white minds

『いぶき』

 目の前に広がる大河を、少女は見つめていた。彼女の小さな視界いっぱいを埋め尽くす大河は、日の光を反射して瞬くように輝いている。その流れが、音が聞こえてくるようで、少女はにこにことしていた。いや、実際何かが『聞こえて』はいたのだ。それを両親や兄にはうまく説明できなかったが。
「綺麗だなー」
 まだ三つ程の少女の甲高い声は、風に乗って消えていった。それでも彼女が気にすることはなく、このままずっとこうしていられたらと願う横顔は心底満足そうだった。黒く柔らかい髪が綿毛のようにそよ風に揺れる。
「おーいリン! もうすぐ昼だぞー!」
 すると遠くから少年の呼ぶ声が聞こえてきた。少女――リンは振り返って目を凝らす。しかし何も見えず仕方なく立ち上がれば、彼女の視界に息を荒くして駆け寄ってくる少年の姿が入った。彼女の兄であるリュンクだ。癖のある髪を跳ねさせながら、リュンクは傍まで走り寄ってきた。
「ったくまたここにいた。本当ここが好きだよな、何にもないのに。母さんがずっと不思議がってるぜ?」
 やってきたリュンクはいつも通りの言葉を口にしてきた。そのたびに口をとがらせてきたリンは、今日もまた頬をふくらませるともう一度大河を見る。輝く水面は虹そのもののようだった。
「だって川が見えるんだよ? それにね、声が聞こえるの。風が川に話しかけてね、そうすると水が歌うの。とっても綺麗な声なんだから」
「またそれかよ。川が歌うわけないだろ? 風も喋るわけないし。勘違いだよそれは。単に風がうなってる音が聞こえるだけ」
「本当だよっ! お兄ちゃんには聞こえないだけだもんっ」
 しかし彼女の反論はあっさりと彼に斬り捨てられた。いつものこととはいえわかってもらえない悲しさに、彼女の視界が歪む。
 いつもこんな感じでリュンクは信じてくれないのだ。そしてそれは母親も同じ。ただ父親だけは嬉しそうに微笑んで頭を撫でてくれるが、本当に伝わってるかどうかはわからなかった。確信はない。
「ほらほら、わかったから昼食べに戻ろうぜ」
「信じてないでしょー」
「はいはい、リンだってお腹空いただろう? オレ腹ぺこ」
 一人勝手に歩き出すリュンクの背中を、リンは恨めしそうに見つめた。
 こんなにはっきり聞こえるのに。
 大河を一瞥したリンは、瞳を細めて歩き出した。その耳にはには大河の優しい歌声が、慰めるように聞こえていた。



「リン、また丘へ行ってたらしいな」
 リュンクとリンが手を洗っていつもの椅子に座ると、お皿を並べながら父――スザクがそう話しかけてきた。にこりと微笑んだ顔はすごく優しくて温かくて。顔を上げたリンは嬉しくなって大きくうなずいた。
「うん!」
「あそこは綺麗だろう? あの場所は自然に愛されてるんだ」
「すっごく綺麗だよっ」
 父親の言葉の意味はよくわからなかったが、リンは思ったことそのまま口にして笑顔を浮かべた。大河のことを考えるだけで楽しい気分になれる。それがすごく幸せなことなのなのだと、幼い頭ながらにも何となくわかっていた。椅子に腰掛けたスザクは相槌を打つ。
「あーあ、父さんがそんなことばっかり言うからリンが変になるんだ」
 けれどもリュンクの言葉がリンの気持ちを一気にしぼませた。変だと言い切られるのも嫌だが、スザクのせいにされるのはもっと嫌だ。
「変じゃないもん!」
「ははは……ほら、早く食べなさい」
 リンが肩を怒らせると、スザクはなだめるようにそう言ってきた。と同時に母ミャンランが席に着き、嬉しそうに顔をほころばせる。スザクの手が伸びて、その横にある花瓶を自分のすぐ脇へと避けた。この間の悲劇を避けるためだろう。ミャンランが花瓶を横倒しにしてご飯をめちゃくちゃにしたのは、つい先日のことだった。リンもよく覚えている。
「いっただきまーす!」
 するとリュンクの元気な声が部屋に響き渡った。ふわふわの大きなパンにかじりつく姿は行儀よくないとリンは思う。いつも怒られているのにまだ癖が抜けないのだ。案の定、スザクの叱責が飛んできたが。
「丘って言ったらさ、この前ニーガンがその奥の崖のところで面白いもの見たって。真っ白なクジャクだってさ! オレも見たいなー」
 それでもめげないリュンクは今度はお喋りを始めた。その瞳は爛々と輝いていて、今にも飛び出してきそうだ。リンはパンをひとかけら口に入れて白いクジャクを想像する。そんな話は聞いたことがなかった。あの丘には何度も行っているが、その奥には入っていない。
「まあ本当? リュンク」
 ミャンランは真っ赤なトマトを小皿に取りながら首を傾げた。綿菓子みたいな髪がその仕草に合わせて跳ねている。話を聞いてもらえたのが嬉しかったのか、リュンクは満面の笑みを浮かべて大きくうなずいた。
「ニーガンが見たって言うんだ。嘘じゃないよ!」
「でもこの前もニーガン君は確か……」
「あれは噂を聞いただけだって。今度はニーガンがちゃんと見たんだから絶対本当だ!」
 リュンクの声はさらに大きくなった。傍で大声を出されてリンは顔をしかめる。いつもそうなのだ。興奮したリュンクの声は頭に響きすぎる。
「白いクジャクか。風の女神の使いだな。リュンク、見に行きたいか?」
「うん! 父さん連れてってくれるの?」
「あそこは子どもだけじゃあ危ないからなあ。でも今日は父さん、午後も忙しいし」
「いいよ、リンと行くから。一緒に行くだろ? リン」
 だが話は妙な方向へとずれていった。突然名前を出されたリンは、パンを片手に瞳を瞬かせる。白いクジャクを見てみたい気持ちはわかる。だが丘の奥は危険だと、前々からスザクがずっと注意していた。
「二人でか? あそこは危ないから明日にしなさい。明日なら父さんも時間があるから」
「えー」
 だからスザクがそう言うのは目に見えていたのだ。不満そうに顔を歪ませるリュンクに、スザクは困ったような笑みを向けている。
「わかったな、リュンク。それにリン」
「はーい」
「うん、わかったよ」
 リュンクの返事は嫌々だったが、リンは笑顔でうなずいた。するとリュンクは恨めしそうに眉をひそめて蜂蜜いっぱいのパンをほおばる。諦めたらしい。安心したリンがパンともうひとかけら口に入れると、スザクの手がさっと伸びてきた。そして野菜を取り分けて彼女の目の前に置いてくる、
「野菜も取らないと栄養偏るぞ? リンはもっと大きくならないとなあ。あ、もちろんリュンクもだぞ」
「はーい」
「わかってるって。母さんじゃあるまいし」
「ちょっとリュンク!」
 からかわれて怒ったミャンランに声が、家に響いた。それはいつも通り楽しい昼食の、いつも通りの会話だった。



 昼食を取り終えるとスザクは仕事に戻った。ミャンランは洗い物を始め、台所からにぎやかな声が聞こえ始める。
「うーん、どうしようかなあ」
 手を洗ったリンは午後はどうしようかと首を傾げた。また丘へ行くのもいいし、絵本を読むのもいいかもしれない。この間確かミャンランが近所の人から本をもらっていたはずだ。
「リン」
 けれどもぐいっと手首を引っ張られてリンは目を丸くした。ミャンランに隠れるよう扉の陰から顔を出したのはリュンクだ。陰に引き込まれたリンはバランスを崩して座り込む。
「何? お兄ちゃん」
「リン、行くぞ」
「どこに?」
 尋ねるとリュンクは呆れた視線を向けてきた。手を引っ張って立ち上がらせてくると、決まってるだろとリュンクはささやく。耳に息がかかり、くすぐったくてリンは身をよじった。
「何寝言言ってるんだよ、クジャク見に行くんだよ」
「え!? だってお父さんが――」
「しーっ、小さい声で喋れって」
 リュンクはちらちら台所をうかがいながら口に人差し指を当てた。諦めたわけではなかったらしい。ミャンランは洗い物と格闘しているだろうから、気づいてはいないようだが。
「そんなに危なくないって。父さんは心配性なんだよ。だいたい父さん、いつも忙しくて明日だって急に仕事入るかもしれないだろう? それにこういうのってのは、大人がいない方が見つけられるものなんだよ。本でもそうだろ?」
 そう言われてリンは絵本の話を思い出した。確かに不思議な動物に会えるのは、いつも子どもだけで冒険した時だ。大人がそういうものに出会ったという話は読んだことがない。
「確かにそうかもしれないけど。でもお父さんに知られたら……」
「何だよリン、行かないのか? 弱虫だな」
「よ、弱虫じゃないもん! わかった、行くっ」
 それでも踏ん切りがつかないリンにリュンクは発破をかけた。弱虫なのはリンは嫌いだ。何故だか強くなければいけない気がしていたから、弱いと言われると反射的にそう答えてしまう。
 お父さんごめんなさい。
 リンは心の中でこっそり謝るともう一度台所の方を見た。ミャンランが出てくる気配はない。スザクが帰ってこなければ、こっそり出ていっても見つからないだろう。丘へ行く時もそうなのだし。
「じゃあ行くぞリン。父さんが帰ってくる前に戻ってくるんだ。いいな?」
 リュンクはリンの手を引くと歩き始めた。うなずいたリンは、背後を気にしながらも彼の後をついていく。だけどやはりミャンランが気がつく様子はなかった。音を立てないように家を出た二人は、丘への道をとりあえずゆっくり歩いていく。
「見つかっても丘に行くんだって言えばごまかせるしなー」
 リュンクは上機嫌だった。リンはともかくリュンクがそう言っても嘘だと見破られる気がするが、言えば怒られるのでリンは黙っておく。この辺りに家はなく、両親にさえ見つからなければ咎めてくる者もいなかった。聞こえるのは風の声や木々の揺れる音くらいだ。
「そろそろ大丈夫かなー?」
 すると辺りを見回したリュンクが口の端をにやりと上げた。その表情に嫌な予感を覚えて、リンは咄嗟に握っていた手を離す。汗ばんでいた掌に触れた空気が、冷たく感じられた。
「クジャククジャクー!」
 その次の瞬間、笑顔で叫びだしたリュンクは丘へと駆け出した。それまで我慢していたのが嘘のような大声を上げるその姿は、あっと言う間に小さくなっていく。
「ちょっとお兄ちゃん!」
 呼びかけてももう遅い。その背中はすぐに見えなくなった。リンはもう少しで四つになるというところ。対してリュンクはもう八歳だ。走られては追いつけるわけがない。
「もう、お兄ちゃんってば」
 頬をふくらませてリンも走り始めた。あの大声がミャンランに聞こえていればいいなと、時折確認のため後ろを振り返る。けれども誰も背後からは現れず、結局そのまま丘へと辿り着いた。そこを越えると少し低くなったところに林がある。絵本に描いてあるような静かな林に、きっとクジャクはいるはずだ。兄とクジャクを求めて彼女は道なりに歩いた。
「お兄ちゃーん!」
 だが歩いても歩いてもどちらの姿も見つからなかった。林はかなり広くて、ひたすら真っ直ぐ進んでも先がなかなか見えてこない。
「もう、一つも勝手にどっかいっちゃうんだから」
 文句を言いながら進んでいくと、ようやく崖のところまで出た。しかしそれでもリュンクは見あたらない。周囲を見回したリンはおそるおそる崖の端まで寄ってみた。そして膝をついて下を覗き込んでみる。
「お兄ちゃーん? まさかここから落ちたわけじゃあないよねえ?」
 この高さから落ちたらどうなるか。幼いリンでも考えればわかることだった。けれども見下ろした先に兄の姿はなく、彼女は安堵する。ならばどこにいるのか? ゆっくり立ち上がればますます崖の下が遠のいて見えた。何の音もしない。いつも聞こえる風の声もなく、妙な静寂に彼女は包まれた。いや、かすかに風の鳴く声が崖の下から聞こえてうる。
「え?」
 刹那、後ろで何か空気が膨れあがるような気配がした。彼女にはうまく言い表せなかったが、それまでと決定的に違う何かが生じたことだけは読みとった。彼女は慌てて振り返る。
「あ、れ?」
 そして見た。白く輝く鳥のようなものが、真っ直ぐ彼女目掛けて飛んでくる姿を。
「クジャク……?」
 その白い何かは彼女のすぐ横を通り過ぎていった。いや、行こうとした瞬間に鼓膜を破らんばかりの轟音がして、彼女は目を閉じて耳を塞いだ。突然のことに動揺したせいか、足下の感覚までなくなっている。体にかかっていたあらゆる重みから解放されたようで、彼女はおもむろに目を開けた。
「ふぇ?」
 見えたのは驚いたリュンクの顔、伸ばされた手だった。それが少しずつ視界の上の方へと移動していく。それは今まで経験したことのない、妙な感覚だった。
おかしい。
 そこでようやく異変を認識して彼女は足元を見た。先ほどまであったはずの地面がそこにはない。先ほど覗き込んだ崖下が見えているだけで、そこは空虚だった。
「やっ!?」
「リン!」
 崖の端まで寄ってきたリュンクの手は、彼女まで届かなかった。彼女から崖の端まではかなり距離がある。彼の手が彼女を捕らえることは、どう考えても無理だった。
「お兄ちゃ……」
 ゆっくり、ゆっくりとリュンクの姿が遠のいていく。その流れがあまりにのろのろとしていたから、それはあの白い鳥に吹き飛ばされたのだと彼女が理解するには十分な時間だった。おそらく一度高く空へと放り出されたのだろう。
 でも、今は落ちている。
 下を見ると地面がどんどん近づいていた。このまま落ちたら死ぬ。それを認識して彼女は青ざめた。
 このままでは死んでしまう。死んだら駄目なのに死んでしまう。死んではいけないのに死んでしまう。このまま会えずに死んでしまう。
「いや――――!」
 彼女は叫んで右手を空へと伸ばした。
 死んだらいけない。死んではいけない。生きなければならない。
 頭の中で、誰かのつぶやく声がした。だがそれが誰の声なのかなど考えている暇はなかった。無我夢中で伸ばした指先に、彼女は視線を駐中させる。
「風よっ!」
 何も考えずに彼女はそう声を上げていた。途端体を包む風が光り、大きく空気が震えたような感触がする。指先から溢れる何かの気配を感じた。と同時にずっと体が軽くなる。
「あれ? ……私、浮いてる?」
 気づけば彼女はもう落ちてはいなかった。風に包まれた体は重力から解き放たれ、見えない何かの上に立つように浮かんでいた。自分の体をしげしげと見下ろして彼女は瞬きを繰り返す。信じられなかった。死んでしまうと思ったのに、まさかこんなことが起きるだなんて。
「リンっ」
 崖の上からリュンクの声が聞こえてきた。リンが振り仰ぐと、リュンクは今にも泣きそうな顔で口をあんぐりと開けたまま固まっている。驚きすぎて反応しきれなかったようだ。
「お兄ちゃん、私、飛んでる!」
 もう死ぬことはないと安心したリンは、先ほどの白い鳥を求めて視線をさまよわせた。だがそれらしい姿はなく、その気配も感じられない。
 あれが白いクジャクだったのかな? すごく大きかった気がするけど。
 彼女は心の中でつぶやくともう一度崖の上を見た。リュンクもあのままにはしておけないし、このまま浮かんでいるままでもいられない。どうやったら上に行けるだろうかと彼女は首を傾げた。だが案はすぐに浮かんできて口元がゆるむ。
「風さん、手伝ってね」
 小さな声でそう言って、リンは目を閉じた。体の周りを見えない水が流れているような、そんな感覚がある。きっとこれは風の気配だ。いつも聞こえる風の話し声と同じ、風が生きている証だ。彼女はその流れに乗るようにと意識を集中させてみた。
 大丈夫。どこへだって行ける。
「――リン!?」
「お兄ちゃん、すごいっ! 私飛んでるよっ」
 目を開けると体を自由に動かすことができた。風の流れを掴まえれば上へ下へと自由に行ける。もちろん横にも飛べる。リンは嬉しくなってあちこちを飛びまわってから、ようやく岸上に降り立った。信じられないといった顔で座り込んだリュンクは、ぼーっと彼女を見上げている。
「リン、お前ひょっとして、技使い?」
 リュンクにそう尋ねられてリンは首を傾げた。聞いたことあるようでないような言葉に、自然と眉根が寄る。するとリュンクは座ったままの体勢で、両手を広げるとあれこれと動かし始めた。
「技使いだよ、わかんないか? ほら、ギリサレールさんが前に光の球を見せてくれただろう? あれ同じ。うわ、本物だよすげぇ!」
 説明しながら興奮したのかリュンクは立ち上がった。そしてリンの手首を握るとそのまま歩き出す。来た時と同じに引っ張られていくリンは、ふらふらしながら歩くリュンクの顔をそっと見上げた。リュンクの眼差しが一瞬リンへと注がれる。
「とにかく帰ろう。白いクジャクは、もういいや。リンが怪我しなくて本当に良かった。あ、いいか? 崖から落ちそうになったって話は内緒だからな。父さんたち心配するし、母さんきっと泣き出すから」
「う、うん」
 慌ててそう言うリュンクに、リンはうなずいてみせた。知られたらひどく心配されるのは彼女にもわかる。それにそんなこと言えば、リュンクが叱られるだろうということも。
 お兄ちゃんはあの白い鳥を見てないのかな?
 けれどももっと気にかかることがあって、彼女は背後を振り返った。白い鳥が飛んできた方向とリュンクが走ってきた方向は同じだったはずだ。それでもリュンクは見ていないらしい。
 後ろに広がる林は、何事もなかったかのように静かだった。始め見た時と変わらない静寂がそこを包み込んでいる。しかしその中にたくさんの『気配』があるように思えて、彼女は息を呑んだ。それはとても不思議な感覚だった。まるで世界が変わってしまったかのような、そんな感覚。
「白い鳥って何だったんだろうなあ」
 だからつぶやくリュンクに、リンは答えることができなかった。

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