white minds

『始まりの日』

 引っ越しというものは初めてだったが、シンにとっては憂鬱な出来事だった。片づけるのは割と得意でよく両親にも褒められていたけれど、いらない物を捨てるという行為がまず苦手だ。それなのに引っ越しではそれを強制される。
 しかし何よりも慣れ親しんだ家を離れるというのが、シンにとっては苦痛だった。近所の子とも仲が良かったし、何よりこの家が好きだったのだ。新しくもなく便利でもねいけれど、彼にとっての家はここしかない。だから家具がなくなりもぬけの殻になった家を見た時は、別の誰かの家みたいで胸が痛かった。
「シン、ほら早くしなさい」
 それでもシンは文句一つ言わなかった。母ミェンが顔をしかめながらそう呼んできても、彼は小さく返事しかしない。離れたくないだとか、もっとここにいたいだとか、我が侭は言えなかった。だから彼はうなずくと、母の後を追いかけて玄関を目指した。それでもやっぱり気になって後ろを振り返るくらいは、両親も許してくれるだろうか? そんなことをシンは思う。
『我が侭を言うな、ミェン。技使いとわかったからには、ここに入られないだろう?』
 引っ越しの話を聞いてなかなか寝付けなかったある日。夜に仕方なく両親の元を訪れようと思ったシンは、そうたしなめる父舞気まいきの言葉を聞いてしまった。引っ越しするんだという両親に嫌だと反抗したのは昼間のことだった。そう言えばそう告げる時のミェンの顔も、憂鬱そうではなかっただろうか?
 自分のせいで引っ越しするのだ。ここにいられなくなるのは自分のせいなのだ。
 胸中でそう繰り返したシンはすぐさま自室へと引き返した。それは幼いシンにとっては重大な出来事だった。
 シンが技を使えるようになったのは約一ヶ月程前。最初はちょっとした光の球が出せるくらいだったが、あっという間に彼の実力は周りを抜きん出ていった。八歳近く離れている向かい隣のケニルも、シンの遊び相手は無理だと最近はさじを投げている。
 技使いは技使い同士で固まって遊ぶことが多い。子どもの内はよく力の使い方を間違ったり乱用したりすることが多いためだ。そういった暴走をくい止めることができるのは、同じ技使いだけ。だからある程度実力が似通った子どもたちが、地域ごとにグループを形成するのが習わしだった。
 シンは、今いるグループでは収まりきらなくなったのだ。だからより強い技使いの多い地域に引っ越さなければならない。
 その事実に気づいた彼は、それ以後引っ越しは嫌だと言わなくなった。いや、言えなくなった。自分のせいで母も父も我慢しているのだと思うと、我が侭は口にできなくなった。
「ほら、シン。電車に遅れるぞ」
 玄関まで行くと扉が開いていて、問の前にいる舞気がそう声をかけてきた。いつも見慣れている優しい笑顔だ。シンはこくりとうなずくと、急いで父の元へと駆ける。ミェンが扉を閉め、鍵をかける音がした。それがひどくシンの胸に突き刺さる。
「何だか雨が降りそうね。舞気、雨具の準備はした?」
「ああ、大丈夫だ」
 頭上で交わされる二人の会話も、シンの耳には遠かった。ただ彼はじっと扉を見つめ、その姿を目に焼き付けておこうと懸命だった。



 電車に乗りワープゲートを通れば、引っ越し先へはすぐだった。全部合わせても二時間ぐらいだろうか? だが知らない場所というのはすごく疲れ、シンは既にくたくただった。足が重くて歩きにくい。飛んで行ければ楽なのになと何度思っただろうか。
 辿り着いた新しい家は、前のよりもずっと大きくて立派だった。そのせいかミェンは上機嫌で、あちこちを見回っては鼻歌を歌っている。気に入ったらしい。舞気も口には出さないがまんざらではいようで、居間を見回して満足そうに微笑んでいた。だから前の家がいいとはシンの口からは言えない。きっとこの短期間で作り上げた自慢の家なのだろう。前のは古くなった親戚のをもらったとか、そんなことを聞いた記憶がある。
「まずは挨拶しないとな」
 一通りの部屋を見終えると舞気はそう言い出した。その提案にシンは激しく首を横に振りたくなる。また歩き回るのは嫌だ。できるならもう少し休んでからにしたい。
「もう?」
 すると台所から顔を出したミェンが、小首を傾げてそう尋ねてきた。本当はもっと家の中を見回りたいのだろう。疲れ切ったシンとしては母の言葉に賛成だった。
 けれどもこういう時は父舞気に発言権がある。だから挨拶回りに行くことはほぼ決定だ。ちなみに食事に関しては母ミェンの方が強い。といっても二人とも押しや同情には弱い性質らしく、よく人がいいだのなんだのと言われていたのだが。
「こっちは天気がいいわね」
「そうだな。雨が降らなくて良かった」
 そう言いながら新居を出た二人の後を、シンはとぼとぼとついていった。確かに、前の家を出る時は今にも雨が降りそうな天気だったのに、こちらは気持ちのいい青空が広がっていた。遠いところに来たんだ。そのことが実感できて、シンは少し寂しい気持ちになる。
 しばらく歩くとどこからかいい匂いが漂ってきた。お菓子のように甘く、それよりももっと果実のようにみずみずしい香り。それがどこから漂ってくるのかと見回してみれば、道の先にある花壇が見えた。ということはこれは花の香りだろうか? こんなにいい香りの花は、前の家の近くにはなかった。
「あら、こんにちは、舞気さん。それにミェンさん」
 するとそんな声がかかり、シンは足を止めた。その数歩前では同じように舞気とミェンが歩みを止めている。声の主は、花壇の奥にある家の陰から出てきた。綺麗な女の人だった。腰まである茶色い髪はなだらかにウェーブしていて、それが風に乗ってふわふわと揺れている。手には大きなほうきが握られているところからすると、庭掃除中だったのだろうか。
「ああ、こんにちは、サヤさん」
「引っ越し、今日でしたっけ? ごめんなさい、私物覚えが悪くて」
「いえ、私が言い忘れてたのかもしれません。ですからこれからご挨拶に行くところだったんですよ」
 彼女の名前はサヤというのだろう。話からすれば既に舞気たちとは会っているらしかった。近くに住むとなれば当然かと、シンはぼんやりと思う。印象としては優しそうな人で、ほんの少し安心した。
「そうなんですか、すいません。ぎんは今いないんですよね。あ、こちらがお子さん?」
 するとサヤの視線がシンの方へと降りてきた。突然のことにシンは慌てて咄嗟にミェンの後ろに隠れる。サヤの目は綺麗すぎた。自分と同じ茶色のはずなのに、別の色のように思える。
「はい、そうなんです。今はちょっと人見知りしてるみたいですが……いつもは元気なんですよ。四つなんです」
 ミェンは困ったように苦笑して、軽くシンの頭に手を載せてきた。普段なら嬉しくてくすぐったくなるところだけど、今日は何かが違う。その手に込められた感情の苦さに、シンはほんの少し目を伏せた。本当は彼も挨拶した方がいいのだろう、それくらいはわかる。
「あら、本当? それじゃあ滝とは二つ違いね。でも今ちょうど遊びに行っちゃってて……もうすぐ帰ってくる頃だと思うんですけどねえ」
 サヤはそう言うと手をかざして遠くを見やった。子どもを捜す時の手つきとしては変だ。同じことを舞気やミェンも思ったのだろう、ほんの少し首を傾げていたが、しかしすぐにその疑問は晴れることとなった。サヤの顔に輝きが宿り、その手が空へと伸びる。
「あ、噂をすれば。戻ってきたみたいね」
 言いながら手を振る彼女の視線は、やはりかなり遠かった。シンはその先を見ようとゆっくり振り返り――
「……え?」
 見えた何かを凝視して、硬直した。それはシンたちに向かって真っ直ぐ近づいてきた。が、何がとは認識できなかった。ものすごい速さでやってくるそれは、どう考えてもシンに直撃する軌道を描いている。
「どーいーてー!」
「あわわっ!?」
 慌てるも時は既に遅く。シンは慌ててミェンを横へ突き飛ばしたが、自身が逃げるだけの時間はなかった。シンとその何かは、為す術もなくそのままぶつかる。頭がぐらぐらして体中が痛くて、どちらが地面でどちらが空かもよくわからなくなった。とにかく息が苦しくて頭が痛い。シンはかろうじて動かせる右手を頭に持っていった。大丈夫、血は出ていないようだ。
「青葉ー!」
 まだ目は開けられなかったが、そう叫ぶ声は聞こえてきた。それと同時に誰かがやってくる気配がする。確かこれを気というんだなと、もうろうとした意識の中でシンは考えた。前にケニルが教えてくれたのだ。そう言われれば先ほど飛んできた何かからも、そんな気配が感じられていた。
「いってー」
「青葉、だから勝手に飛ぶなって言っただろ!」
 うっすらと目を開けると、おろおろする大人たちの手前には見慣れない子どもがいた。子どもといってもシンよりは大きい。よく見ればその足下にはもう一人、小さい子どもが座り込んで頭を抱えていた。痛いと騒いでるのは小さい方だ。
「大丈夫?」
 するとその大きい方の子どもが、シンに向かって手を伸ばしてきた。サヤと同じ茶色い髪をした彼は、やはり同じ茶色い瞳をしている。力の入らない手を無理矢理伸ばして、シンは伸ばされた手を握った。シンのより大きい手だ。
「だ、大丈夫」
 答えながら立ち上がったシンは、何となくだが状況を理解した。シンに誰かがぶつかってきたらしい。その誰かというのは十中八九痛い痛いと騒いでいる小さい子どもだろう。会話からすると名前は青葉というようだった。その青葉は地べたに座り込んだまま、うーうーとうなっている。
「ほら青葉、謝れ」
 助け起こしてくれた子どもは、その青葉に向かってそう言った。助け起こす気はないらしい。だが青葉はむくりと頭をもたげると、不満そうに口をとがらせた。
「えーっ、だってこいつがこんな所にいるのが悪いんだもん」
「へりくつだぞ、それは。青葉が調子に乗るのが悪いんだろう?」
 怒られているというのにへこたれた様子もなく、青葉は文句を言いながらシンのことを指さしてきた。何だかシンは腹が立ってくる。ぶつかられた挙げ句指まで差されるなんて理不尽だ。それまで言いたいことを溜め込んでいた分、シンの怒りの沸点はかなり低くなっていた。
「だってこいつがー」
「こいつじゃない、シンだ!」
 気づくとシンはそう怒鳴っていた。不気味な静寂が、一瞬で辺りに浸透した。それまでおろおろしていた大人たちも、驚いたようにシンを見下ろしてくる。
 そう、シンが怒鳴ることなど今までなかった。嫌なことをされても文句を言えない性格だった。両親に似たのね、と誰かが言っていたのを聞いたことがある。自分でもそう思っていた。けれども今日は何かが違ったのだ。どこかが、いつもとは、違っただの。そのどこかがシン自身にもよくわからなかったが。
「何だよ、急に大きな声出すなよー」
「おい青葉、とにかく謝れっ!」
 立ち直りは子どもたちの方が早いようだった。助けてくれた子どもの拳骨が、いい音を立てて青葉の頭にのめり込む。これはさすがに痛そうだった。青葉は完全に沈黙し、地面にばたりと倒れ込んでいる。気のせいか頭から立ち上る煙まで見えるようだ。
「あ、悪い悪い。飛べるようになってはしゃいで、それ邪魔されたと思ってるから機嫌悪いんだ、こいつ。あ、オレは滝。で、こいつは青葉。シンも技使いなんだろう? これからよろしくな」
 助け起こしてくれた子ども――滝はそう言うともう一度手を伸ばしてきた。優しそうな人だけれど、先ほどの拳骨を思い出せばと怒らせると怖そうではある。シンも手を伸ばして握手をすると、こくこくとうなずいた。
「もう、滝ったら。紅さんに何て言えばいいの? 青葉君、こんなにして……」
 すると大人たちもどうやら現状把握ができたようだった。サヤが困ったように頬に手を当て、滝の顔を覗き込んでいる。舞気とミェンはというと、どう対応していいのか困っているようだった。それも仕方ないだろう。いきなりこんなやりとりを見せられたら普通は驚く。シンももちろん驚いている。
 しかしそんな中サヤに見つめられた滝は。気にした様子もなく笑顔で右手をひらひらとさせた。
「大丈夫だってお母さん。青葉ならあと十秒くらいで起きあがるから」
 滝はそう言ったが、にわかには信じられない言葉だった。地面に突っ伏したままの青葉は、指でつついたとしてもぴくりともしなさそうだ。あの時の音を考えても十秒というのは無理そうに思える。
 だが、青葉は起きあがった。きっかり十秒後に、勢いよく、それまで何事もなかったかのように起きあがった。顔は怒っているがそれだけ、つまりふらふらした様子もない。とんでもない石頭なのだろうか?
「痛いってば滝にい! 何するんだよーっ!」
「初めて会った奴にぶつかって謝らないお前が悪い。というわけで謝れっ」
 滝は無理矢理青葉の頭を、シンの方へと向かせた。さすがに青葉ももう一発拳骨を喰らうのは嫌らしい。むすっとしたままシンを見上げると、しばらくもごもご言いながらも謝ってきた。
「ご、ごめんなさい」
 けれどもそこにはあまり心がこもっていなかった。それでもシンは文句を言わないことにする。また喧嘩になれば、滝の拳骨がもう一度降り落ちてくるだろう。今度はシンにもお見舞いされるかもしれない。それはごめんだ。
「それじゃあ舞気さん、子どもたちは子どもたち同士にしておきましょう。挨拶に連れ回すと疲れさせてしまいますわ。自然とみんな、誰がどこの子かなんて覚えていくものですし」
 すると話が一段落する気配を感じたのか、サヤがそう言って舞気たちに笑顔を向けた。だが聞き捨てならない言葉があり、シンは慌ててサヤたちの顔を見上げる。
 それはつまりまさか、シンはこの二人と一緒にいなければならないということだろうか? 今日一日。
 その事実に直面してシンは内心で青ざめた。確かに挨拶回りは嫌だと思ったが、かといって彼らと一緒に遊ぶなどさらに嫌だ。たぶん、おそらく、きっと、すごく疲れるに違いない。足などどうでもよくなるくらいに。
「それじゃあオレがシンを案内するよ、母さん」
「あら本当? じゃあお願いね、滝」
「それってオレも行くの? 滝にい」
「当たり前だろ。お前一人にするなんて、危なくてできないって」
 勝手に進んでいく話に、シンは頭が痛くなった。やはり引っ越しは嫌いだ。新しい家も近所の人も嫌いだ。こんなに勝手な人たちと会ったのは初めてだと、彼は心底思う。
「子どもたちだけで大丈夫なんですか? サヤさん」
「技使いの子どもたちなんてそんなものですよ。まあ確かに滝たちはちょっと年が低すぎますけど……。でも何より飛べる子どもたちについていける大人がいないんですよねえ。何かあっても気でわかるみたいなので、大丈夫じゃないでしょうか」
 サヤの言葉は気楽だったが、なるほどとシンもうなずけるところはあった。空を飛べるようになると行動範囲はぐっと広がるのだ。となると好奇心旺盛な子どもに、大人の目の届く範囲で遊べというのは無理な話となる。飛べるようになる程の力を持つ技使いというのはそんなにいないが、ここは違うらしい。おそらくそれを理由に舞気たちは新居を選んだのだ。
「ほら、行くぞシン」
「あ、うん」
 滝に手を引かれて、慌ててシンは走り出した。先に飛び出した青葉はもう空を縦横無尽駆け回っている。確かにこれなら何かにぶつからない方がおかしいだろう。きっと青葉にはよくあることに違いない。
 飛びたくても我慢する必要はないんだ。
 青葉を見ているとそんなことを実感して、シンはほんの少し微笑んだ。ここは我慢する必要のない場所なのだ。滝の手を強く握ると、シンは大人たちの声を気にせず駆け出す。
 あれほど重かった足が、嘘みたいに軽かった。 

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