white minds

第八章 魔の影-2

 ホシワによって集められた神技隊、彼らに告げられた真実は重かった。それを飲み込むのはひどく時間のかかることだった。それは深い森の中を彷徨うよりも不確かで、水の底に沈むよりも窮屈な感情だ。掴もうとしても手からすり抜けていく、それなのに体を包み込む霧のような感情。
 何をどう口にしていいのかわからずたたずむ仲間たちの中で、誰かが静かにつぶやいた。
 元に戻るだけなのに、戻りきれない、と。
 それはまさに今の彼らを表す言葉だった。再び神魔世界を出て本来の任務に戻る、その後の生活は容易に想像できる。現状を考えればそこには何の壁もなく、苦労せずに仕事をこなすことができるだろう。しかし彼らの心は既にこの地に一度根付いてしまった。この世界の空気を吸って、そこで起きている何かを感じ取ってしまった。
 レーナが死んだ。魔光弾はどこかへ隠れてしまった。
 いなくなったはずの者たちが彼らの心をこの世界に縫い止めてしまっていた。心を残したままでは無世界へは行けない。
 魔光弾が見つかればまた神魔世界を訪れることになるのだとはわかっていても、それがいつかまでは定かではなかった。それが数日後のことなのか数ヶ月後のことなのか数年後のことなのか、それともその時が訪れるより先に彼らは寿命を迎えるのか。魔光弾は人間ではないのだから、その時間感覚が彼らと同じとは言い切れなかった。もしかしたら、謎を抱え込んだままあの男は消えてしまうかもしれない。
 だから彼らの心は重かった。この地に繋がれたあらゆる感情が彼らの足を止め、意思を鈍らせ、戸惑わせた。戻りたくない、戻れない、戻ってはいけない。そんな思いに囚われてはホシワの言葉を素直に聞くことはできなかった。
 だがそれでも、『上』の命令は絶対だ。
 彼らにそれを拒否する権利はなかった。逆らう術はなかった。故に彼らは重りのついた気持ちを引きずるようにして、リューの案内に従った。きっと無世界の空気は肺に痛いだろう。見上げた先の空はくすんでいるだろう。大切な物を神魔世界に置き去りにしなければならないのだから。
「また、頼むわね」
 別れ際、そう囁いたリューに応えられた者はいなかった。ただ梅花が小さく、はいと声を絞り出しただけだった。

 今、噛み合った歯車は軋んでいる。



 久しぶりに踏みしめた無世界の地は、思っていたよりも柔らかくて温かかった。雨上がりなのだろう。濡れた道路が車の明かりを反射して、薄暗い中で一種の灯火となっている。それはある意味幻想的な光景だった。青葉はため息をついて空を見上げる。灰色の雲は悠然と流れ、その一部が夕日に染まって茜色に輝いていた。
 だがやはりここは、無世界なのだ。沈みかけた太陽の色が神魔世界よりもくすんでいる気がする。風に揺れる前髪を掻き上げて、青葉は落ち着かない気持ちで瞳を細めた。やはり故郷に愛着を持つのは仕方がないのだろう。つい先ほどまで見慣れた土地を目にしていただけに、その差が肌に強く感じられる。
「久しぶりだな、この車も」
 だがそうでない者もいたようだった。隣をすり抜けていったサイゾウは、公園奥に結界を使って隠してあった車にゆっくりと触れた。慈しむようなその指先は車体の上を何度か往復する。最初はこの『特別車』での生活を嫌がっていたくせにと思うと、青葉は少し滑稽な気持ちになった。いつの間にか愛着がわいていたのだろう。だがそうやってしんみりと浸るサイゾウの横では、ようがやたら大きな身振りでいつもの文句を言っていた。
「それより僕、お腹空いたー!」
 ようならばどんな場所でも同じことを言うのかもしれない。彼にとっては腹が満たされているか否かが重要で、自分の足下は関係がないようだった。ひょっとしたら食べ物の違いには敏感なのかもしれないが。
「そうですねぇー。何かかってきましょーうか?」
 するとようの横に並んだアサキが、微笑みながらそう提案してきた。アサキはよく気が利くし行動が早い。だから青葉がいいのかと尋ねるより早く、じゃあ行ってきまぁーすと手を振って彼は走り出した。頼もしい仲間だ。こういう時は特にそのありがたみが身に染みる。アサキの長い髪が左右に揺れるのを見送って、青葉は握っていた拳を解いた。自然と肺から息が漏れる。
 サイゾウの行動はやや変だが、だがそれも含めて仲間たちはいつも通りだった。落ち込んでる様子はない。……いや、あえて視界に入れていない梅花だけは違った。彼女はとにかく暗かった。青葉の斜め後ろにいる彼女は、時折辺りに視線を走らせては何かを考えて眉根を寄せている。もっとも彼女が微笑まないのも素っ気ないのもいつものことだから、仲間たちにとっては普段の彼女と同じなのかもしれなかった。その微妙な差異がわかるようになったのは、青葉だって最近のことだ。
 その胸の内を聞きたい。話しかけたい。慰めたい。
 膨れあがる思いは今にも口から飛び出してきそうで。それでもかけるべき言葉が見つからないから、ずっと青葉は黙っていた。だが、それももう限界だ。これ以上は見ていられない。青葉は彼女の方を振り向くと、その視界に入るように一歩を踏み出した。彼女の瞳に彼が映る。
「なあ、梅花」
「何?」
 声をかけても返ってくるのは素っ気ない返事。黒い瞳には何の感情も浮かんでいなくて、正直青葉は困惑した。もっと落ち込んでいる気がしていたのだ。だが彼女の目からは無機質な輝きしか伝わってこなかった。それは見慣れた表情だ。しかし話しかけた手前何でもないとは言えなくて、彼は言葉を求めて軽く視線を彷徨わせる。
「で、何?」
「いや、何かずっと考え込んでたみたいだから、ちょっと気になって」
 結局ありきたりなことを口にして、彼は頭を掻いた。視界の端ではようが辺りをうろうろと歩き回っている。空腹を紛らわせるためだろう。そんなようをサイゾウが迷惑そうに見ていた。アサキは、まだ帰ってこない。
「そう、それはごめんなさいね」
「あ、いや、別にそういうわけじゃ……」
「気になることがあって、ずっと考えてたのよ」
 冷たい返答に心が砕かれそうになったが、しかし予想に反して彼女はその内容を話してくれそうな口振りだった。彼女の視線が辺りを往復する。そして何かを確かめてから、その唇がゆっくり動き出した。
「レーナのことがね、気になってて」
「レーナは――その、死んだんだろ?」
 彼女の口にした名前は、予想通りのものだった。青葉は困惑しながらもそう返す。複雑な気持ちなのはわかるからだ。たとえ敵であったとしても、自分と同じ姿の者が死ぬというのは気分がよくないだろう。しかも相手はあの謎のレーナだ。何を考え何のために戦いを挑んできたのか、今となってはよくわからない。梅花を助けたこともあった。だからなおさらその死は受け入れがたいだろう。彼女は全ての謎を抱えたまま消えてしまった。
「ええ、そうね。彼女は死んだわ。でも、もしかしたら、また戻ってくるかもしれない」
「は?」
 けれどもそう続けた梅花に、思わず青葉は間の抜けた声を上げた。驚いて彼女の横顔をまじまじと見つめてみたが、ありもしない希望にすがっているようには見えない。むしろ声には確信の響きがあった。彼が何と返答してよいのやら戸惑っていると、彼女は一旦ため息を吐き出した。そして彼に一瞥をくれる。
「彼女がそう伝えてきたの」
「彼女……ってレーナが?」
「そう」
「い、いつ?」
「ラウジングさんがレーナにやられた、その直後ね。彼女が私を見た時。その時何て言うか、私の中に直接響いてきたのよ。すまない、けれどもう少し待っていてくれ。また会おうって」
 目を見開く彼に、彼女は淡々とそう説明した。その際時折彼へと向けられた黒い双眸には、やや苦笑の色が混じっているようにも見えた。おそらく彼女は何度も自問してきたのだろう。それが都合のいい幻ではないかと、勘違いではないかと。だがいくら考えてもそれは彼女の中の真実だったのだ。はっきり口にできる程に。
「やっぱり、青葉たちには聞こえなかったのね」
「あ、ああ。ただいつのこと言ってるのかはわかる。レーナが微妙な顔でオレたちを見た時だろう? 微笑んでないあいつは珍しいって思った記憶は残ってる。変だなって思ったからな」
「そう」
 青葉は首を縦に振った。そう、そうなのだ。確かにラウジングが倒れた後、レーナは彼へと、否、おそらく梅花へと視線を向けた。いくら勝利が決まった後とはいえ、不自然なタイミングだった。いや、それよりもレーナの様子の方が不自然だった。しかし梅花の言うことが本当なら、それも納得できるだろう。あの時既にレーナは死を覚悟していて、梅花に謝ろうとしていて、そしてだがまた会えると宣言していたのだ。あの最中で。
「ってことは、つまり」
 青葉はおそるおそる口を開いた。その声音に呆然とした響きを感じたのか、梅花が怪訝そうに顔を覗き込んでくる。青葉はその瞳を見返して、動揺する心を静めようと努力した。けれども頭の中がこんがらがって、考えが上手くまとまらない。瓦解した常識を組み立て直せなくて、勝手に喉の奥が鳴った。
「レーナは死んだのに生きてるってことなのか?」
 彼の奇妙な問いかけに、梅花は否定も肯定もせず困ったように微笑んだ。それは久しぶりに見る、彼女の笑顔だった。

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