white minds
第六章 魔族-6
重苦しい空気が辺りを包み込んでいた。否、空気ではなく気だ。複雑に絡み合った精神の波動――それらがリシヤの森に得も言われぬ影を負わせている。
「何だ、これは?」
思わず滝はつぶやいた。彼は気を感じるのが得意ではない方だが、それでもこの異様な状況は察知できる。森は周囲の暗さと相まって、さらにおどろおどろしい空気をかもし出していた。異様としか表現しようがない。
彼はちらりと空を見上げた。まだ日が顔を出すまでは時間があるようだった。深い森の中には明かり一つなく、蒼い月明かりのみが頼りだ。空は漆黒からやや青く色づいているが、太陽が顔を出す気配とまではいかない。そんな状況で感じるこの気は、背筋を冷たくするには十分な効果を持っていた。
「これは……気? でも妙ね。幾つもの気が渦を巻いてるみたい。この数は――二桁じゃ収まりきらないかしら」
そこで立ち止まったレンカが辺りを見回した。彼は彼女を一瞥すると片眉だけ歪め、不安を声に出さないようにと長く息を吐き出す。
彼とは違い、レンカは気を感じ取るのが得意な方だった。しかもここは実は彼女の生まれ育った場所とそう遠くない。この森に慣れ親しんだ彼女が感じたことなら間違いないだろう。それだけの気がこの一帯には充満しているのだ。無論、気の持ち主である存在は確認できないが。
「上は動かないのか?」
不安を押し込めようと、彼は辺りへ視線を巡らしながらそうつぶやいた。上から連絡が入ってきたのだから彼らの方が遅いというのは納得いかない。だが神技隊の他に人影はなかった。ここらに充満した気に紛れていたのだとしても、それでもレンカあたりなら気づくだろう。その違いが判別できるはずだ。彼は彼女へと目線を移す。
「少なくともこの近くにはいないわ」
けれども彼女は首を横に振り、困ったように微笑するだけだった。何故上は動かないのだろうか? 浮かんだ疑問はさらに不安を刺激し、彼は固くなった唾を無理矢理飲み込んだ。
様子見をしているのか。それとも何か考えがあるのか。神技隊を捨てごまにでもしようとしているのか。
考えれば考える程妙な方向へと思考は進んでいった。疑心暗鬼になっているなと、彼は自嘲気味な笑みを浮かべる。いつの間にこんな疑り深くなったのだろう。
「神技隊、そんなところにいるのか」
だがその時、予想もしなかった声が彼らへと降り注いだ。慌てて上空を仰げば、鬱蒼とした木々の間に小さな影が存在している。彼は目を疑った。この薄暗い世界でも見間違えることのないその顔も、声も、ここにあるべきものではなかった。
「レーナ!?」
先に声を張り上げたのは隣にいたダンだった。それが契機となり、周囲へざわめきが広がっていく。滝はじっと木の上に立つレーナを見つめた。今にも折れんばかりの細い木の枝に、彼女は器用にも立っている。
「こんなところにいては、魔光弾とのご対面は無理だぞ?」
彼女はそう告げると楽しげに口角を上げた。その口から魔光弾という名前が飛び出したことに驚き、しかし彼女が情報提供者であることを思い出して彼は唇を噛む。
そうだ、彼女は知っているのだ。封印された者たちのことも、おそらく上についても。なのに彼女はそんな素振りをまるで見せず、嘲笑うかのように神技隊らへと接触を図ってくる。
何を考えてるんだ?
それはここしばらくずっと抱き続けていた疑問だった。彼女の目的が何なのか全く予想ができない。標的などと言って戦いを仕掛けてくるわりに、殺そうという意思はないようだった。ならば何を目的としているのか。
「それで、何でお前がこんな所に来たんだよ!?」
すると背後で誰かのわめく声が聞こえた。よく聞いてみればこの怒声はたくのものだ。どうやら前回仕事の邪魔をされたことを根に持っているのだろう。普段はおとなしいのだが今は息が荒い。
「何で? もちろん道案内するためさ」
しかし彼女は何食わぬ顔でそう言ってのけた。宣言された方は呆気にとられたようで、返る言葉がない。代わりに滝が口を開いた。
「本当に案内する気なのか?」
何かの罠という可能性はある。だが彼には確信があった。彼女はわざわざそんなことをする性格ではないと。案内するというのは本気なのだろうと。
おそらく、何故案内するのかと聞かれたから彼女ははぐらかすだろう。彼女はいつだって理由を言わない。けれども振り返ってみれば嘘を口にしたこともなかった。言えないことは言わないのだ、彼女は。第一ここで罠にかける利点が思い浮かばない。魔光弾のもとへ行かせたくないのならば、ここへ来なければいい話だ。
「もちろん」
うなずいた彼女はふわりと風に舞うように軽く跳躍した。そして次の木の枝に降り立ち、誘うように後方を一瞥する。
「遅いと置いてくぞ。時間はないのだから」
彼は慌てて走り出した。それにつられたように後ろから仲間たちが追いかけてくる。
無視するという手もあったが、彼女の動向を確かめたくもあった。それにここにいたとて魔光弾の居場所がわかるわけでもないのだ。だったら彼女を野放しにしない方がいいように思えた。
彼女は軽快に木々の間を擦り抜けていった。いや、実際は一瞬でもとどまっていたのだろう。彼女が瞬時に姿を消したとの報告は何度もあり、その気になれば瞬間的に移動できるのは確かなようだった。だがそれをしないということは、つまり本当に案内する気なのだ。
「ついたぞ」
しばらく行くと唐突に彼女は立ち止まった。やや開けた場所で、踏みつけられた跡のほとんどない草が一面に生えている。月明かりの中それらはそよ風に揺れていた。
「ここが?」
滝はつぶやきながらも立ち止まり、すぐ側の木を見上げた。すると予想通りそこにはアースとイレイの姿があった。イレイはともかくほぼ黒一色の格好をしたアースは、よく見なければ薄闇に紛れてしまう。だがその気が、鋭い視線が、滝たちへと注がれていた。だからこそ気づけたのだ。疎ましいのかと問わなくてもわかる気配が突き刺さっている。
「間に合ったみたいだな」
「そんなこと、聞かなくてもお前ならわかるだろう」
木の上を仰いだレーナが声をかければ、アースは苛立ったまま言葉を返した。彼女はほんの少し頭を傾けると、困ったように頬に手を当てて滝たちの方へ顔を向ける。
「どうやら機嫌を損ねたらしい」
「それを、オレらに言って何になるんだよ」
思わず滝はそう答えていた。標的などと言って襲ってきた者の口にする言葉とは思えなかった。まるで旧友か何かに話しかけているかのようだ。やはりおかしい。だが同じように返せば自分も同類なのだと気づいて、彼はこっそり苦笑した。人懐っこさがうつってしまったようだ。
「ここは――」
しかし突然もれたレンカのつぶやきが、滝の思考を一気に現実へと引き戻した。辺りへと視線を配るレンカは蒼い顔をして唇を噛んでいる。
「レンカ?」
「私、ここを知ってる」
「え?」
「この気配に覚えがある」
彼女はうめくように声をもらすと、顔を歪めながら耳を押さえた。しかし彼が彼女へと手を伸ばす前に、さらなる異変は生じてしまった。周囲を覆っていた異様な気が唐突に強くなり、重りでも肩に乗せられたように急激に体が重くなる。
何だ?
声を出そうにも上手く息が喉を通らなかった。体がねじ切られそうな感覚に思わず膝をつけば、今度は耳鳴りが頭を突き抜けていく。
「来る」
かろうじて視線を上げれば、真顔になったレーナが軽く跳躍するのが見えた。彼女はアースたちのいる木の下まで飛ぶと、視線を滝たちの横へと向ける。
まさか。
その目線を追うのと、奇妙な音が辺りに響き渡るのはほぼ同時だった。硝子が割れるより鈍く、陶器が割れるより薄っぺらい音が鼓膜を振るわせる。それが空間の裂ける音なのだと理解するのに、少々時間を要した。その先に木々があったはずの場所に、人の背程の黒い切れ目が入っている。その周りがはがれ落ちるように消えてゆき、裂け目は次第に大きくなっていった。
顔を覗かせたのは、様々な色が混ざり合ったような、それでいて漆黒を思わせる得体の知れない空間だった。だが滝も全く見覚えがないわけではない。あれは亜空間の一種だ。安定した空間同士の間に存在する不安定な世界。時間の存在が希薄な世界。
「来るぞ」
今まで以上に奇妙な音がした。同時にレーナの牽制する声が、重苦しい空気の中を突き抜けていった。
まず見えたのは、赤い何かだった。金属のような光沢を持ちながらも赤く輝く何か。滝はそれを凝視した。黒い空間を背後にしてそれはゆっくりと割れ目から顔を出してくる。
「え?」
だが裂け目から現れたのは、予想していたものとは全く違った存在だった。いや、人と呼んで差し支えない容姿をしていた。炎を思わせる紅の髪に紅の瞳、大柄な男がそこからゆっくりと這い出してくる。赤い何かは彼の衣服の一部だった。いや、鎧とでも表現すべきか。肩を覆ったそれはどことなく無世界の防具を彷彿とさせた。もっとも神魔世界では、技という存在のために意味をなさないと考えられてきたのだが。
「でけぇ」
ダンのつぶやきが滝の耳へと届く。確かに、男は大柄だった。身長は百九十を越えるだろう。しかしがっしりとした体格がさらに彼の身の丈を高く見せていた。
これが、魔光弾。
名前から、また『奴ら』が生み出した存在という表現から思い描いていたものとは異なる者だった。これほど人間とそっくりだとは思わなかった。違和感があるのは身に宿した色くらいだろう。真っ赤な髪というのは神魔世界にもいないし、無論無世界でも見かけない。
しかし、それでも滝たちを狼狽させるには十分な力を持っていた。どうしたらよいのかわからず立ちつくし、ただじっと魔光弾を見つめるだけしかできない程には。
「ついに、出られたのか……?」
男――魔光弾はゆっくりと周りを見回した。それから腕を持ち上げて自らの手のひらをしげしげと眺めた。声もやはり人間のものとほぼ同じで、違和感は覚えなかった。滝は固唾を呑みながらその横顔を見つめる。
「おはよう、魔光弾」
けれどもそんな異様な状況を変えたのは、レーナの放った一言だった。するとようやくその存在に気がついたように、魔光弾は彼女へと目を向ける。彼は首を傾げて眉根を寄せた。
「どうして私の名を?」
「研究所に来てたではないか、一度だが」
どうやら自分の存在が知られているのが不思議らしい。だがレーナの答えも妙なものだった。わけがわからない滝は顔をしかめる。二人は知り合いだったのか? いや、それならば魔光弾がそんな疑問を持つはずがない。ということはレーナが一方的に見かけていたのか? ますますわけがわからなくなってくる。
「研究所?」
「そう、研究所。アスファルトの」
「アス……まさかお前は」
「そう、われもその一人だ。これで疑問はあらかた解けただろう?」
二人の交わす言葉は滝にはさっぱり理解ができなかった。ただ研究所という響きだけが妙に耳にこびりついた。聞き慣れない言葉だ。少なくとも神魔世界では普通耳にはしない。
「そうか、どうりで不思議な気をしているわけだ」
しかし魔光弾は納得したようだった。神妙に相槌を打つと、思案するかのごとくあごへと手を持っていく。くくられた長めの髪が風に揺れた。それは炎が風になびく様にどこか似ていた。
「ああ、ちょっと変わってるかもな」
レーナはそう告げるとちらりと木の上を見上げた。そこにはいつの間にやらネオンとカイキも加わっており、重さにかろうじて耐えた木の枝が軽くしなっている。滝は小さく舌打ちした。魔光弾とビート軍団、両方の相手というのは骨が折れる。たとえ相手に戦闘をする意思がなかったとしても、だ。人数が増えるのはいただけない。
「ところで魔光弾、われはお前が誰の意向に従っているのかを確かめたいのだが」
「意向?」
視線を魔光弾へと戻すと、彼女は悪戯っぽくやや瞳を細めた。言っている意味がわからず滝は首を傾げるが、それは魔光弾も同様らしく怪訝な顔をしている。彼女は難しいことではないと言いたげに手をひらひらとさせた。
「そうだ。イーストたちの意向か、それともラグナたちの意向か。それによってわれはどう動くべきか判断しなければならない」
彼女は気楽な様子だったが、対して明らかに魔光弾の顔は曇った。その言葉の意味が滝には理解できないが、実は重たい内容を含んでいることは何となく察することができる。
「それはつまり、私とお前が敵対すべきか否かを問うていると考えていいのか?」
答えは魔光弾が口にしてくれた。驚いた滝は傍にいるダンと目を合わせ、瞬きを繰り返した。魔光弾は敵だ。少なくとも上の者たちはそう考えているようだった。だが同じくレーナたちも排除すべき者と考えているようだった。その両者が敵対するかどうかなど、聞き捨てならない問題だ。
「まあそんなところかな」
「私はイースト様の一派であり、それは今も変わらない。それに、戦うことにはもう疲れた」
「そうか、それなら安心だ。われはゆっくり自分の目的へと集中できるよ」
レーナは嬉しげに笑うともう一度木の上を見上げた。どうやら両者が敵対するという事態は回避されたのだと、滝にも理解できる。それを喜ぶべきなのか悲しむべきなのかはよくわからなかったが。
「われはレーナだ。じきに神々が来る、気をつけろよ」
すると彼女は躊躇いもなく背中を見せて、大きく跳躍した。同時にアースたちも動きだし、突然重みを失った枝が上下に揺れる。
「逃げ、た?」
誰かのつぶやきが鼓膜を振るわせた。そう、いつの間にかレーナの姿はなく、その気もどこかへと消えてしまっていた。リシヤの森のせいかもしれないが、何にしろ後を追うことは不可能なようだった。アースたちの気はかろうじて感じ取ることができるが、しかし目の前にいる魔光弾のことを考えれば動き出すわけにもいかない。
何が起きているのか。
それを必死に滝は考えようとした。魔光弾はあっと言う間に復活してしまった。そしてレーナは彼の意思を確認すると去っていってしまった。幾つもの謎の単語を残して。
研究所? イースト? ラグナ? 神?
どれもが頭を混乱させるのに十分な力を持っていた。事態に思考が追いついていかない。それは他の仲間も同様なのだろう、誰も動き出そうとはしなかった。
「お前たちは何者だ? 何のためにここに来た?」
だが魔光弾にはそんな彼らの様子はわからないようだった。紅色の瞳が向けられ、怪訝そうな問いかけが発せられる。彼を見つめ返しながら滝は息を呑んだ。
復活を阻止しろと言われて慌てて駆けつけてきたのだ、その手段もわからずに。では復活した今はどうすればいいのだろう? 戦うべきなのかどうか彼には判断できなかった。否、判断したくなかった。この混乱の中で戦闘するのは自殺行為に等しい。まともに戦えるわけがないのだ。
「人間か? それにしては妙な気をしているが――」
しかし次の瞬間、首を傾げた魔光弾ははっとして空を仰いだ。同時に空から強い気が突如現れ、音も立てずに草原へと着地する。薄闇でもかろうじてわかる、見たことのある後ろ姿だった。肩程の深緑の髪もゆったりした服も、何度か見かけたことがある。
「運良く奴らと争ってくれるかと期待したが、そう上手くはいかないみたいだな」
そう忌々しげに吐き捨てたのはラウジングだった。言葉からするに今までどこかで見張っていたのだろうか? まるで囮にでも使われていた気分で滝は唇を噛んだ。緊急の指令を出していたわりにひどい扱いだ。さすがは上の者といったところか。
「神か」
「半魔族よ、お前をここでのさばらすわけにはいかない。死んでもらう」
「ま、待て! 私は戦うつもりはない。もう戦闘は嫌なのだ」
「うるさいっ! そんな戯言を。魔族の言うことなど誰が信じるか」
しかしラウジングの様子はいつもと違っていた。憤りを隠さぬ様子で魔光弾をにらみつけ、右手に青い刃を生み出す。そして一気に跳躍した。
「ラウジング!?」
滝は叫んだ。だがその声は彼には届いていないようだった。魔光弾は悲嘆にくれた様子で唇を噛むと、後方へと下がりながら左手に刃を生み出す。それは白く短い刃だった。けれどもそれがラウジングへと向けられることはなかった。短い刃が何もない空間へと振るわれ、白い軌跡を残す。
「っつ!?」
同時に滝は衝撃に襲われた。魔光弾が復活した時と同じような重みが、体にのしかかってきた。一瞬躊躇したラウジングは立ち止まり、その隙をついて魔光弾は地を蹴る。今自らが切り裂いた亜空間の中へと、彼は身を滑り込ませた。そう、逃げたのだ。
「なっ……逃げるのか!?」
再び走り出したラウジングは声を荒げた。重みがかかったのは一瞬のようですぐに動けるようになり、滝も慌てて駆け出そうとする。しかし時既に遅く、魔光弾の姿はもう見えなくなってしまっていた。裂け目から見えていた亜空間も今は消え、そんな物など存在していなかったかのようにひたすら森の風景だけが広がっている。
「まさか、この距離で逃げられるとは」
ラウジングは立ち止まり、肩を落としてうなだれた。そうやって落胆する彼へとかける言葉は見つからなかった。ただ困惑が続く中で、徐々に日が昇り始める気配を感じることしかできない。滝は細く息を吐き出した。
「すまないが神技隊、とにかく今は一旦帰ってくれ」
だからラウジングがそう告げた時は心底ほっとした。彼が背を向けたままでも、とにかく今一度冷静になる機会を与えられたことに安堵の息がもれる。今はこの混乱を静めることが先だ。
魔光弾とは何者なのか。レーナたちとの関係はどうなのか。そしてラウジングは何故こうも憤ったのか。
抱えきれない謎ばかりが、降り落ちてきたような気分だった。