれ微妙な表情で相槌を打つ。やはりかという気分が大きかった。元神技隊から情報を集めるといっても、もうばらばらな所もあるためうまくはいかないし、何より現役より情報を持っているとは考えにくい。しかしそれでも一応あたってみたのだ。もっとも全く情報がないとわかってしまえば、それはそれで気は沈むのだが。
「ちょっとラフト、あのことは?」
 だが仕事は終了と言わんばかりにあくびをかみ殺したラフトを、隣にいたカエリが指でつついた。ラフトは一瞬怪訝そうにしたものの、すぐに『あの』が指し示す内容に思い至ったのかポンと手を叩く。
「ああーそうだったそうだった。あのな、驚かないで聞いてくれよ。実は昨日のことなんだけど、何とあのレーナがオレたちのところに来たんだ」
 彼は神妙な顔でそう言った。しかし普通ならば驚かれて然るべきところ、その報告は別の意味で注目を集めてしまった。
「フライング先輩の所にもですか!?」
 一番最初に声を上げたのはたくだった。口を何度も開閉させた彼は、大声を上げてしまったことに気がついて慌てて口を手で塞ぐ。ここは屋敷のすぐ側で、つまり人通りが全くないわけではないのだ。だが幸いにも通りかかった者はいないようだった。防音のしっかりした屋敷の中にも聞こえていなかったのだろう。たくはほっと胸をなで下ろす。
「私のところにも来たわよ」
 次に口を開いたのは梅花だった。しかも彼女は『レーナの上着』という確固たる証拠まで持っている。ほら、と掲げた上着へと皆の視線が降り注いだ。報告のために持ってきていたというところか。
「本当に来たの?」
 そんな中リンが疑わしげな顔で問いかけた。見覚えはあるが信じがたいと言ったところだろう。梅花はうなずいて、無表情のまま口を開く。
「はい。風邪ひくって言ってこれ貸してくれたんです」
「ええーっ!? そんなの嘘です! だってあいつ、オレたちの仕事散々邪魔して帰っていったんですよ!?」
 するとたくの悲痛な叫びがまた響き渡った。頭を抱えた彼はよつきに宥められるが、しかしそれでも一度再燃した怒りはなかなか静まらなかったのだろう。言葉にならないうめきを発しながら肩で息をしていた。何とも言い難い気まずい沈黙が辺りを包み始める。
「え、でもオレたちの所ではトランプしてたよな?」
 そこでラフトが素っ頓狂な声を上げ、さらに事態を混乱させた。隣にいるカエリは頭を抱え、何でそんなこと言うかなあ、とぼやいている。
 完全に混乱状態だった。
 レーナが突然神技隊のもとを訪れている。それも仕事を邪魔したりトランプしたり上着を貸したりと、どう考えても一貫性のない行動を取っている。その真意を掴むことは容易ではなかった。こちらを混乱させるのが目的ではないか、としか思えないくらいに。
「つまり、まだ来てないところにも来る可能性があるから注意しろってことよね」
 収まらない事態の中で唯一、リンの発した言葉だけが真実を突いていた。ため息が重なり合い、その間を乾いた風が通りすぎていく。

 結局この定例会議は、一つの謎を増やしただけで終わりを迎えた。

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