white minds

第八章 魔の影-6

 リシヤの森を再び訪れた魔光弾は、その場に立ちつくしたまま空を見上げた。葉の間から見える光が、星の瞬きのように目に眩しい。瞳を細めてそれを眺めながら、彼は小さく嘆息した。そう時間のかからないうちに、神々はやってくるだろう。魔族の気を逃す程、彼らは腑抜けてはいないはずだ。
「私が何をしたというのだ?」
 ぽつりとつぶやけば、それは緩やかな風に巻かれて空気へと溶け込んだ。もっともそれを神へと問いかけたところで、その耳には入らないだろう。彼らにとっては、魔光弾が半魔族であるという事実だけが重要なのだ。その行いがどうであれ、その事実だけが絶対とされる。
 あの男の名は何だっただろうかと、魔光弾は眉をひそめた。そう、確かラウジングとか呼ばれていただろうか。彼は記憶の底からそれを拾い上げた。
 あの男もまた、魔族に愛する者を殺されたのだろうか? だからあれほど憤っていたのだろうか?
 憎しみの込められた眼差しを思い出して、魔光弾は胸に手を当てた。彼が見た神は誰もが、あんな瞳をしていた。いや、魔族もだろう。戦渦の中では誰もが一人や二人、大切な者を亡くしている。それが長引けばなおさらのことだった。
 けれどもそんな目をしていなかった神がいたことを、彼は今でも覚えていた。封印されてなお、そのことは忘れられなかった。彼女の名はリシヤ。転生神と呼ばれた類い希なる神。そして彼を含め多くの魔族を、封印した者。
「だがその肝心の顔を覚えていないとは、不甲斐ないものだな」
 魔光弾はゆっくりとかぶりを振った。あの時のことは、鮮明に覚えているはずなのに忘れている。おそらく封印された際に記憶が混乱したのだろう。その瞳は覚えているのに、姿形をすっかり忘れているのだ。もっとも彼女を見たのはほんの一瞬だったはずだから、それも仕方のないことではあるのだが。
「弟たちよ、もうすぐなのか?」
 彼は顔を上げると、どこへともなくそう問いかけた。いや、声をかける相手はいた。この結界の向こうで『その時』を待ち続けている弟たち。無論問いかけたところで答えは返ってこないが、しかしそれでも魔光弾にはわかっていた。待ちわびた瞬間はもうすぐなのだと。
「来たか!?」
 刹那、膨れあがった気を感じて彼は振り返った。それまでぼんやりとしか感じられなかった神の気が、急速にこちらへと近づいてきていた。この森は結界や封印された者たちの気で溢れているから、見つかりにくいはずなのだが。しかしやはりそこは神なのだろう。もう動き出すとは。
「しかしこの数は……人間も混じっているな。この間の者たちか?」
 近づく気へと精神を集中させれば、その中に人間のものがあることは明白だった。いや、その方が多いだろう。ただ何とも判別し難い気も感じるため、違和感はあった。人間のようでいてそうでもなさそうな気が、中に混じっているのだ。もっとも、単にあのレーナと似通っているものがあるから、そう感じるのかもしれないが。
 だがそう悠長に考えている暇はない。すぐそこまで来る気を感じ取って、彼は構えた。そして隙なく辺りへと視線を配る。
「魔光弾!」
 彼が咄嗟に後退したと同時に、茂みから見知った男が飛び出してきた。森林を思わせる緑の髪を持つ、怒れる神の一人。ラウジングだ。その瞳はやはり憎しみをたたえていて、真っ直ぐ魔光弾をにらみつけている。
「今度こそは逃がさんぞ。どうやら邪魔者もいないようだしな」
 そう叫ぶラウジングの手には、見覚えのある剣が握られていた。準備は万端ということか。再び軽く構えた魔光弾は、これからどうすべきかを考えた。弟たちのことが気にかかるが、かといって神と戦いたいわけではない。だが簡単に逃がしてくれるとは思わなかった。上手く隙をつかなければ不可能だろう。
「戦いは好まないのだがな」
 ぼやくようにつぶやいて、魔光弾は瞳を細めた。都合のよい状況などそう起こらないと知りつつも、彼は心底それを願っていた。



 神技隊らがラウジングに追いついた時には、既に彼は魔光弾と対峙しているところだった。動かない二人の様子をうかがいながら、滝は息を詰めて拳を握る。
「呼ばれはするものの、オレたちって仕事ないよなあ」
 その背後では顔をしかめたダンが、そんなぼやきを口にしていた。普段なら不謹慎だと注意すべきところかもしれないが、最近それを痛切に感じているだけに、滝は何も言えなくなる。だから一瞥するにとどめた。その間も、二人のにらみ合いは続いている。
 魔光弾が現れたという知らせで駆けつけてきたものの、神技隊にはあまりやることがなかった。いつもそうだ。自分たちは何故呼ばれるのかと、そう問いかけたいくらいだった。万が一のためなのかもしれないが、しかし役に立った記憶もほとんどない。せいぜい火事を食い止めたことくらいだろうか。
「行くぞ!」
 滝がそんなことを考えていると、焦れたらしいラウジングが先に動き出した。彼が突き出した剣を、仕方なさそうに魔光弾が弾き返す。ラウジングが手にしているのは、この間から彼が愛用している短剣だった。一方魔光弾のは、それとは比べ物にならないほど重厚そうな長剣だ。適切な組み合わせとは言い難い。
「どうあっても戦うつもりなのか!?」
 しかし見たところでは、ラウジングの方に分があるようだった。そもそも魔光弾に戦う意思が乏しいためだろう。彼の叫ぶ声も意に介せずに、ラウジングは短剣を突きだしていた。魔光弾はそれを全て受け止めているが、反撃する気は皆無のようだった。きっと逃げ出す隙をうかがっているだけなのだろう。
「ちっ……」
 しかしそれでもラウジングが攻めあぐねているのは確かだった。おそらく剣の腕だけならば魔光弾の方が上だからだ。そのためか、ラウジングは一旦下がると舌打ちして剣を握り直した。それを持つ手に不必要な力が入っているのが、遠目にも滝にはわかる。
「ラ、ラウジングさん――!」
 刹那、突然感じた異変に、滝は勢いよく振り返った。思わず声を上げたコブシだけでなく、皆がその方へと視線を向けていた。
 空間が裂けている。そう認識すると同時に、嫌な予感が滝の背中を駆け抜けていった。これと似たようなものを以前に見た気がする。いや、実際見たはずだ。それは確か、魔光弾が蘇った時のことだった。突如裂けた空間から様々な色を含んだ何かが、いや、それでいて黒く見える何かがわずかに顔を覗かせている。
 途端、硝子が割れるより鈍く、陶器が割れるより薄っぺらい音が鼓膜を振るわせた。耳障りな音だった。それが響き渡るにつれて、奇妙な裂け目はどんどん広がっていく。
 何者かが蘇るのだ。
 そう理解するのに、それほど時間は必要なかった。まさか魔光弾がここを頻繁に訪れていたのは、これを待っていたのだろうか? 冷たい汗が背を流れ、滝は息を潜めてその裂け目を見つめ続ける。
「魔獣弾か!?」
 するとそれまでただラウジングの剣を受け止めていた魔光弾が、手を止めてそう声を上げた。よく見ればラウジングの動きも完全に止まっていた。その顔は青ざめ、見開かれた目は異空間をただ凝視している。唇もかすかに震えていた。
「魔獣弾」
 もう一度、名らしきものを魔光弾は口にした。するとそれに導かれたように、空間の裂け目からゆっくりと人影が現れた。小さくなる耳障りな音に混じって、草を踏みしめる足音が耳まで届いてくる。
「ようやく、出られましたね」
 姿を現したのは、漆黒の髪を持つやや華奢な男だった。深みのある緑色の衣服はゆったりと体を覆い、魔光弾よりはずっと身軽そうな印象がある。また身長も滝とそう変わらないくらいで、魔光弾よりは一回り程小さく見えた。
「なんという、ことだ……」
 苦渋の色をにじませて、ラウジングがうめいた。後悔しているのかと、聞かなくともわかる程にその顔色は青かった。魔光弾の様子からも、またラウジングの反応からも、その男が魔光弾側の者――すなわち魔族であることは明らかだった。おそらく魔光弾と同じく封印されていたのだろう。それが何のきっかけでか蘇ったのだ。
「お久しぶりですね、兄上。先に出ていらしたのですね?」
 裂け目から現れた男――魔獣弾は、魔光弾へと近づくとそう言って微笑んだ。だがそれはどこか背筋をぞくりとさせる、冷ややかなものを含んだ笑みだった。魔光弾がうなずくと、その赤い頭髪が揺れる。
「ああ。それほど前のことではないがな」
「そうでしたか。しかし目覚めてすぐ神に相対するなど、我々は運が悪いですね。いや、良いのかもしれません。考えずとも、やることがすぐ見つかるのですからね」
 そう続けた魔獣弾の眼差しは、真っ直ぐにラウジングへと向けられた。その他の存在など目に入っていないかのような、一種の熱を含んだ視線だった。無論神技隊のことなど、あってないがごとしといった風だ。
 魔光弾とは何かが違う。それを感じ取って滝は息を呑んだ。このままではラウジングが危険ではないかという、そんな考えが頭をよぎった。先ほどは魔光弾は反撃してこなかったからいいようなものの、魔獣弾も同じだとは考えにくい。それなのに傍目にわかる程、ラウジングは動揺していた。
「おい、魔獣弾――」
「まさかお忘れですか? 兄上。我々の目的を」
「しかしだな……」
「我々がなすべきことは一つです。今必要とされているのは、大量の精神なのですから」
 魔獣弾の意図がわかっているためか、それを魔光弾は止めようとしているらしかった。だがそんな弱い制止では効果はなさそうだ。魔獣弾は怪しげな笑みを浮かべると、その黒い瞳をラウジングへと向けた。ラウジングの喉が鳴るのがわかる。これはかなりまずい状況だった。
「それは困るんだよなあ」
 そのまま足を踏み出そうとする彼を止めたのは、別のところから降り注いだ声だった。そのからかうような声音には、滝も聞き覚えがあった。普段よく耳にしている声と同じ、しかしそれよりもずっと余裕を含んだものだ。
「レーナ!」
 数人の声が重なった。その中に滝は含まれていなかったが、気持ちは同じだった。見上げた先の木の枝には、華奢な少女がたたずんでいる。レーナだ。一本にまとめた髪を揺らして、彼女は楽しげな笑みを浮かべていた。いつからそこにいたのかはわからないが、全ての事情を知っているかのような顔だ。彼女の声が聞こえるまでは、誰もその存在に気がつかなかったというのに。
「お前は、また邪魔をしに来たのか!?」
「……レーナ?」
 ラウジングの怒声が森に響き渡った。と同時に首を傾げた魔獣弾が、問いかけるように魔光弾を見上げた。魔光弾は相槌を打つと、一瞬だけレーナへと双眸を向ける。するとレーナはかまわないとでも言うように、軽く首を縦に振った。
「未成生物物体と呼ばれる者の一人。お前も聞いたことがあるだろう? その五人目が彼女だ」
「み、せい……? ああ、それはもしかしてあの腐れ魔族の失敗作ですか」
「おい、魔獣弾」
 声を立てて笑い始めた魔獣弾を、珍しくも魔光弾がにらみつけた。さすがにその反応には面食らったのか、ラウジングが瞬きながら二人の方を一瞥する。予想外だったのだろう。この隙をついて動くべきところなのに、何をすべきか判断できていないようだった。もっともそうなのは滝たちも同じなのだが。
 一体何がどうなってるのだろう?
 ミセイセイブツブッタイという単語に覚えはなかったが、しかし腐れ魔族の失敗作というのが蔑称であることは滝にもわかった。しかし貶められたはずの当のレーナは、意に介した様子もなく微笑んだままだった。内心では不快なのか、それとも別段気にしていないのかは遠目にはわからない。
「どうも初めまして、魔獣弾。空間が何度も裂かれていたから、結界が弱まったんだな」
 それどころか穏やかささえ感じさせる口調で、彼女はそう魔獣弾に声をかけた。一方かけられた方の魔獣弾は、顔を歪めて彼女をちらりと見上げた。そんなやりとりを不安げに魔光弾は見守っている。思わぬ展開に困惑しているというところか。すがめられた瞳には、わずかに苦悩の色が浮かんでいた。
「小娘、私を知っているのですか?」
「もちろん、それなりに有名な半魔族三兄弟だからな。それに半魔族に関してはアスファルトの得意分野だろう? 魔光弾も一度研究所に来たことがあったし」
 彼らの間で交わされる会話は、滝たちには意味不明ものばかりだった。先ほどもミセイセイブツブッタイという単語もそうだが、アスファルトというのが何者かもわからない。
 ただ予想できることもあった。失敗作、研究所という単語から考えても、おそらくそのアスファルトという者が腐れ魔族と呼ばれているのだろう。そしてそれがレーナたちの『主』なのだ。
「腐れ魔族? 失敗作?」
 けれどもラウジングはそんな推測すらできていないようだった。いや、したくともできなかったのかもしれない。それはつまり、彼女たちの間に何か複雑な事情があることを示唆していた。この間レーナが言っていた、魔族は一枚岩ではないという言葉を裏付ける事情を。それを今のラウジングが納得して受け入れるとは考えにくかった。
「兄上はあんな男のところへ行っていたのですか」
「その、体の調子が思わしくなくてな」
「でしたらミスカーテ様のところへ行くべきでしょう。あんな腐れ魔族のところではなく」
 だがラウジングが納得しようがしまいが、やはり魔族の状況が込み入っているのは確からしい。レーナたちが魔族と関わりがあるというのもはっきりしているようだが、しかしその詳しい内容まではわからなかった。魔獣弾たちの話からでは全体像が見えてこない。かといってレーナがそれを説明してくれるとも思えなかった。
「そういった微調整はミスカーテの不得意分野だろう? われは魔光弾の選択は正しかったと思うよ」
「うるさいですね小娘! あなたに呼び捨てにされては、ミスカーテ様が不愉快です」
 それでも決定的な事実があった。魔獣弾がレーナを毛嫌いしているという、覆しようのない事実だ。彼女をにらみつける瞳は、ラウジングを見据えていた時のものとほぼ同じだった。違いは彼女の方が何も感じていないというところだろう。その眼差しには依然として、動揺の欠片も見あたらない。
「私も不愉快になりました。行きましょう、兄上。今日はとりあえず引くことにします。魔神弾が目覚めるのにももう少し時間がかかりそうですしね」
 それがさらに気に食わなかったのだろうか。小さく舌打ちをすると、魔獣弾はそう兄を促して踵を返した。わかりやすすぎる撤退の合図だ。するとはっとしたラウジングが、それを防ごうと足を踏み出した。その手から白い光弾が放たれる。
「させるか――!」
 だがその光弾はあっさりと、魔獣弾の結界に弾かれて霧散した。と同時に魔獣弾の姿は消え、ついでそれを追いかけるように魔光弾の姿も消え去ってしまった。それは瞬きをする間の出来事だった。滝は呆気にとられ、もう一度二人がもといた場所を凝視する。そこにはまるで誰もいなかったかのように、その存在の余韻すら残されていなかった。踏みしめられた草さえなければ、そう信じたかもしれないくらいに。
「逃げ、られたか……」
 ラウジングの苦い声が、辺りに染み渡った。結局今回も何もできなかった神技隊は、事態にすらまともについていっていなかった。それ故静寂を破ることもできずに、ただその場に立ちつくす。
 皆が途方に暮れ、そして無力感に打ちひしがれていた。時が止まったかのように、声を掛け合うこともできなかった。この場にいる誰もがそうだっただろう。ただレーナだけが一人、去った二人の方を見つめて悠然と微笑んでいた。

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