white minds

第七章 鍵を握る者-7

 半ば崩れ落ちた洞窟の中で、アースは立ち止まった。立ちこめていただろう砂埃は収まっており、時折岩の破片が落ちてくるだけ。彼は周囲を確認して、近くに神がいないことを確かめた。大半の神は彼らが打ちのめしたはずだが、念のためだ。それに神技隊がやってきたとなっては自由にも動けない。誰もいないことを確認して彼は安堵の息を吐き出した。
「レーナ」
 抱きかかえていた体をそっと地面に下ろすと、彼は小さく呼びかけた。するとレーナはうっすら目を開けて弱々しく微笑む。岩の隙間から差し込む光の中でも、その顔が青白いのはよくわかった。肩で呼吸する彼女の体を支えて彼は膝をつく。粉になって落ちてきた岩の破片が、乾いた音を立てた。
「アース、カイキたちは?」
 ぼんやりとした瞳で彼女が口にしたのは、仲間たちのことだった。その事実が腹立たしくも胸に痛くて彼は唇を噛む。本当なら喋らなくてもいいと声を荒げたいくらいだ。その腹部からじわじわと溢れ出す血は、確実に彼女の体力を奪っている。それなのに彼女は傷を治すそぶりさえ見せなかった。そして気にかけるのは仲間たちのこと。死ぬ気なのかと問いかけたくなるのを、彼はぐっと堪えた。
「大丈夫だ」
 そして簡潔にそう答えた。いつもなら気でカイキたちのことなどわかるはずなのに、今の彼女はそれもできないのだろうか? いや、わかっていても確かめたいのかもしれない。彼はうかがうように彼女の顔をのぞき込んだ。
「一時はどうなるかと思ったが、奴らは全員無事だ。あのよくわからん男どもも倒した。だが殺してはいない」
 黒曜石を思わせる澄んだ瞳を見つめて、彼は落ち着いた声音でそう伝えた。彼女を安心させたくて、もう一度凛とした眼差しで見つめて欲しくて、一言一言想いを込めて口にする。それを黙って聞いていた彼女は花が咲いたように微笑んだ。今まで見たことがないくらいに自然で穏やかに、けれども秋の物悲しさを感じさせる微笑だ。そこに一抹の不安を覚えて彼は華奢な体をさらに引き寄せる。
「レーナ、大丈夫か?」
 問いかけても、彼女は小さくうなずくだけだった。揺れる瞳は彼を捉えているというのに、遠くを見ているかのようにも思える。するとふと、このまま何も言わなくなるのではないかと彼は不安になった。このまま何も口にせず、死んでしまうのではないかと。そう思うと体の奥から冷たい何かが染み出してきた。そんな未来を描いて空恐ろしくなったことはあるが、現実として実感したのは初めてだ。彼女がいなかった時のことが思い出せない。彼女のいない時間が、描き出せない。
「レーナ――」
「アース、すまない」
 胸に巣くった不安に堪えきれず呼びかけると、彼女は唐突に謝った。あまりのことに彼は呆気にとられて言葉を失う。そんな彼から一度視線を逸らし、彼女は吐息をこぼした。その口元には苦い笑みが浮かんでいる。
「すまない、何も話せなくて」
 しかし続く言葉に、彼の体は強ばった。何に対する謝罪なのか理解すると同時に、いたたまれない気持ちにさせられる。何も話してくれない。それは彼がずっと不満に思っていたことだ。不満に思いながら口にせずため込んできた思いだ。それが見透かされていたことに気づいて、彼は一旦瞳を閉じた。そんなことをこんな時に言われるなど予想外だ。予想外で、卑怯すぎる。
「何も、自分のことも知らない、わからない。それがどれだけ辛いか……われが一番よくわかっていたはずなのになあ」
 瞼を伏せた彼女は自嘲気味にそうつぶやいた。するとその白い頬に、頭上からぱらぱらと砂がこぼれ落ちてくる。彼は自由な左手でその砂をそっと払い落とした。彼女の眼差しが彼へと向けられる。
「すまない、アース。われは臆病だったんだ。怖かったから、何も言えなかった」
 そう告げる彼女は弱々しくまた微笑した。自分を責めているのか、後悔しているのか、それとも呆れているのか。何にしろ負の気配を纏った微笑みは儚くて頼りない。けれどもそれなのに温かだった。
 彼女の言っていることはわからない。何が怖くて話せなかったのか、肝心なところが抜け落ちている。しかしそれでも理解できることはあった。彼女がずっと、気に病んでいたという事実だ。
「本当にすまない――」
「いい、それ以上言うな」
 だから彼女の言葉を遮って、彼はそう声を上げた。そして両腕に閉じこめた体を強く抱きしめる。彼女が何を恐れていたのかはわからないが、これ以上懺悔を聞いてはいられなかった。胸が痛くて仕方がない。
「アー、ス。われが死ぬと、お前たちも――」
「死ぬとか言うな。何も喋るな」
 かすれた声でつぶやく彼女を、彼はそう叱った。抱きしめた体は温かいのに、氷に触れたような冷たい感覚が沸き起こってくる。
 彼女に何か期待を抱いて、それが叶わなくて嘆いていた自分に嫌悪感を覚えた。彼女は自分たちのために命を削ったのではないか? あの時毒を浴びたのではなかったのか? 彼女の人生を奪ったのは自分たちなのに、全てを話してくれないと拗ねていた自分が憎らしくなる。出会わなければよかったと思う程だ。出会わなければ彼女はもっと幸せになれたのではないかと。――出会わなければこの心はずっと渇いたままだったけれど。
「アース?」
 弱々しく呼びかけてくる彼女の瞳を、彼は再度のぞき込んだ。そしてそのまま唇を重ねた。まだ残る温かさが彼女の『生』を感じさせてくれる。それをすぐには手放したくなくて、彼は何度も口づけた。彼女の細い手が拒絶するわけでもなく袖を掴んでくるのに、小さな安堵を覚える。
 どうしてもっと早くこうしなかったのだろうか。名残惜しくも唇を離して、彼は胸中でつぶやいた。もっと早くこうしていれば、この複雑な気持ちをはっきりさせることができただろう。何だかんだ言いながら彼は彼女が欲しかっただけなのだ。彼女という存在を自分だけのものにしたくて、自分の知らない彼女を消してしまいたかっただけなのだ。
 馬鹿だな。
 そう自嘲気味に独りごちると、彼女はふっと優しい笑みを浮かべた。それまでとは違い儚さを感じさせない笑みに、彼は驚いて瞬きをする。
「レーナ?」
 どうしてという問いかけを含めて、彼はその名を呼んだ。何故こんな時にそんな顔をするのか、できるのか。あまりに不思議で尋ねずにはいられなかった。しかし彼女は何も言わずに瞼を閉じる。袖を掴んでいた手から力が抜け、ゆっくり地面へと落ちていった。
 そして、その体は唐突に消えた。光の粒子となって、空気へと溶け込んでいった。
 突然腕の中から消えた重みに彼は息を呑む。まるで今まで何も存在していなかったかのような空虚さだけが、そこには残されていた。いや、全てがなくなったわけではない。血で赤々と染まった布が膝元には残されていた。彼はそれを手に取って握りしめ、胸元に掲げる。血を吸ったこの布の重みが彼女がいた証だった。
「そうか、そうだな。我々は人間ではない」
 彼はよろよろと立ち上がった。頭上からはまた砂粒が、乾いた音を立てて降り落ちてくる。
「戻……るか」
 外へ向けて、彼は一歩を踏み出した。その足取りはいつになく、ひどく重かった。



「どういうつもりだったのだ?」
 薄暗い部屋の中で、アルティードは声を張り上げた。白い壁には彼の影が色濃く映し出されている。その影から逃れるよう立っているのは背の高い男――ケイルだ。アルティードもかなり大柄な方だがそれよりもさらに高い。ケイルは鼻眼鏡の位置を正して、悪びれた様子もなく微笑んだ。
「どういうつもり? 私はただ、ビート軍団排除の命令を出したまでだ」
「そのためなら周りはどうなってもいいというのか? 人間の環境が」
「あの辺りは人が住める場所ではない。特に問題はないだろう」
 二人の視線は鋭く互いを突き刺した。しかしこうして意見を違えるのはいつものこと。だからアルティードがどんなに怒ろうとも、ケイルに動じる気配はなかった。淡々と返される答えにアルティードは歯がみする。
 それでは魔族と同じだろう。
 その一言がなかなか口にできない。それを言えば尋常ではない争いになることが目に見えていたからだ。冷静さを失ったケイルとやり合うのは相当『心』が疲れる。魔族の動向に気を配らなければならない今、余計なことに力を使うわけにはいかなかった。だからにらみつけることしかできない。
「結果的にはうまくいったのだから問題はないだろう? レーナの気はもう完全に失せた。じきに残りの四人の息の根も止めればいい。いや、本当にラウジングはよく働いてくれたよ、感謝してる。彼の怪我が少しでも早く治るよう祈っているよ」
 そんなアルティードの心境を知っているのか、ケイルは微笑しながら踵を返した。遠ざかるその背中をアルティードは見つめる。自然とこぼれたため息が、静かな部屋の中胸に響いた。
「まったくあいつときたら……。神技隊が被害を最小限に食い止めてくれたからよかったものの」
 そう言いながらアルティードは、心中で人間たちに詫びた。また頼ってしまったと、巻き込んでしまったと。神と魔族の戦いにいつも人間たちは巻き込まれてばかりだ。そう考えると口元が引きつり、胸の奥が重くなる。
「これで、騒ぎが収まってくれればいいのだがな」
 彼は薄暗い天井を見上げながら、今後を案じてつぶやいた。

◆前のページ◆  目次  ◆次のページ◆



このページにしおりを挟む